人工知能とディープラーニング | タロのブログ

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 小さいころ、将棋というゲームはそのルールからチェスよりも難しく、コンピュータでは決して人間にかなわないと言われていました。それが、ここ2~3年で急速に立場が逆転してしまいました。名だたるプロを打ち負かした人工知能(AI)将棋ソフトを作った人たちは、「もう目標は達成した」と次のステージに進むことを宣言し、人vsAIはAIの勝利で終幕を迎えたのです。

 

 自分が信じた世界は、30年ですっかり変わってしまったのでしょうか。いえ、そうではないようです。最近、人工知能とディープラーニングについて仕事で接触することがあったので、いろいろ情報を調べてみました。しかし、どうにも、AIとディープラーニングを利用しようとしている分野は「認識」だけのようです。

 

 人は、ものを認識して判断し分類します。「判断」と「分類」は、かねてからコンピュータの得意分野でした。身長170cmで体重90kgをインプットすると「肥満」と出力する。これは計算機の最も得意とするところです。たとえ、インプットに、性別や生まれた国、遺伝子情報を指数的に増やしたってPCは正確無比に答えを出します。

 しかし、コンピュータは「認識」が下手で、例えば写真から、その人が肥満であるかどうかを分類することができませんでした。人間は身長170cmで体重90kgの人の写真を観るだけで、ほとんど間違いなく肥満という答えを出せるのに、コンピュータには出せません。身長と体重の数値を入力をしてあげて、やっと分類ができたのです。

 

 いま、AIやディープラーニングという技術は、まず「認識」に使われようとしています。写真を見て、それが人間であることの認識、そして身長と腹囲の判断につなげることに使われようとしています。こうすることで、人間が計測と入力をする手間が省けることとなり、ますます人間にとって便利なテクノロジーになります。その果てには、iPhoneのシリーが我々のくだらないジョークにすら笑いを返してくれるようになるのです。

 

 え?たかが、そんなことに使われるの?と思われるかもしれませんが、人間の空間/光彩認識、言語認識はそれほど難しいことなのです。

 

 さて、人間の知能活動は認識⇒判断⇒分類だけなのでしょうか。いえ違います。我々には、分類のあとに「創造」という行為が必ず付きまといます。その創造の結果が美しかろうが醜かろうが、認識の結果として必ず付きまとうのだと思います。

 

 そう考えると、人工知能が人間を超えるのは、無理と感じます。創造って何でしょうか?例えば、認識した世界の打破が創造かもしれません。認識した世界の最も究極な形を求める「極形」が創造かもしれません。その二つが、我々の身体の疲労と精神の高揚のバランスを取りながら、なにか目に見えぬ光に導かれている状態が我々の創造だと感じます。芸術の世界に置き換えてみると、印象派やキュビズムが出現した世界はまさに打破と極形ではないでしょうか。

 

 また、創造の結果を判断できる人は、誰一人いないのではないでしょうか。創造をAIに任せた結果、AIの答えに、かつて我々が通過した道は見ても、我々を超える世界は見れないではないでしょうか。それこそ我々は、人知を超える世界を社会的バグとして排除してきたのではないでしょうか。創造は、常に我々にだけもたらされ、我々だけがもてあそぶことができる、ふざけたお遊戯なのです。