時代という言葉への責任の置換 | タロのブログ

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今日、遅い朝食を取った後に家事をこなしながら、ぼーっと沖縄戦没者追悼式を見ていました。

 

そこで、中学生くらいの女の子が、追悼の詩として平和に向けたメッセージを朗読していたのですが、ある一言にとてつもない違和感を覚えました。それは、「生きた時代が違う。ただ、それだけで(悲しく残酷なことが起きた)」という趣旨の言葉でした。

 

この言葉を聞いて思ったことは、「時代」という都合の良い言葉に、自己の反省点などの本来見つめなければいけない真因を置換しまっていると感じました。自分的には、時代が違うことは、運命でもなんでもないと思います。時代とは、一人一人が作るものであって、それを望んだ人が居たからこそ訪れた世界であると思うのです。

時代を選択できなかった子供が戦争に巻き込まれたことは悲劇なのですが、この言葉を大人が我が物顔で納得してはいけません。

 

70年以上前の戦争で、たくさんの不幸な人が生まれました。しかし、同時に、たくさんの幸せな人が生まれたという事実を絶対忘れてはいけません。その戦争の結果、世界の秩序が固められたことも忘れてはいけません。社会とは組織とは、はたまた世界とは戦いで成り立っているのです。

例えば、我々は雇われて給料をもらってのほほんと暮らしています。しかし、なぜそれで生きているのかというと、組織の下でたくさんの弱い人たちを撃ち殺した結果であることを忘れてはいけません。我々が動物であったころから、だれかを食べないと生きられないという事実を忘れてはいけないのです。

 

少し話が飛躍しましたが、自分が言いたいのは、女子中学生の声を借りて、大人たちの悪意を「時代の犠牲」に置換させてはならないのです。我々は、時代がくれば同胞だって食べるのです。そのうえで、道徳とは何か?人間とは何か?を考えることを、日本人はおろそかにしすぎなのではないでしょうか。

 

そこを考えないと、また時代が来ればあの惨劇が訪れるのだと思います。