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ーJohnny Aceー
(芸名)
(1929年6月9日 - 1954年12月25日)
クリスマスの夜
享年25歳
テネシー州メンフィスの
リズム&ブルース歌手
1950年代半ばにヒットシングルを連発
戦後R&B界の著名人として台頭し
「My Song 」、「Cross My Heart」
「Pledging My Love」
(1954年)
などのヒット曲を出しました
彼は演奏の仕方よりも、その最期の姿で
記憶されています
悲劇的な伝説的ロックンロール・
ミュージシャンの一人でした。
1954年のクリスマスに、楽屋で
ジョニー・エースは25歳で
ロシアンルーレットを
プレイ中に亡くなった
とセンセーショナルに報道されました。
ジョニー・エースは1929年、
バプテスト派の牧師の息子として生まれた。
海軍に入隊し、その後軽微罰で
服役中に父親からギターを
贈られ、街角で友人と一緒に演奏し
それが始まりでした。
エルヴィスも親からのギターが
始まりでしたね👍
1949年に南部の都市
ブルースが沸き立つ
メンフィスの
"ビール・ストリート"
にたどり着きました
バンドで
B.B.キングと演奏やツアーを
行った後、1952年にソロ活動を開始
そこでジョニー・エースと改名し
My Song
でいきなり全米1位を獲得
レース(黒人)・ミュージック・チャート
(後のR&Bチャート)
それは8曲連続ヒットの最初の曲であり
※ビッグ・ママ・ソーントン
との長いツァーの始まりでした。
ビッグ・ママはリーバー&ストーラーの
「ハウンド・ドッグ」を
最初にレコーディングした人物として
ロックンロール史に名を刻む人
ジョニーはテキサス州ポートアーサーで
クリスマスイブのショーを行い、
12月25日のショーのためにヒューストンへ
その夜、シティ・オーディトリアムで
開催された「ニグロ・クリスマス・ダンス」には3,500人の観客が集まった。
シティ・オーディトリアムはテキサス通りと
ルイジアナ通りの交差点に位置
ジョニー・エースは、ビッグ・ママ・ソーントン、ジョニー・オーティス、そしてヘッドライナーのB.B.キングらと共に出演した。
ジョニーはいつものようにビッグ・ママを
ステージに招き、その後、彼の陽気で
ロックなヒット曲「イエス・ベイビー」
をデュエットで披露し、観客を熱狂させた。
午後11時頃に休憩が始まった。
ジョニーはシティ・オーディトリアムの
楽屋でウォッカを飲みながらふざけていた。
部屋には他に4人が出入りしていた。
ジョー・ハモンドという別の歌手と
ビッグ・ママ・ソーントンもいた。
ジョニー・エースは小さな32口径の
ピストルで遊んでいて、部屋にいる人達に
銃口を向けて引き金を引いていた。
ビッグ・ママの証言によると、ジョニーは
その夜、ウォッカを飲みながら
22口径(または.32口径)の回転式拳銃を
振り回し、周囲の人々をからかって
楽しんでいて、それは皆を苛つかせました
ビッグ・ママ(ウィリー・メイ・ソーントン)は、ついに我慢の限界に達し
おい、あんた!
一体何やってんのよ
その銃、は暴発するかもしれないって
分かってるの?
ビッグ・ママはジョニーの振る舞いが
危なっかしいと感じ、一度銃を取り上げて
弾を抜いた。
(あるいは回転部分を回して弾が落ちた
のを確認した)とされています
彼女が銃をジョニーに返すと、
ジョニーは再び銃を手に取り、
周囲の制止に対して笑いながら
こう言ったといいます。
『大丈夫だ、見てろ
弾は入っていない』
(It’s okay! Gun’s not loaded…see?)
その後、彼は銃を自分のこめかみに当てて
笑顔で引き金を引き、銃弾が発射されました。
弾丸は残っていたのです
▶証言が食い違う背景
当時のレコード会社などが、
レコード売上に影響させようと
よりセンセーショナルでドラマチックな
"ロシアンルーレット
による死"
という物語を広めたことが
事実との乖離(カイリ)を生んだ一因
とされています
ジョニー・エースは
亡くなった後に
初めてビルボードのポップチャートに
ランクインした
歴史上最初のアーティスト
と言われています
エルヴィス・プレスリーが亡くなった後に
1位になった事も有りましたが
生前から
世界的な知名度がありました
ジョニー・エースは
「トップスターではあったが、
白人中心のポップチャートでは
無名でその死によって白人層に
急速に広まりました」
歌手が、死によって
その境界線を超えた(チャートが別でした)
最初の大きなケースでした
売れている歌手が死後にチャートに入った
エルヴィスやマイケル等とは
全く異なる事例です

エルヴィスは1977年に亡くなる直前に
リリースされた最後のシングル
「Way Down」のB面
(カップリング曲)として
Pledging My Loveは
チャートイン
エルヴィスが亡くなった直後の
1977年8月に
ビルボードのホット・
カントリー・シングル・チャートで
1位を記録しました。
ーJOHNNY ACE ー
"PLEDGING MY LOVE"
エルヴィス・プレスリーが自身の
生前最後のアルバム『Moody Blue』
(1977年)に「Pledging My Love」を収録
レコーディングはグレースランドの
自宅にある「ジャングルルーム」で行われ
RCA Recordsがバックヤードに設置した
モバイルレコーディングスタジオを使用
「永遠に君だけを愛すると誓う」
という歌詞の内容は、エルヴィスの
収録当時の不安定な
私生活の中で、エルヴィスが求めていた
「永遠の愛」や「誠実さ」を
代弁するものだったという見方があります。
ジョニー・エースの事件の時は
エルヴィスはサン・レコード時代
エルヴィスにとっても衝撃的な事件
だったと思います。
他のメンバーが演奏の真っ最中、
ビッグ・ママが泣きながらステージに
駆け上がり、マイクを掴みました。
「コンサートは中止です!
ジョニー・エースが殺されました!
今夜は音楽はありません!
ジョニー・エースが殺されました!」
彼女は衝撃のあまり、
「Johnny Ace just killed himself!」
(ジョニー・エースが自分を殺した! )
と叫びました。
AP通信の記事は翌日
全国の新聞に掲載された
「テネシー州メンフィスのバンドリーダーが昨夜、ロシアンルーレット中に射殺された…」
その報道は正確ではなかったが
その話は人々の記憶に残った。
彼の死後数日のうちにリリースされた
「Pledging My Love」
「プレッジング・マイ・ラブ」
冒頭の歌詞は
『永遠に私の愛しい人
私の愛はいつまでも真実
いつまでも
あなただけを愛します』
このレコードはジョニー・エース
最大のヒットとなり、
1955年2月12日から
10週間にわたり
ビルボードR&Bチャートの
1位に成りました
ジョニー・エースの死去は
「2年ほど前にハンク・ウィリアムズが
亡くなって以来、最も大きなレコード需要を
生み出しました。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や
『クリスティーン』といった有名な映画でも
使われているそうですが
覚えてないぞ!?🙄
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
好きすぎて何回も見てるのに記憶に無いです
改めて観ました。
息子がママに迫られる危機的状況で、
車の中でカーラジオから
流れる曲として使われていました。
言われなければ分からない程度でしたが
知って観るのと、知らなくて観てるのとは
やはり違います。
ーPledging My Loveー
『愛を誓う』は
エルヴィスが歌っていた歌としても
ジョニー・エースの事の顛末と共に
この曲を聴くたびにそれらが思い出され
ます
ーPledging My Loveー
Elvis Presley
映画【EPIC】
5月15日IMAX公開

.
Charlie Rich チャーリー・リッチ
エルヴィスの入院中(1973年10月)の事です
ある時エルヴィスは私に
ポータブルレコードプレーヤーと
最新のレコードを持ってきて欲しいと
頼みました。
他の歌手がどんな曲を作っているのか
聴きたいからだそうです。
(エルヴィスはラジオを聴くのが
あまり好きではなかったのです。)
Charlie RichのNewアルバム
「Behind Closed Doors」
(閉ざされたドアの向こう側)
を聴かせたのを覚えています
エルヴィスは以前からこの歌手が好きで、
The Beatlesがロサンゼルスに
彼を訪ねてきた時にもチャーリーの
※「Mohair Sam」を聴いていた
そうです。
※モヘア製の高級スーツを着こなす
余裕のあるイケてる男って意味のようです
サムは例えの名前
エルヴィスが
唯一興味を持っていた大規模イベントは
メンフィスのリバティボウルで
行われるプロフットボールの試合でした
プロフットボールがメンフィスに
やってきたのは1974年の夏
ワールドフットボールリーグ(WFL)の
フランチャイズチームが誕生した時でした
オーナーほエルヴィスに試合観戦に来て
もらいたかったのですが、エルヴィスを説得
するのに苦労はしなかった。
行きたい!
彼はグリズリーズの試合を観戦することに
興奮していました。
翌年の75年シーズンの
開幕戦にもエルヴィスは
再びグリズリーズを、応援に行きました
スタジアムに着いたのはちょうど
国歌斉唱の時で、ラジオから聞こえて
きたのは、なんと
チャーリー・リッチが国歌を
歌っているのです。
チャーリーは国歌を数行間違えて
しまいました😭
スカイボックス席へ向かうエレベーターに
乗ろうとした時、チャーリーも
フィールドから出てきて
同じエレベーターに成りました。
チャーリーとエルヴィスは再会を
心から喜び、同じ
サン・スタジオ出身の二人が
エレベーターの中で顔を合わせるという
瞬間でした
「あれは歌うのが難しい曲だね」
とエルヴィスは言った。
「本当にそうだね」
「だから僕は歌ったことがないんだ」
とエルヴィスは笑いながら言った
「頼まれたことはあるけどね
ずっと断っているんだ」
エレベーターを降りる直前に
エルヴィスがこう言った。
『チャーリー!
世界のみんながやっと、
俺がずっと前から知っていた事に
気づいてくれて嬉しいよ』
「それって何だい?エルヴィス!」
とチャーリーが聞いた。
"That Charlie Rich is one hell of a singer."
「チャーリー・リッチは、
とんでもなく素晴らしい
シンガーだってことさ」
その時のチャーリーの嬉しそうな
笑顔は
説明も要らない
☘️
エルヴィスはチャーリーのタイトル曲も
気に入っていましたが、特に気に入ったのは「The Most Beautiful Girl」
という曲で、それを5、6回続けて
聴かせました。
私たちは歌詞に込められた物語
人生最愛の人を遠ざけてしまい、
それを後悔している男の物語
について語り合い、また曲を聴きました。
エルヴィスは彼女の名前を口には
しなかったけれど、あの曲を聴くたびに
彼はプリシラのことを考えているような
気がしてならなかったのです
チャーリー・リッチ
(Charlie Rich)
「The Most Beautiful Girl(in the world)」
世界で一番美しい女の子
発売年: 1973年8月29日(シングル)
大ヒット曲で彼の代表作の一つ
ねえ、君は見かけなかったかい
この世で一番美しい女の子を
もし見かけたなら
彼女は泣いていたかい?
泣いていたかい?
ねえ、もし君が
俺を置いて出て行った
あの美しい女の子を見かけたなら
彼女に伝えてくれ 「ごめん」って
彼女に伝えてくれ 「俺は君が必要だ」って
ああ、どうか彼女に伝えてくれ
「愛してる」って
今朝目が覚めて
俺はようやく気づいた
自分が何をしてしまったのかを
冷たく灰色の夜明けに
一人立ち尽くして俺はわかったよ
自分の朝の太陽を失ったんだって
頭に血が上って、
ついひどいことを言ってしまった
今、朝と共にやってくるのは
胸を締めつける痛みだけ
ねえ、君は見かけなかったかい
この世で一番美しい女の子を
もし見かけたなら
彼女は泣いていたかい?
泣いていたかい?
ねえ、もし君が俺を置いて出て行った、
あの美しい女の子を見かけたなら
彼女に伝えてくれ 「ごめん」って
彼女に伝えてくれ 「俺は君が必要だ」って
ああ、どうか彼女に伝えてくれ
「愛してる」って
※松田聖子さんもカバーしています
アレンジが違うので同曲に聞こえません😂
この曲は1973年の作品で、
「The Most Beautiful Girl」
と同じアルバムに収録され、
同年に大ヒット。
表向きは控えめで上品な女性が、
二人きりになったときにだけ情熱的に
変わる…という、大人の甘くセクシーな
内容です。
歌詞はとてもセクシー💋ですが
とても心地よい
カントリー曲です
エルヴィスもお気に入りでしたので
聴いてみてください
カントリーチャート1位
ホット100で15位
1974年のGrammy Awards で
最優秀男性カントリー・ボーカル
などを受賞しています。
【 歌詞の言おうとしてる意訳】
僕の恋人は本当に自慢なんだ
僕に自信を持たせてくれる
ああ、本当に誇らしい女性だよ
人前でベタベタしたりなんか、しないし
騒いだりもしないんだ
人は噂話が大好きだからね
でも灯りが消えれば
彼女はちゃんと僕と一緒に帰るんだ
俺たちが部屋の中に入れば
彼女は髪を下ろすんだ。
そして彼女は俺を男にしてくれる
部屋の中で何が起こるのか
誰も知らないのさ
そして二人きりになって
扉を閉めたその先では
彼女は本当の自分を見せてくれる
男でよかったと思わせてくれるんだ
二人だけの時間に何が起きているかなんて
誰にも分からないけどね
ドアの向こうでは
彼女は俺を夢中にさせるんだ
彼女は僕を笑顔にしてくれるんだ
いつだって側に居てくれるし
「あなたが欲しい」って言うことを
ためらったりもしない
ーCharlie Richー
Behind Closed Doors
























































