東都 三ツ股の図 歌川国芳1797~1861 (source: wikimedia commons)
この浮世絵に描かれた奇異な二つの建造物は、東京スカイツリーの付近とネットで騒ぎになったことがありました。
江戸時代末期の浮世絵師、歌川国芳(うたがわ くによし)が、東京スカイツリーと予見して後世に残したのだと・・
(東京スカイツリーwebカメラ)
さて・・
絵師の位置は隅田川対岸から本所・深川を描いています。
右手側は、隅田川河口で江戸湾です。
船喰いの害を防ぐため、船虫や小貝を燻したり、焼きごてで削ぎ落している作業です。
絵に描かれた猪牙船(チョキフネ)と呼ばれているのは、いのししの牙に似て舳先が反り返っているからでしょう。
猪牙船は、汽水 (きすいいき)で使用されていました。
少々の海と掘割の波にも堪える構造です。
専用の川船は平底で舳先が反っていず、波の立つ所には向いていません。
煙の先には大きな「永代橋」と「佃島」が見える。
永代橋の謂れは,江戸時代に遠島の流人(るにん)を送り出す所となっていた。
川と海との境界、即ちあの世とこの世の境目になぞらえたのでしょう。
不思議な塔の辺りは、隅田川と小名木川との合流地点なので三ツ股という地名になったとも。
江戸開府の時、最初に作られた水路です。
小名木川にかかるのは万年橋です。
小名木川の万年橋の左岸は東京都江東区常磐(森下町)であり、右岸は清澄白川です。
隅田川の永代橋の先には、門前仲町があります。
対岸のその中のエリアに、不思議な2つの塔が描かれている。
深川江戸資料館 火の見櫓
三ツ股の火の見櫓(やぐら)は,
左側に幕府御用の米の籾蔵(年貢米の倉庫)、御船蔵(水運)、御徒組屋敷(旗本の元締め)小名木川の両岸には、大名家の下屋敷群などの重要拠点をいち早く火災から守るためでしょう。
清澄には、久世大和守屋敷(現・清澄庭園)、銀座御用屋敷(通貨)、近接して木場(貯木場),大工町(火消し要員・江戸職人)が配置されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%BE%84%E5%BA%AD%E5%9C%92#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
江戸時代の町火消しは、「破壊消防」が主要な手段で大工たちの職分でした。
彼らが火の見櫓の管理をしていました。
火の見やぐらに近い場所に住居が有ったのです。
即ち彼らの住んでいた場所(大工町)に火の見櫓が有ったと推定されます。
清澄の久世大和守屋敷(清澄庭園)付近が、浮世絵の火の見櫓の位置と思われます。
そして、最も高い電波塔のようなのも、右岸の「清澄白河」だと推理しました。
尚、電波塔のようなものは、北斎の「東都浅草本願寺」の井戸掘り図絵から類似と見做された。
「上総掘り」、もしくは「大坂堀り」の櫓(やぐら)との説が大勢です。
子どもの頃、井戸水を飲んではいけないと注意されていましたが、試しに口に含んだことがあります。
薄い塩水なので吐き出しました。
相当深い井戸ならば、飲めますので江戸時代には、高い櫓を組んで掘ったのでしょう。
しかし、深川では、飲用水に使われた井戸は少ない。
大半は、生活用水なのでしょう。
水売りが商売になっていました。
偶然なのか、東京スカイツリー(押上)に御府内の人が歩いて行くとしたら、永代橋を渡り、門前仲町から始まる清澄通りで、清澄白川へと抜けていきます。
そして清澄通り(二ツ目)から三つ目通りを経て押上の東京スカイツリーへと歩くでしょうね。
三つ目通りの名称は、江戸時代からあり、一ツ目之橋、二ツ目之橋、三ッ目之橋、四ッ目之橋が元でしょう。
三つ目は、不思議な第三の眼とも云われます。
先月、清澄白河町でストロンチウムが検出されました。
「東都 三ツ股の図」は、偶然の一致にしては奇妙な浮世絵です。
まるで、後世の人に伝えるために、不思議な「印(徴)」を遺したようです。
時を超えた「意味ある偶然の一致」なのかもしれません。
少し長い文章になりました。
読んでくれてありがとう。。
*参考 深川江戸資料館(白河1丁目)
http://edomae.exblog.jp/11854544/
*参考 芭蕉庵史跡展望庭園(東京都江東区常磐1丁目)
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Kotoku/BasyoAn/BasyoAn.htm
隅田川と小名木川の合流地点の岸辺に作られた庭園で、このあたりは芭蕉庵が建っていたところでもある。芭蕉像は庭園の中程に「三つ股」と呼ばれた合流地点を眺める格好で鎮座している。