マルセイユ版タロット「教皇」とウェイト=スミス版タロット「司祭」の違い | さざ波スワン ~タロットと旅する~

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伝統的なマルセイユ版タロットの「教皇」と、神秘思想を取り入れたウェイト=スミス版タロットの「司祭」に共通するキーワードの一つは「信じる」です。
ただ、その「信じる」の意味を掘り下げていった時、両者の間には当然のごとく違いが生じるように思います。
今日はその違いについて考えてみようと思いました。

 

マルセイユ版タロット「教皇」

 


ウェイト=スミス版タロット「司祭」
 

ホラー映画の金字塔「エクソシスト」の直接的な続編と言われる「エクソシスト 信じる者」という映画はご存じでしょうか。
主役は十代の少女二人で、遊び半分で行った降霊術によって悪魔にとりつかれてしまうという物語です。
今回はネタバレを含むあらすじ(青文字)を簡単にご紹介します。
もし、これからご覧になる方はご注意ください。

 


フォトグラファーのヴィクターは新婚旅行中のハイチで地震に遭い、身重の妻を失います。
その時、奇跡的に助かった娘のアンジェラは今では十三才。
ある日、アンジェラはヴィクターに内緒で、友達のキャサリンと森で降霊術を行い、亡き母を呼び出そうとします。
ところが、二人はその後、行方不明になります。
三日後、農場の納屋で発見された二人は、足にやけどを負ってはいたものの、無事に保護されます。
病院で一通りの検査を終えると、アンジェラは帰宅しますが、ヴィクターは徐々に彼女の様子がおかしくなっていくことに気付きます。
アンジェラの奇行は狂暴さを増し、手に負えなくなったヴィクターは彼女を精神病院に預けざるを得なくなりました。
同じ頃、キャサリンにも同様に異変が生じていました。
キャサリンの家族は信仰心の篤いキリスト教徒で、キャサリンが森で何か悪いものにとりつかれたのだと考えます。
愛する妻を天災で奪われたことをきっかけに、ヴィクターは長らく神を信じないと宣言してきました。
しかし、隣人の看護師アンから、誰も知らない彼女の秘密をアンジェラが知っていたことを告げられ、ヴィクターは真剣に悪魔祓いを行うことを考え始めます。
かつて娘を悪魔祓いしてもらった経験のあるクリス(「エクソシスト」で悪魔にとりつかれたリーガンの母親)、元々修道女を目指していた看護師のアン、スピリチュアル系ヒーラーのビーハイブ、神父、牧師などの協力を得て、アンジェラとキャサリンに壮絶な悪魔祓いが試みられます。
信仰心を失っていたヴィクターも娘を助けるために必死に「主の祈り」を唱えます。
死者や負傷者が出るなか、悪魔は二人の少女のうち一人を選ぶよう、取り引きを持ち掛けます。
選ばなければ、二人とも命は助からないというのです。
悪魔の言うことに耳を貸してはならないという教えに背き、我慢できなくなったキャサリンの父親が「キャサリンを選ぶ」と叫んだ途端、キャサリンは息を引き取り、地獄へと連れ去られます。
実は、選んだほうを地獄に連れていくという悪魔の罠だったのです。
生き残ったアンジェラをヴィクターは堅く抱きしめたのでした。


悪魔祓いを扱うホラー映画では、悪魔が仕掛ける巧妙な罠や嘘が話を盛り上げます。
個人のトラウマや、封印していた罪悪感など、心の最も弱い部分を突いてくるのが悪魔の常套手段です。
「エクソシスト 信じる者」でも、元々信仰心の篤かったキャサリンの家族が最後の最後で、自分の娘を助けたいばかりに悪魔の罠にはまってしまいます。
逆にずっと神を信じないと心に決めていたヴィクターが、悪魔の取り引きに耳を貸さず、神による救済を信じ抜きます。
皮肉と言えば、皮肉な結末かもしれません。
しかし、実はここに、冒頭で述べた「教皇」と「司祭」の「信じる」の違いを見ることができるかもしれないのです。

マルセイユ版タロットの「教皇」はその名の通り、カトリックのローマ教皇を指しており、言わば、そういった模範的な人物の教えをとにかく信じるというニュアンスを持っています。
つまり、右も左も分からない自分に教えを授けてくれる人物の言うことをまずは丸ごと信じてみることが、人生にとって重要な時があるというわけです。
一方、ウェイト=スミス版タロットの「司祭」は、信じるものが自分自身の中にしっかりと根づいているようなニュアンスを持っています。
それは生まれ持ったものであると同時に、自分が過去の経験から学び取った、ある種、崇高なものとも言えます。
生きるための知恵ではなく、良心や道徳心のような尊い感覚を伴った、心の底から、「これは人生にとって、自分にとって、本当に意味のあることだ」と確信できる類いのものです。

また、それは自分ではなく、他人のために何かをするという動機ともつながっています。
そう考えると、キャサリンの父親の「信じる」行為はどちらかと言えば「教皇」的で、ヴィクターのそれは「司祭」的であったと見ることができはしないでしょうか。

ところで、昨今、クラウドファンディングという資金集めの方法が広く活用されています。
個人やグループが自分たちのプロジェクトを実現するため、その意義や目的を説明し、賛同者が金銭的サポートを提供するというシステムです。
これもまた、そのプロジェクトを「信じて」お金を出すという意味で、「教皇」と「司祭」のカードの世界観から語ることができるかもしれません。
ある人が「このプロジェクトにお金を出してもいい」と思えた時、その動機は次のどちらかではないでしょうか。

 

「この人(プロジェクト)を信じてサポートしよう」

 

あるいは、

 

「この人の生き様には自分にとって見逃せない何かがある。だからサポートせずにはおれない」

 

です。

言うまでもなく、前者は「教皇」的世界観、後者は「司祭」的世界観に基づいています。

さらに言うと、こうした動機の違いはそもそも、プロジェクトを行う当事者の動機の違いの反映であるとも言えます。

 

単に現実的な利益を追い求めているのか、

 

それとも

 

人生を生きることの意味を魂の次元で模索しているのか。


もちろん、どちらが良いということではありません。
それは「信じる」という行為の次元の違いなのです。

 

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