お風呂の幸せ 公衆浴場 時間ですよ
世界的な流行のコロコロナウイルスもお風呂で流せば予防効果あり・・
古い話ですが、戦時中、公衆浴場での燃料となる石炭や木材は配給制でした。浴場を経営していた祖父は、組合で相談していたのです。それも3月10日・東京大空襲の以後は、配給はなくなってしまったそうです。
それでも湯屋(公衆浴場)には警察署(管理していた)から、店を開けるように厳しいお達しがあった。焼け出されて湯屋の需要が増えたのです。
焼け残った廃材を自力で集めました。大きなリヤカーです。店の三輪トラックは、ガソリンが配給されないので軍へ供出されていた。
三輪トラック(1950年代型)
風呂に入れないとノミや虱が湧き、不潔な環境では人間は簡単に病気になります。
戦後しばらくは、あまり知られていないことですが、花柳界の女性や、突然の「いわくある娘さん」は、裏の母屋から出入りしていました。店をあける前に、ひっそりと静かに入浴したのです。
公衆衛生上の知識は保健所から指導されています。(伝染病、温度管理、清掃)
街の人たちから公衆浴場の従事者は大切にされました。番台(2人)、釜たき(1人)、髪あらい・あんま(1人)、住み込みの従業員と家族などで賑やかでした。母屋の若い女中さんが皆の食事を作ってました。
・・釜たきは、流しの湯がぬるいと年寄りのお客さんから怒鳴られました。
時間ですよ
お風呂に入れるのは幸せな気分になれたのでしょう。
但し、湯屋の子供は、ぼんやりした子が多いと評されていた。懐かしき昭和w