タロットを勉強していると、どうしても神秘思想について知る必要が出てきます。
不勉強の私など、死ぬまでに十分な知識を得ることなんてまずないだろうという気がしています。
それでも、衰えた記憶力と集中力を振り絞って、ひーこら言いながら神秘思想の本をめくっていると、どうやら神との合一を目指すには、知識を学んで瞑想しなければならないといったようなことが分かってきます。
そもそもが知識不足の私ではあるのですが、実は今までこの瞑想とやらをやってみようという気になったことがありません。
若い頃だったら、興味本位で、とりあえずやり方を調べて、自己流でも何でも一度は試してみたかもしれないのですが、今はどうもそういう気が起こらないのです。
ウェイト=スミス版タロットの「女帝」のカードに描かれた人物は、屋外の自然豊かな場所で、柔らかそうな椅子にふんわりと腰掛けています。
このカードは、そんな絵のイメージ通り、自然に身を委ねることを示唆しています。
私の勝手な想像ですが、本当に自然に身を委ねた時の感覚は、瞑想によって得られる感覚とすごく似ているのではないかと思うのです。
私は小学生の頃、よくこんな経験をしていました。
晴れた土曜日の午後、学校から帰る道すがら、ふと見上げると、澄んだ青空がどこまでも続いています。
明日は日曜日だし、家に帰ったら、何でも好きなことができる。
「なんて自由なんだろう」
途端に、とっても幸せな気分に包まれて、どういうわけか、学校の友達、皆のことが大好きだという気持ちが湧いてきます。
それはほんの数秒間のことだったかもしれません。
澄んだ青空と幸せな気分が一つに合わさったような一体感と高揚感。
その時の私には、おそらく周りのことなんて何一つ気にならなかったと思います。
十代になると、道を歩いていても、周囲のことが気になって、そんな風に空に集中することができなくなりました。
嫌いな人もたくさん出てきて、一瞬でも彼らのことを大好きだなんて思うことはできません。
自然と自分の気持ちが合わさるなんてことが全くなくなってしまったのです。
どこか旅行に出かけて「きれいな景色だなぁ」と思っても、頭のどこかで「これはきれいな景色なのだ」と意識している自分がワンクッション挟まっているような気がします。
神秘思想について詳しい方からすれば、こんな私の小学生時代の経験と瞑想で得られるものは全くの別物なのかもしれません。
しかし、私は澄んだ青空と自分の気持ちがあんな風に一つになるのであれば、ある意味、それでもう十分だという気がしてしまうのです。
つまり、そういった状態を意図的かつ技巧的に自分自身にもたらすことの意義がよく分からないというのが、瞑想してみようと思わない理由なのかもしれません。
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