名称:菅原道眞(天神様)・天満大自在天・日本大政威徳天
系譜:平安時代の公家で学者・文人・政治家
神格:文神。学問の神
神社:北野天満宮(京都府)太宰府天満宮(福岡県)湯島天神(東京都)など


人間の霊が神となった代表例として、あまりにも有名な菅原道真公。
道真公を祭神とする天満宮・天神社系の神社は、全国10441社と言われ、日本の神々の中でも分社の多さでは第4位である。そのほとんどが、京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮から勧請されたものである。


道真公は、代々学者だった家に生まれ、長じて学者、文人、政治家として卓越した能力を発揮した。幼少期から文才に優れ、醍醐天皇のときに、55歳で右大臣に上りつめた。ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争に巻き込まれ、藤原氏の讒言により失脚し、九州太宰府に左遷されてしまう。都を去るときの有名な和歌は次の通り。


「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」


その道真の愛した梅が、一夜にして京都から太宰府に飛んできたのが、大宰府天満宮拝殿横に今も咲き続ける「飛梅」である。春、境内のほかの梅に先駆けて、真っ先に、華やかに花開く。


道真は、太宰府に左遷されて2年後に、無念の思いを残しつつ死んだ。その後、門弟らによって建てられたのが太宰府天満宮である。


道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異(落雷や火災、疫病)がつづくようになった。人々はそれを菅公の祟りとして怖れた。もちろん、最も恐怖したのは、道真を陥れた貴族たちだったにちがいない。


人々の恐怖は時の天皇を動かし、北野にあった天神廟の傍らに霊廟を建て、天満大自在天と呼んで、その霊を慰めたのが、道真公の神界デビューの始まりであった。


怨念を残して死に、祟りをなす死者の霊を「御霊(ごりょう)」といい、その御霊を神に祀り上げて怒りを鎮めようと生まれたのが「御霊信仰」である。道真も最初は、そうした御霊信仰のなかで、神様としてスタートした。


しかし、おそろしい「御霊」としての信仰が落ち着くにつれ、学問や文芸に秀でた道真公の人物や業績に目が向けられるようになり、次第に、今見るような「学問の神様」として崇敬を集めるようになっていった。


ちなみに、「学問の神様」というと品行方正を絵に描いたような堅物な人物像がイメージされるかもしれないが、道真公には、正室が生んだ一男一女の嫡子以外に、生母不明とされる十男三女の子どもがおり、子沢山な艶福家でもあったらしい。