エンドロールのその先に。

エンドロールのその先に。

映画の可能性を信じる。

Amebaでブログを始めよう!
これが初めての映画レビューとなります。

今年に入って150本以上映画を観ていますから、以前観たものから書こうと思っていたのですが、あまりにも考えさせられる作品だったので、本日観た作品を記念すべき初レビューに選びました。

本日鑑賞したのは、『パパが遺した物語』

監督は『幸せのちから』でおなじみ、ガブリエレ・ムッチーノ
主演は『レ・ミゼラブル』で共演したこの2人
有名作家ジェイク・デイヴィス役のラッセル・クロウと、ケイティ・デイヴィス役のアマンダ・セイフライドで、親子という間柄です。

父親ジェイクと暮らしている時のケイティと、心理学専攻の大学院生となったケイティが交互に描かれていきます。

ストーリーは、実際に映画を観ていただきたいので書きませんが、この作品のテーマは「家族愛」「親子愛」です。

「家族愛」「親子愛」というテーマに対して、まだ親という立場になっていない僕が発言することに対して違和感を持たれてしまうことは覚悟で続きを書きます。

幼少期に親から受けた教育というのはかなりの比重をしめて人格を形成すると僕は思っています。

ジェイクは娘ケイティに最大級の愛を注ぎます。
それは禊でもありましたが、それ以上に心からケイティを愛していたのです。

しかしある時、ある障害が親子に立ちはだかります。
ケイティはその障害がどれほどのものなのかをイマイチ理解できません。
ジェイクは一人で戦います。ケイティのために必死で戦うのです。

親子で幸せに暮らしていくために執筆に没頭するあまり、ケイティのことを顧みる余裕がなくなってしまいます。
悲しいことが積み重なり、ケイティは愛を感じることが出来ないまま育ってしまうのです。

幼少期の悲しい思い出が、ケイティの人格を悲しいものへと導いてしまったのです。


確かに生きるためには、手段が目的と同位置に来るほどに努力をしなければならない時があるのだと思います。

今、塾講師をしていて感じることは、親からの愛の表現が、あまりにも「良い教育を与える」という手段に頼りすぎてはいないか?ということです。

親御さんからの月謝のおかげで仕事ができている身分としてはあるまじき発言なのかもしれませんが、正直なところ、特に小学生の受験生を見る時に可哀想に感じてしまいます。
そこに本人の意思があるのならば、僕はそんなことは感じないのですが、はっきり言って感じるのは親御さんの意思です。

学歴社会というステレオタイプの価値体系に幼い頃から投げ込まれてしまえば、そのレールを疑うことが出来ないまま育ってしまうことになるのではないでしょうか。
もちろん高学歴なのはある種の努力の証明ですから否定しませんし、実際、僕も分類させるならば高学歴の大学です。
しかし、それは高校時代に、自分がやりたいこととして選んだ選択です。
そこに親の強い意思などありませんでした。

実際、大学での知り合いの中にも中学受験で進学校に合格し、勉強一筋で努力してきた人がいます。
僕のそういう人に対する印象は「つまらない」というのが一番です。
学歴が最大の自負となってしまっているのです。

でも学歴が本当にそれほど重要なのか。
僕はそうは思いません。
学歴は、あくまでも一つの武器にしか過ぎません。
良い会社(昔ほど安泰ではない大手神話に基づいた)の入り口では使えるかもしれません。
でも、結局はその人の実力、人格があってこそ良い仕事が出来るというもの。
仕事だって生きるための手段です。

だからこそ、ジェイクはケイティへの愛を疎かにしてはいけなかった。
ちゃんと寄添わなければならなかった。

僕の中でこの映画から学んだ「家族愛」「親子愛」とは、「ずっと寄り添うこと」
将来、こんな親父でウザがられるかもしれないけど、嬉しい時も、辛い時も、ずっと寄り添って、のびのび生きさせてあげられるように育てていきたいと思いました。