”三 玄” 人生はゴールのない無限の障害飛び ◆蟻の命(再掲) | taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢

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巡礼の旅で、危機に瀕する日本を感じました。
未来の孫たちへ、「日本人の霊的遺伝子」を繋げる責務が、今の世代にあります。

哲人クニちゃんのブログより

「 三 玄 」


臨済禅師などが活躍された唐時代、
禅宗は中国の古い思想である
道教の影響を受けますが、
三玄の 「 玄 」 も、本来は道教の言葉で、
「 玄のまた玄、衆妙の門なり 」 ( 老子 )
などとあるように、幽玄、深遠、神秘的な根源、
といったような意味で使われています。
( 松原泰道禅師 )

● 三 玄 ( さんげん )
人生はゴールのない無限の障害飛び

道教の思想では、根源とは天地のこと。
その天地の根源は、
まことに微妙かつ深遠で、
とても言葉で表現できません。
老子はこれを 「 道 ( どう ) 」 と言っています。

「 三玄 」 は、 『 臨済録 』 にある言葉で、
「 句中玄 」 「 体中玄 」 「 玄中玄 」 の
三つの玄をいうとあります。

「 句中玄 」 の句というのは、
梵字 ( ぼんじ ) の最初の字音
「 あ 」 から始まり最後の字音 「 ん 」 で終わる五十字、
この一字一字に幽玄性があるということです。
この 「 あ 」 「 ん 」 は、
いわゆる 「 阿吽 ( あうん ) の呼吸 」 の阿吽です。
お寺や神社によくある
一対の仁王像や狛犬 ( こまいぬ ) のうち、
口を大きく開けているほうが 「 阿 」 、
口を閉じているほうが 「 吽 」 で、
五十音はそれによっていると言われています。

落語のほうに、
人間は生まれてくるときは
「 あーあー  」 と言って生まれてきて、
死ぬときには 「 うんうん 」 言って死んでいくから
「 阿吽 」 だという面白い話があります。

「 句中玄 」 、
すなわち言葉の一字一字に幽玄性があるという考え方をとると、
仏教の場合は真言密教になります。
一字一字に霊験がある、
不思議な力があるという考え方です。

「 阿 」 というのは、
サンスクリット語では 「 no 」 とか 「 not 」 といった否定語です。
ですから、阿弥陀如来の 「 弥陀 」 は英語の 「 meter 」 で、
サンスクリット語の 「 ミータ 」 、 
すなわち測ること、 
したがって 「 阿弥陀 」 はそのミータを否定する、
測ることを否定する。
つまり、測ることができないということで、
無量、無限という意味になります。
阿弥陀は無量無限。
釈尊はそのはかりしれない永遠の心を悟られた。
その永遠の心を信じるのが阿弥陀信仰であります。

次の 「 体中玄 」 。
これは体による実践です。
最初の 「 句中玄 」 で得た、言葉による理解、知的体験が
今度は体の中にしみとおってきます。
禅のほうで申し上げれば、
起居動作、一切の行動がすべて修行となります。

それをさらに突き詰めていくと、最後は 「 玄中玄 」 となります。
これは、言葉や肉体による理解を超えて、
さらに奥深い中に真実を見つけていくということです。

人生論的に言いますと、
この 「 三玄 」 は、句中玄から始まって、
さまざまなことを学ぶということです。
私なども、この年になってしみじみわかることは、
学べば学ぶほどわかってくると同時に、
またわからないことも出てくるということです。

そうなると、自然に謙虚になります。
言葉だけでは理解に限界がある。
だから、二番目の 「 体中玄 」 、体で覚えようとなります。
体験、経験、修行、何でも体で覚えるのです。
体で覚えると、これまた妙なもので、
頭の知識もふえてきます。
体で覚えると、今度はそれを頭のほうに還元してくれる。
その体と頭脳が並行して進んでいくところに、
いわゆる 「 玄中玄 」 が出てきます。

最後の理想は 「 玄中玄 」 でしょうが、
しかし二番目の 「 体中玄 」 が大切です。
亡くなられた奈良 ・ 薬師寺の高田好胤管長は、
「 求むれば求むるほど菩提の道は遠くなる。
されどこの道を歩む 」 という言葉を遺されました。
また、六代目尾上菊五郎丈の辞世の句は、
「 まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで 」 でした。
まだまだ自分は未熟だ。
だから死んであの世へ行ってからも踊りつづけるというのです。
まさに 「 玄 」 です。

仏教の教えの道を 「 無上道 」 といいますが、
無上は他の教えとくらべて、
仏教が最高だという意味ではありません。
仏教には、他とくらべるというような相対的な考え方はないので、
無上というのは、
上限がない、上のリミットがないということです。
つまり底抜けの反対で、
大空を昇るように上がっても上がっても
果てしがないということです。

私は、人生は、ゴールのない、
無限の障害飛びのコースだと思います。
いろんな障害があとからあとからやってくる。
それを次々に飛び越えて進んで行かなければならない。
飛び越えるために、障害はあるのです。
障害は避けることができません。
それをどうやって越えるか、
一つの節目、
そこに自分の進歩というものがあります。
だから積極的に飛び越えていく。
これは私自身の自戒の言葉でもあるのです。


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「 三玄 」 は、 『 臨済録 』 にある言葉で、
「 句中玄 」 「 体中玄 」 「 玄中玄 」 の
三つの玄をいうとあります。

 

・・想いは言葉になり、言葉は行為となる、行為は業となり、輪廻転生するのか。

大部の経典と師弟の縁に学ぶとも、得られ難しなのが「気づき」です。

幼い子どもの「気付き」は、過去生の業の続きであるからか?

 

【再掲】■蟻の命  害意に気付く観察眼 推敲

幼い頃、夏の日差しの中で遊び仲間と蟻を眺めていました。

蟻が巣穴に向かって一筋と線となっています。
何やら咥えて一生懸命運んでいます。手をアリの道に置くと噛んできますが、わくわくしながら見つめていたと思います。

その時・・・ 大きな友達が水の入ったビンを持つてくると、一気に巣穴に流し込んだ。
なんだか分からずに見ていた。ぼんやりした子でした。

蟻たちは、あわてた様子で巣穴の周りを歩き回っている。
しばらくして、必死に巣穴を護ろうとしていたのが理解できた。

また、ビンに水を入れて流し込みました。黙々と嬉しそう。
水が溢れ出すと・・・・数匹のアリが浮かんだ。水が引くと動きません。

気分が悪くなった。

この気持ち悪さがトラウマとなり、長く続くものとなりました。
警戒する心が芽生え、その時の記憶に刻まれた”眼と表情”の同じ人が苦手。
見間違うことが無いのが不思議です。 それが、害意に気付く観察眼。
やがて、人殺しの眼に気付く芽生えであったようです。

今でも、道を歩いていると足元に意識がいきます。蟻たちを踏まないようにとの意識です。
転びやすくなったせいも有りますが・・・。(笑)

 

追記

凝視する目

 

 

この頃が、”内と外”が分離して人間になったのかもしれません。
車も大人たちの誰もがアリを気にしていない。
踏みつぶしても無関心。

 

・・今でも虹彩の目が、動く蟻に気づきます。

誰も気にしていないと気付いた幼い日の衝撃は忘れられない。

ここは何処? 
迷って、戸惑っている心地がする。
不意に、見詰めている存在を感じた。

菩提心の眼差し・・・