このブログのポイント
〇言論の自由は自由放任では達成されない
〇講演会の是非は、キャンパスへの入構の是非の問題でもある
〇個別事例における振る舞いと政治的効果は分けるべし
〇社会運動の成否を国会の議席数のみで測るべからず
東大五月祭における参政党党首神谷氏の講演会中止騒動は、Xにおいて、主に言論の自由の問題だとされ、また反対運動は参政党を利するだけで悪手だったとされる傾向が見られた。そうした側面は一概に否定できないにしても、それでも残る論点についてここでは考えてみたい。今回のことに関して誰かを糾弾するというよりも(爆破予告犯は最大限糾弾されるべきだが)、同じようなことは今後も起きるだろうから、その時に備えて議論を整理しておきたい。
<言論の自由と規制の関係>
今日、経済学の古典アダム・スミスが掲げた自由放任主義で市場経済がうまくいくと考える人はほとんどいない。市場の自由にだけ任せると、やがて時の強者による寡占が進む。それは消費者には不利であり、「時の強者」は次の時代に強者でないかもしれないのにその座に居座り続けることになり、経済は停滞する。つまり自由放任の結果、経済は不自由になる。
同様に、言論の自由に関して、同時代のフランスの哲学者ヴォルテールが語ったとされる、「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」というのを、現代においてもリベラルの矜持だと単純に考えることはナイーブにすぎる。
「癌は戦後に作られた」というデマや、「外国人」という雑な括りのうえに立った局所的事実の誇張による事実上のデマの発言主を体を張って守るというのは、滑稽である。無差別に機関銃を乱射する者のほうを、職業選択の自由だと言って身を挺して守るようなものかもしれない。
デマや憎悪を煽る表現は、「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、健全な言論空間を阻害し、恐怖に駆られることで発言する機会を逸してしまう人を生み出す。つまり、デマを垂れ流すことを反省しない者に発言の自由を認めることが、他人の言論の自由を制限するのである。言論の自由を守るためにこそ、言葉の暴力は制限されなければならない。
もちろん、「言葉の暴力」の認定にも慎重さが求められる。単なる思想の違いや自分の見解との相違だけで、そのように認定することは厳に慎まなければならない。
一つの基準として、事実に基づかずに、あるいは事実を著しく捻じ曲げて、他人の人生を左右しかねない発言を行い、かつ、そのことに対する指摘を受けても訂正をしないということを繰り返す者については、言葉の暴力を行使する者と認定することができるだろう。どのぐらい制限されるべきかは悪質度合いにもより、もちろんこれも難しい判断にはなる。過去にそのような発言をしたことがあっても、反省し、必要な補償をしているのであればこの限りではないだろう。
<「言論の自由」以外の問題――差別主義者の施設利用の是非>
今回の(おそらく愉快犯による)爆破予告は論外であることは衆目の一致するところだろう。問題にされているのは、学生団体が教室の前で座り込みを行うことで発言の機会を封じかねなかったことの是非である。「言論の自由」はこの構図から論点になった。このことについての考え方は上記の通りだ。しかし、あまり注目されていないのは、教室が東京大学という法人の施設であるということだ。
法人の施設を使用できるのは、その法人に許可された者に限られる。今回神谷氏を招へいした団体はもちろん事前にその許可を得ているため、この点について瑕疵はない。だが、許可を出した側(大学当局ではなく、大学当局から信任を受けた学際実行委員会)に関しては、この限りではない。デマや差別を振りまく者の講演のための使用を許可することは、東大憲章に照らして適切だったか。総合的な判断が必要であり、即断できる性質のものではないから、どちらに転ぶにしても苦渋の決断であり、今回の許可が明らかな誤りとまでいえるかはわからない。ただ、大学の構成員の総意に従属する法人の施設内での問題であるため、言論の自由の一点だけを振り回せばよい問題ではないのは確かだ。
<すべては政治に従属するのか>
今回、左派とされる学生などが右派政党の党首の発言を封じるという構図になったことで、「これだからリベラルは嫌われる」という、昨今のX上での常套句が繰り返されることになった。今回の動きが、政治的にはむしろ参政党を利するものであることを揶揄する発言も見られた。要するに、政治的な失点を防ぎたければ、神谷氏には自由に発言させておけばよかった、というわけだ。
確かに、全国的な趨勢で見れば、今回の事態は、案の定というべきか、神谷氏の「養分」にされてしまったところはあるだろう。しかし、神谷氏のデマや憎悪表現による被害を受けたり、差別主義者の入構に恐怖を覚えたりするのは局所である。「これだから」とか「敵を利する」などと発言する者は、要するに、部分は全体のために我慢しろ、と言っているようなものである。むろん、その点で工夫できる余地があれば工夫するに越したことはないとしても、だ。
例えば、社長からハラスメントを受けてきた平社員がいる状況を想像してみる。社長を訴えることは、会社のイメージを棄損し、経済的には、その平社員自身も含め、損害を受ける可能性が高い。「お前さえ我慢してくれれば」という、有形無形の圧力をこの平社員は感じるだろう。それでも、被害は訴えるべきであり、それを周りは支えるべきだ。また、被害の訴え方ばかりを論うべきではない。
この例はことを単純化しすぎではあるにしても、「リベラルのイメージを悪くしないでくれ(or リベラルイメージ悪化ざまぁ)」という圧に関して、これと似た構図は一切ないだろうか。
<国会だけが政治の場なのか>
なんでも政治、実質的には国政に還元してしまう者は、そもそも国会を政治の中心に据えすぎている。社会のなかでの政治は、国会の議席だけで測れるものではない。もちろん国会の議席は重要だ。しかし、国会ないし国家がカバーしない事柄について、いかに工夫をするかということもまた、政治の重要な側面である。
例えば、近年まで日本政府は日本に移民はいないという立場を久しくとってきたので、事実上の移民に関して真剣に取り組むこともなかった。事実上の移民や移民がいる社会のケアは、移民が多い地域の地方自治体と市民のボランティアや社会運動が担ってきたのである。
移民に関する必要な政策を実現するためには、国会で多数の議席を獲得したうえで進めるのが一番効果的ではあるだろう。だが、現状そのことに伝統的に後ろ向きである自民党を切り崩すのは容易でないことはもはや常識である。自民党は、地主、農業、建設業、財界といった、AI時代も代替されない強固な基礎票を持っている。他の政党はもともと不利なのだ。
しかし、日々困っている移民をはじめとした、票にならないマイノリティがこの国に暮らし続けていることは厳然たる事実だ。これまでもこれからも、彼らのケアをするのは、結局は国会以外の、国会の(少なくとも自民党系政党の)射程に入らない人びとなのである。国政選挙での有利不利の話にその次元の話を従属させるべきではない。国会外の支援団体をいかに保っていくか、国会が関心を向けない人びとをいかにケアするかという観点からも考える必要があり、そこには(どうしようもない基礎票を除くと)浮動票相手の国政選挙の論理とは異なる論理があることをまず想像すべきだろう。