高市首相が今回の選挙で国民に問いたい筆頭とされるのは「責任ある積極財政」である。
だが、これは「計画経済」の別名なのではないか。それは1世紀前にも世界で流行し、第2次世界大戦という壮大な破綻の大きな背景となった。
これまでの日本政府は、経済に対して、税制や法規制によって間接的に関与してきた。成長分野に対して税制上の優遇措置や規制緩和を行うことで促進するという形である。関税による国際競争の抑制もこれに含まれる。
これに対し、自民党の公約を見れば一目瞭然であるように、公共事業の範囲を超えて、自民党が成長分野であると考える(どのような基準で?)諸分野に対して税金を元手に積極的に投資を行っていくというのが、「責任ある積極財政」である。並べられている諸分野は「今この瞬間の観点」では確かに成長分野と理解されているものであるだろう。
だが、国家予算は基本としては1年単位でしか動かせず、企業と違って経済効率性だけで動くわけでもないため、これらの分野が今後うまく成長しなかったとしても迅速に切り捨てることはないだろうし、経済効率以外の論理が持ち出され、ダラダラと継続することも十分考えられる。例えば、小野田大臣は自国のレアアース発掘を経済的な観点だけで考えてはならないと発言している。だが、採算が取れない場合に、赤字がどこまで許容されるのかの基準は示していない。政治判断で、つまり「お国のために」赤字を垂れ流し続けることになるかもしれない。鉄道が地方の成長産業ではすでになくなっていた時期にも運行を続けた国鉄のように。投資家による投資ではないので、政治家・官僚との癒着も懸念される。
世界のマーケットが日本の財政の健全性に疑問を示し始めているのは、ひとえに、こうした経済的な非効率性への懸念と見ることができるだろう。要は、国家が上から、成長分野と考える産業を育成し、統制していく、かつての社会主義諸国と同じ方向性なのである(あくまでも方向性であって、社会主義諸国のような完全な計画経済・国営企業の肥大化までは当面到達しないにしても)。例えばソ連は重工業に徹底的に投資し、一時は資本主義諸国を上回る勢いを持っていたが、次第に小回りの利かなさが足かせとなっていくことになった。
それにしても、高市自民は、なぜこのような時代錯誤ともいえる方向性に前のめりなっているのか。高市首相個人の思い付きということでは決してないだろう。むしろ、世界のある潮流に流されているのである。
それは、しばしば「経済安全保障」という名のもとで、実際には「自給自足」(autarky)が進められる傾向だ。トランプ関税はその最も安っぽい象徴であるが、中国の経済的脅しに動じないよう、経済を自立するとか、為替変動にも振り回されない経済を作るなどといった掛け声もその方向性にある。むろん、トランプ関税にしろ、中国からの脅しにしろ、(後者については首相がきっかけになっているとはいえ)国外の動きであるので、日本単独でどうこうできる問題でないのは確かであり、それが最も厄介な点である。右派が勢いづくのには理由がある。
だが、仕方がないと言ってこの流れにそのまま身を任せるのでは、1世紀前と同様の事態がじわじわと進行していくことを放置することにしかならない。
最近日本語訳が出版されたタラ・ザーラ『世界に背を向けて――戦間期の反グローバリズムと大衆政治』によると、1世紀前、第1次世界大戦後の荒廃に打ちのめされていたヨーロッパ諸国でも、国際連盟という国際協調の流れの一方で、反グローバリズムの流れが始まっていた。「自給自足」を強めていこうという流れだ。それは、大戦時に食料供給網を止められた苦い経験によっていた。1929年の世界恐慌への対応として、ブロック経済化が進んだというのは世界史でも学んだところである。ソ連に限らず、各国は経済の計画化を推進していった。社会主義の当初の理念では社会や国際的な不平等を是正する観点から経済は計画されたが、非社会主義国を含め実際に各国が進めたのは、グローバル経済からの独立性の確保だった(原著230頁)。
反グローバリズムの動きは、トランプ政権下で顕著であるように、また、ロシアなどの権威主義国家において以前からそうであったように、国内では外国とつながっているとされる人びとや組織に対する弾圧を帰結しがちだ。
実際に経済が本当の意味で国内だけで自給自足できるなどということは、1世紀前であっても不可能であるので、「自給自足」というのは、実態というより意識の問題にすぎない。だが、各国がそこへの競争を始めると、ある程度経済の関係も弱まりながら、国内の「異分子」の排除とともに、国境が強く意識されていくことになる。これが自動的に戦争につながるわけではないにしても、何かの拍子に一度始まった戦争がとてつもない規模になってしまったというのが第2次世界大戦だ。
いま、世界は間違いなくそうした流れを強めている。国連等の、同盟関係に基づかないグローバルな国際機関の軽視はその象徴(あるいは症状)である。
経済が縮小しているとはいえ、日本は世界経済への影響をまだそれなりに持つ。そうした国が率先してこの流れに与することが何をもたらすのか考えないわけにはいかない。
国内での外国人排除の動きは、こうした流れの一つの帰結であるとともに、さらに国境を過剰に意識させる「儀式」にもなる。前の記事でも書いたように、仮に外国人が全員排除された場合、国境を意識させるための「儀式」の次の生贄になるのは、国内の誰かである。それを決めるのは、すでに強大な力を持つに至った国家の中枢以外の何ものでもなくなっているだろう。
これを防ぐ方法は一つしかない。国内の分断拡大の防止と、地味なところでは実績のある国連を軸とした、世界をブロック化しない形でのグローバルな協調関係の再始動への働きかけの双方を同時に進めることである。それを怠り、自国の国境ばかり意識することに終始すると、たとえ十年や二十年は持ちこたえても、そのあとに一国ではどうすることもできない圧倒的な破滅が訪れることになるだろう。