ジェット・リーかっこえぇ! である。

彼のイキり倒した立ち振る舞いは、もはや『臭い』を超え『お洒落』の線上に乗る。
「少林寺」(1982)が懐かしい…。

貸倉庫、FBI(ジェイスン・ステイサム)に銃を突きつけられ、両手を挙げるシーンなど、腰を斜に『この服どう?』と言わんばかりのワンカット。
イカしてるにもほどがある! 凄すぎる。

日本のヤクザをデフォルメしすぎているところや、ジェイスン・ステイサムの日本語が陳腐な事もあって、日本人が観るには少し、『オィオィ、そらないやろ』とツッコミどころ満載。

ヤクザの親分役である石橋凌の演技が、完全にハリウッド仕様で違和感タップリなところも、ケイン・コスギが張り切ってボコボコにやられるシーンも、さらには石橋凌の娘役デヴォン青木が日本語上手いのか下手なのか分からないのも、色んな意味で楽しめた。

いやぁ~、ジョン・ローン歳いったなぁ~…。


テンポや作り手の狙いだろうが、あまりにもシーンがテケテケ変わりすぎて、『サブリミナルかぁ?』とめまいする瞬間もあったが、どんでん返しもあり相対的には良い映画。

 水は生命(いのち)の源である。都市において水道は、この貴重な水を得る唯一の手段であり、私たちの暮らしや都市活動に決して欠かすことは出来ない。
 その一方で水道は、得てしてまるで空気のように、市民にとって「あって当たり前」のものとして思われているため、その重要性は忘れられがちである。
 しかし今日の水道は、長い年月にわたる水道局職員の、日夜たゆまぬ努力の末につくられ成り立っているものであることを忘れてはならない。
 昨今の水道事業を取り巻く環境は、水道水源の水質悪化、施設の老朽化、厳しい経営状況を背景とした民営化論議など、大変厳しいものとなっている。
 日常生活を営む上で、水道を使わない市民はほとんどいないといえる状況下、今こそ私たちは日本の水道事業が抱える問題点や矛盾点を知り、本当の意味で「市民の水道」を取り戻す行動を起こすことが必要だと考える。
 蛇口から出る水が出来るまでを考えれば、水道水源の水は、そのままでは飲むことは出来ない。浄水場でくみ上げた水をきれいな飲み水にし、1年365日1日24時間、絶やすことなくつくり送り続ける事が、水道局職員の使命である。
 一般的な大都市部、ここでは一番原水が汚れている大阪市を例として取りあげるが、浄水場では、取水口より水源の水を取り入れ、まず沈砂池という池で荒いごみや砂を取り除く。ごみや泥など、一定ここできれいにしておかなければ、その後の水づくりに影響が出るため、ごみ取りや一定期間後の池を洗う作業は重要である。また、池を洗うからといって、水づくりに影響がでるような事があってはならないため、その洗浄スケジュールはタイトなものにならざるを得ないのが実態であり、人手にかからざるを得ないこの作業について、経験則による効率的な作業の組み立てや、蓄積された職員の技術によって円滑に作業実施されているものである。
 沈砂池の水は、取水ポンプによってくみ上げられ、着水井という池によって水の量を調整し、凝集沈殿池という池において「硫酸ばんど」という薬品を入れ、細かな混ざりものを沈める。このときに出た沈殿物は、脱水処理されスラッジという泥の塊として、園芸用土やレンガなど再利用され、沈殿地や脱水処理に関わる施設の洗浄や点検なども、沈砂池の洗浄同様に重要な作業となっている。
 この後、大阪市では一度オゾン発生器によるオゾン接触池を通り、マンガンの酸化や有機物質の分解を行い、急速濾過池の砂の層で水を濾過し、さらにオゾン接触池にて、かび臭やトリハロメタンの原因となる有機物質の分解および消毒を行う。その後粒状活性炭吸着池でトリハロメタンの原因となる有機物質などを吸着したり、微生物による分解除去する。
 そして最後に、塩素接触池によってアンモニアの分解を行い、蛇口までの消毒力を確保するため、水道法上の残留塩素を残した上で、配水池-各家庭へと送っている。
 以上、水をつくる行程では、さまざまな水道局職員の厳しい監視の目や、日常点検や作業など蓄積された技術によって、各家庭や都市活動基盤への給水が行われているのがわかる。
 取水から水処理工程の水運用に関わる監視業務では、原水の水量や濁度など、天候に左右されやすい観点や、テレビ放送など国民の関心事における利用水量の変動、経年設備や装置の特性などからの経験則をもって、休むことなく監視し続けているのだ。
 また、点検や整備のセクションでは、日常の点検作業はもとより、経験測による危機管理や異常予測などを、長年の経験と知恵で十分に発揮しており、万一の災害時においても、水道局職員自らが使命を持って、ライフライン確保に執心することを市民に約束しているのもまた事実である。
 高度浄水処理とは、オゾン処理、粒状活性炭処理と同時に生物処理を加えたものを、大阪市では高度浄水処理といい、1980年代より大きく表面化してきたかび臭やトリハロメタンなどの問題に対して、より安全で良質な水をつくるために、大阪市では市民の要請に応える形で、1990年より巨費を投じて順次実施してきている。
 オゾン(O3)とは、酸素原子が3つ集まってできた強い酸化力のある物質で、かび臭の原因となる有機物質などを分解して異臭味を除去する効果がある。また、水中のマンガンの酸化や、水の消毒にも役立つものである。さらに粒状活性炭は、砂粒ほどの大きさで、小さな孔がたくさんあり、水中に溶けているかび臭の原因となる有機物質やトリハロメタンのもとになる物質などは、その孔に吸着されたり、活性炭の表面に付着した微生物に分解されて取り除かれるものである。
 一般的な高度浄水処理の概念は、通常の浄水処理工程(沈殿-濾過-塩素注入)に加えて、オゾン処理・粒状活性炭処理・生物処理の単独または組み合わせによる行程をプラスしたものを高度浄水処理といい、この大阪市における高度浄水処理の実態は、とくに原水事情の厳しい(原水が良くない)都市部による処理方法のひとつとして、他都市の事情とは若干異なる場合がある。
 言い換えれば、原水のきれいなところで高度浄水処理は必要のないものであり、限りある市民の財産を、技術革新の先端と称し総じて、高度浄水処理に走り使うことは、水道料金値上げへと直結するものだと考える。
 何よりも「原水を汚さない」という取り組みが、私たち市民に求められた思考のあり方ではなかろうか。
 また、「水道事業が民営化されたら」という観点で考えてみれば、広い視野では世界各国の「水道事業民営化」は、いまやその問題点を露呈し、決して市民・生活者のためにはならないということを示している。
 しかし、日本における水道事業の民営化は、自民党政権下での「官から民へ」という強力な民間活用推進のもと、郵政民営化が進む一方で、水道事業においても極めて静かに、かつ着実に進んでいる。
 事業体そのものを「丸ごと民営化」という実態は少ないものの、これまで水道局職員が長年蓄積した技術の上で成り立っていた業務や、浄水場など部分的なものを民間委託という形によって、市民の財産を切り売りされている状況にある。
 水道事業は、空気がタダなことと同様に、かかるコストだけを徴収するシステムの上で、「安心」「安全」「低廉」という水道法の精神を実践すべきである。
 いわゆる「公営企業」という事業実態のなかで、市民に信を問い企業債を起こし事業を展開する、その上で企業債償還は将来にわたって市民で返していこうという観点が、何よりも大事な事業形態ではなかろうかと考える。加えて「官」や「民」という考え方ではなく、「公」や「共」という視点が、今後非常に重要な考え方の基軸でなければならないのではと思う。
 水道局職員の日常業務では、とくに現場作業といわれるセクションで、過去の先輩から脈々と引き継いだ技術や、長年そこでいるからこそ分かる地域・流域の特殊性、機械の特性や特質を蓄積した、ヒトという財産がある。
 民間委託された業務における問題点は、大部分の業務がコスト論のみの観点であるがゆえに、根本的な不具合の解決や、水づくりトータルとしての観点が決定的に欠けている。
 また、災害時に象徴される復旧作業や近隣都市支援活動など、行政だからこそ発揮できる視点が、これまでの災害に見舞われた地域の実態として必要であることは明らかである。
 災害時、自らの家族の安否状況を度外視し、受け持ち区の応急給水に走った水道局職員の活躍は、公営でしか成り立たない性格の使命責任といえるのではないか。
 水道民営化論議の背景は、その自治体が抱える財政問題に、そのほとんどが起因するものである。また財政問題ゆえに、これまで水道事業に関わる投資や、積極的な技術継承をしてこなかった事が、その民営化論議を加速させている。
 いま、日本の水道事業、とくに都市部は総じて、高度成長時に建設や拡張された施設がほとんどであり、施設・設備の老朽化は否が応でも空前の「更新ブーム」である。さらには、これまでの事業基盤整備のための企業債は重く、その事業体にのしかかっているのが現状であり、民間委託や民営化・民活ツールはいわば「安易な問題解決の手段」として横行する状況にある。
 「赤字だから民間委託」という考え方は、「生命(いのち)の水」そのものの考え方を置き去りにし、単なる「財産の売り飛ばし」でしかない事実を、私たちは見極めなければならない。
 以上のことを踏まえ、「水道事業は民営化すべき」という考え方には与さないことはもとより、「市民が作り上げる水道事業」という論点が、今後ますます重要になってくるものではないだろうか。


世界の水道民営化の実態


世界の〈水道民営化〉の実態


 本書は2005年に英語版が発行され、世界各国の水道の実態を発信し、非常に話題となった。
 その後さまざまな言語に翻訳され、この07年5月には待望の日本語版が出版された。

 本書を手にとり、世界各国の「水道民営化」の驚くべき実態を知れば、誰もが当たり前のように水の恩恵を享受する事が出来る日本に住む私たちにとって、決してそれが当たり前のことでは無いことを感じることが出来る。
 水の問題について、詳細かつ国際的な知見を持つCEO(コーポレート・ヨーロッパ・オブザーバトリー)とTNI(トランスナショナル研究所)の共同チームが編集した本書は、すべての章が現場の人々によって書かれている。
 これは、世界の水道民営化の「本当の実態」を知る人々が、実地の経験を踏まえ詳細に記述されているという点において、詭弁や根拠なき主張などの耳障りの悪いものは混入しておらず、単なる情報本・啓発本といったものに留まらない事を意味している。
 水は地球上、人間を含むあらゆる生物にとって、なくてはならないものです。いま世界ではこの水をめぐって、専門的な知識を持たない普通の人々が、水に対する決定権を取り戻そうと闘いを展開している。それら生存権を懸けた闘いの記録が本書にはあり、これからも闘い続けなければならない実態が示されている。
 水を金儲けの道具とする多国籍企業の魔の手は、経済活動に対する水利用にとどまらず「生きていくための水」へと伸びている。あらゆる公的セクターが民営化され、一部の企業・資本家だけが利潤を独占し、結果的に市民にとってなんの利益もなかったのではないかというこれまでの歴史の中で、すでに水をめぐる闘いは始まっているのだ。
 その世界の実態を克明に記録した本書が、今回日本語で出版された意義は、水質・水量・事業運営ともに高水準のと言われる日本の水道事業だが、高度成長時代に構築・拡張された多くの水道施設が更新・再構築に迫られている実態のなか、財政難にあえぐ自治体や企業債の償還に苦しむ企業体の安易なコストカット路線に警鐘を鳴らすもので、公営堅持を訴えるほとんど市民にとって、非常に重要なツールとして高く評価できる。
 また、本書では日本の水道をめぐる諸問題と住民参加の可能性として、自治労や全水道といった水道労働者を代表する人々の記述もあり、今後の日本の水道事業を展望する上では、非常に参考的な内容も含まれていると言える。
 横浜市に始まる百年以上にもおよぶの歴史を持つ日本の水道は、単に公務員もしくはそれに準ずる職員がやっているという形式的なものではなく、そこには安全・安心・低廉という水道法上の精神を貫く多くの人々の血と汗と涙によって創りあげられてきたものである。
 いまや郵政の次は水道と言われている日本政府の民営化路線は、これら世界の実態を知らず、もしくは知っていながらの策動として、極めて注視しなければならない問題である。
 私たち市民の生存権が売り飛ばされるといっても過言ではないこの問題を、水がなくては生きてはいけない私たちひとり一人が、世界の水道民営化の実態を知り、あらためて水に対する認識を深め、世界の人々の闘いに共感し、未来の子どもたちへ繋いでいくことを、本書を通じて考えていけるものだと言える。