Maya

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カードリーディングはご自身との対話。
自分の外側にではなく、内側にこそ答えがあります。
自分の苦しみや悩み、今感じている閉塞感について、カードリーディングを通して、解決の糸口を一緒に探っていきませんか?

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こんにちは。

最近の私。
ずっと本を読んでいました。
とにかく今時間があるので、

どうしようかということで、
最初は色々なことに手を出していましたが、
何かほっておくと、本に手が伸びるので、

自分がするがままに任せていました。
そして読書です。







池田晶子(哲学エッセイ)さんの本を読み、

再びエックハルトトールさんの本を読み、

哲学の本を読み、過ごしていました。





自分が哲学の本を読むようになると思っていなくって、

意外でした。
まだ読み始めたばかりなので、

私の感じたことにすぎませんが、
何か「点と点が繋がり線になっていく」感覚があります。





「哲学」とは何か難しい学問だと思っていたのですが、
実は「生きること」の不思議
について考えるのが

哲学だと初めて知りました。





生きることをテーマにする。それは壮大です。
生きる≠生活のことではありません。

ここに「存在している」、そのこと。

よっぽど暇でないと考えないようなこと

なのかもしれません(笑)。

 

 

 

 

 

始めに言っておくと、

ここには答えがないんですよ。
手っ取り早く、

「あなたはこうするといいよ!」というのがない。
つまり、自分で考えるしかない
答えはないから探してもずっと答えはないのですが、
考えを進めると、

何となくこうゆうことなのかな、

と腑に落ちてくる部分がある。
それでも、考えることに終わりはない。
今それを知っている、そんな感じです。





そして、これも本当に知らなかったこと。
それを先人達が繰り返し繰り返し考えて、

感じて、書き残しているのですよね。
それが古典ですね。
それが哲学書と言われるものであったり、

ずっと読み継がれているもの。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、セネカ、

だいぶ飛んで西田幾多郎?

鈴木大拙は仏教学者?

自分の無知を痛感する日々。

 

 

 

 


古典を分かりやすく書いているものもあります。
誰かが言っていて面白いなと思ったのですが、
古典が「カルピスの原液」だとすると、

この古典を易しく書いてあるものは、

カルピスを薄めて作ったものです。

カルピスウォタ―がさらに薄くなっていく感じです(笑)。
最初はそうした本から読んで、

最後は原液にたどり着く。





岩波文庫から出ている本がたくさんあると思うのですが、

あれは字も小さくって難しい。見るからに。
私は岩波文庫にはまだ手をつけていなくって、

光文社の古典新訳文庫を読んでいます。 
セネカの「人生の短さについて」から始めました。
易しい翻訳に時代背景の説明もふんだんです。

とっても良い本です。

 

 

 

 

 

 

生きていること、存在の謎、

一見あたりまえのことについて考えること。

きっかけは繰り返し書いている

エックハルトトールさんでした。
カナダのスピリチュアルティーチャーです。
 

 

 

 

 

日本ではスピリチュアルというと、

「スピリチュアル」という言葉が

独り歩きしている感がありますが、

エックハルトトールさんは、

キリストやブッダ、ヒンズー教の経典、

その他哲学の古典をベースにして

お話される語り手のような方で、

とってもわかりやすいです。
日本ではそれほど有名でない気がするので、

不思議です。





その後が池田晶子さんです。
池田晶子さんは全くスピリチュアルではないし、

どちらかというと、スピリチュアルを「亜流」と言って

かなり手厳しいです。

オカルトとか新興の宗教に対して

「妄信」せず疑った目で見ることを勧めています。





私の中でも、

スピリチュアルと宗教とオカルトの違いは

分かっている気がしても、

ちゃんとした線引きを説明

できないところがありました。

タロットもしかり。

世間でも色々な解釈がごっちゃになっていて、

宗教的と感じるものをむやみやたらに批判したり、

毛嫌いする傾向にあるなと感じています。
それもどうなのか、と思いつつ、

説明できない。





今、この読書をすることによって、
哲学や心理学も含めてどこかごっちゃになっていたものが、

少しづつ、どう違うのか、

どう融合しているのか見えてきて、

何と言うか、すっきりしてきています。





このすっきりするというのは、
色々な「情報」だったり、

「誰かの言っていること」に

惑わされないという感覚です。
人が色々言うこと

(このブログも他の人にしたらそのひとつでしょう)、

インターネットに書いてあることは、

物事の表面をとらえているものに

すぎないかもしれない。
それこそ、カルピスを薄めたものですら

ないかもしれません。





池田晶子さんの本をきっかけにして、

私はエックハルトトールさんの言うことも、
「鵜呑み」にするのは違うなと

考えるようになりました。
これは進歩だと自分でも感じています。

 

 

 

 

 

例えば、人は「死んだらどうなるのか?」という疑問。
これについても、いくつかの見解があります。
最大の謎でしょう。

エックハルトトールさんも様々な先人たちの考えや

臨死体験をされた方の例を踏まえて

説明してくれます(ここでは省略します)。

 

 

 

 


ただ、彼も今を生きている人間です。

彼も死んだことがあるわけではない。

だから一つの仮説というか、

考えとして聞いておくことが大切でしょう。

ひとつの物語として、なるほど、と受け止める。
私はそのことをはっきりとわかって、安心しています。
ただ「信じる」ということは、

「考える」をすっ飛ばしてしまうことだからです。





この数カ月、これらの思考の

行ったり来たりがとっても深い学びになりました。
今、色々な情報が飛び交っていますよね。
「科学」を絶対だとする考えにも、同様に、

本当にそうなのか?と考えることが

大事だと思います。

 

 

 

 

 

科学の進歩が目覚ましいことはひとつの事実。

でも、池田晶子さんは

「科学」で全てを分かった気になっていることも、

ひとつの「宗教」ではないかと疑問を呈しています。

科学で分かっていることは、

ほんの一握りなのですから。

 

 

 

 

 

何を信じるのか?の前に、

自分で考えていくことが大切ですよね。
当たり前のことを考えることの

楽しさと大切さに気付けた時間でした。
この思考の行ったり来たり、思索とは

何かを悩んでマインドに囚われてることとは別の

「考えること」で、

エックハルトトールさんが言っている、

本当のマインドの使い方なのかな、と

知ることが出来ました。

ソードのエース的な感じ。

(ここで、久しぶりのタロット登場)