タロットカード「皇帝」と映画「ゆれる」 | さざ波スワン ~タロットと旅する~

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ウェイト=スミス版タロットの大アルカナ(独特な絵が描かれた22枚のカード)の理解の仕方の一つとして、各カードを人間の成長過程として捉えるというものがあります。
これはちなみに、レイチェル・ポラックさんが『タロットの書 叡智の78の段階』という本の中で提唱している考え方です。


ものすごく簡単にご紹介しますと、まず0番の愚者を除きます。
そして、残りのカードのうち、1~7番を「社会における人生の外的な関心事」、8~14番を「自分が本当は何者なのかを見つけるための内的な探求」、15~21番を「霊的な気づきの発達と元型的エネルギーの解放」という各グループに分けるのです。
15~21番はちょっと分かりづらいかもしれませんが、1~7番と8~14番はなんとなく、お分かりいただけるのではないでしょうか。
ただ、「じゃあ、数字が若いカードが出てきたら、自分はまだまだ未熟ということか・・・」などと考えてしまいそうになりますが、決してそういうわけではないのです。
これはあくまでも、カードの理解の仕方であって、実際の人生においては、1番の魔術師が大切な時もあれば、21番の世界が大切な時もあり、それらは必ずしも順番通りにやってくるわけではありません。

今日は、このグループ分けで見た時、「社会における人生の外的な関心事」のグループに入っている4番の「皇帝」を取り上げたいと思います。

 


レイチェル・ポラックさんによると、「皇帝」は、良い意味でも悪い意味でも、社会や法の力、特に法に従わせる権力を示しているそうです。
私たちが、「よし、これをしよう」と決めて、何らかの活動に従事することができるのも、社会の安定があるからですよね。
そういった意味では、「皇帝」は社会活動に参加していく段階を示していると言えます。
社会活動に参加していく時、大概の人は、素の自分のままではいられません。
社会の荒波に挑んでいくには、何らかの仮面(ペルソナ)をつける必要がありますよね。
自分の意志を実行に移すため、人はこうした仮面をつけてまずは社会に適応しようとするわけです。
しかし、そんな風に仮面をつけて武装を続けていると、ある時、ふと「あれ、本当の自分って何だろう?」という疑問が湧いてくることがあります。
すると、今度は、それまで外に向いていた意識が内面へと向けられていくわけです。

ここで、こんな「皇帝」のカードがよく分かる映画をちょっとご紹介したいと思います。
2006年公開の邦画「ゆれる」をご存じですか。

 


ネタバレしないよう、あらすじをざっとご紹介します。

猛(オダギリジョー)は東京で華々しく活躍するフォトグラファー。
そんな彼が母親の法事で、ガソリンスタンドを営む父と兄・稔(香川照之)が暮らす実家へと戻ってきます。
稔は我が道を行く猛とは違い、家業を継ぎ、父や周りの人間に気を遣いながら、実直な人生を送っています。
稔のガソリンスタンドには二人の幼なじみの智恵子(真木よう子)が働いています。
稔と彼女の仲睦まじい様子を見た猛の中に、ちょっとした征服欲のようなものが湧きます。
女性の扱いに手慣れた猛は、自分に好意を抱く智恵子を簡単にものにしてしまいます。
その晩、家に帰ってきた猛に、稔はいつもと変わらぬ態度で接します。
翌日、猛、稔、智恵子の三人は渓谷へ遊びにいきます。
猛が渓谷にかかった吊り橋を渡り、林の中で写真を撮っていると、吊り橋の上で稔と智恵子がもみ合っている様子が目に入ります。
猛の目の前で、智恵子は吊り橋から落下します。
彼女の死は最初、事故として片づけられるはずでした。
しかし、稔が「自分のせいで彼女が落下した」と警察に自首したことで、稔は裁判にかけられることになり、猛は証言台に立つことになります・・・。

とあらすじはここまで。


この映画には二つの面白さがあります。
一つは、智恵子の死が事故なのか殺人なのか、最後まで分からないというサスペンス的な面白さ。
もう一つは、好きな女性をあっけなく弟に奪われた兄が実直な仮面を脱ぎ去って、本当の自分をさらけ出すという人間ドラマの面白さです。


この兄弟は田舎に生まれ、田舎で育ちました。
しかし、二人はそれぞれ、真逆の人生を歩むことになります。
猛は実家のガソリンスタンドを手伝うことを拒否し、上京してフォトグラファーになり、地位も金も、そして女も手に入れます。
稔は田舎に残り、ガソリンスタンドで働きながら、いちゃもんをつける客に頭を下げ、頑固な父親の面倒を見ながら、好きな女性にも積極的になれないまま、地味で単調な生活を送っています。
一見すると、猛は自分のやりたいことをやっていて、稔は自主性もなく、ただ父親の言いなりになっているかのようです。
しかし、私が思うに、二人とも確かに、自分で自分の人生を決めているはずなのです。
つまり、田舎を飛び出した猛も、田舎に留まった稔も、ちゃんと「皇帝」のカードの段階を踏んでいるのです。
それがたまたま、フォトグラファーであったか、家業であったか、の違いだけです。
しかし、猛も稔も、智恵子という女性の死をきっかけに、「皇帝」の段階でつけた仮面が窮屈になってきた、あるいは自分に合わなくなってきたと悟ったのではないでしょうか。

私たちは人生において、何度となく「皇帝」の段階を踏まなければならないのかもしれません。
「皇帝」を経験して初めて、自分というものの外枠がはっきりと見えるようになるのではないでしょうか。
外枠があればこそ、いずれ自分の内面に目を向けることができるようになる、そんな気がするのです。

 

さざ波スワンの

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