関東は 再び 酷暑となった
職場では
いつも 一番暑い時期にやることになる
里芋の 泥あげが その週のメイン作業だった
種イモを植えるところから
泥あげ 何万といる 幼虫の駆除
収穫に至るまで 里芋の作業は 重労働
ここ数年 一人で黙々と やることが多い
特に 夏の泥あげは
30分ごとの 給水をしながら
倒れないように・・と 念じながら作業している
ゴム手の中が 重くなるほどの汗を
飲み物を飲むたびに 流しだして 再び作業
こんな風に 正常とそうでない世界の狭間で
ひとり居ると
滝に打たれて 修行している僧のような気持ちになってくる
果たして 私が 克服するべきものは
なんなんだろう???
二日間かけて 一人で泥あげをし
その後 田んぼのヒエ刈りへと 移った
こちらもまた 一人で 延々広がる無農薬田んぼのヒエを
もくもくと 刈りながら
私は 一つの命題に たどりついた
薬をまいた 田んぼには
ヒエは そうたくさん生えない
私が 毎年 刈っている田んぼは
「無農薬がいい」 と 職場の米を 高い金を払って
買ってくださっている方が 食べるためのもの
背より高くなったヒエを 刈って
担ぎながら
思った
ヒエも また 稲より 大きく育ち
早く穂をつけることで
自らの 生命を 全うしようとしている
ヒエを刈る作業も
里芋に居る 何百万というガの幼虫を手でつぶす作業も
ひとつひとつが 殺生であることに変わりはない
私は おそらく
一般の人よりも
たくさんの殺生をして 生きている
これは果たして どういうことか・・・ という
素朴な疑問
ヒエを刈る作業を
普通の田んぼにおいて 何でしなくて済んでいるのか・・?
野菜につく虫たちを
人がわざわざ 取り除かなくても 食卓にあげられるのは何故なのか?
薬をまいているからです
車で走っている 道路で
何故 泥跳ねをさせず 草も刈ることなく走行できているのか?
工事をして アスファルトで 固めたからです
人は 自分の手を汚さずに
他の命を 差し置いて
自らの目的を 効率よく果たすための技術を
必死こいて 開発した
だからこそ 今の快適便利な 生活がある
人ひとりが生きるために
わざわざ その手で 虫や 草や 他の生き物の命を
奪わなくても 涼しい顔して 生きられるような仕組みが
すでにあるんだ
ほとんどの人に 知られないうちに 人間以外の多くの命が
失われていく
それが 当たり前の世の中
私は 自分の手で
もっとも 原始的なやり方で
毎日 殺生を 繰り返している
草を刈り 虫を駆除し
大粒の汗を流し 自分の命とも戦っている
人間以外の たくさんの命と
対峙し その手で 殺生を繰り返しながら
人は 古来から
自然に祈り 感謝をささげたのではないか?
ここを 端折っては
感謝し 祈れるわけもない
祈れと 言うことのほうが 無謀
ああ
人は 快適便利と引き換えに
大事なものを 置き忘れてきたんだな
きれいなもの 都合のいいものだけをセレクトして
なぜか 自分の種だけ
特別扱いするこを 当たり前にしてしまった
そんな世の中に 生まれたら
子どもたちが
自然に感謝など できるわけがない
そこは他の生命と 完全に 切り離された
箱ものの世界
ずっと 行けなかったどんぐりに行ったら
それはもう 草は さらにぼうぼうで
隣の畑との 境は
地主さんにより 薬がまかれていた
中側まで まかれなかっただけ マシ
内側のほうに生えている
イネ科の メヒシバを
うちの鳥たちのために 摘みながら
人以外の 生き物が
普通に 生きられることを 認められるのなら
この草たちも
生きていて 何の罪もないのにと思った
どんぐりは 本当に 小さな世界
少し 歩くと
砂漠のように 何にも 植わってない畑が広がる
小さな世界の中であったとしても
子どもたちに
他の命と 向き合ってもらいたい
それが 駆除という結果になったとしても
自分自身が それに対峙して
折り合いを つけていく
強さを 身に着けてほしい
生きるということは 本来そういうものです
知らぬ存ぜぬでは
何の責任も 取れないじゃないか
そう思いながら
キンカンの葉を見ると
大小さまざまな アゲハの幼虫が たくさん付いていた
このままいくと 葉っぱは 丸坊主になっちゃうなと
思いつつ
今日は 駆除できなかった
毎日ね
そんな痛みを 自分自身が 感じることが
大事なんだと思う
それが 本当は 生きるということなんだと
子どもたちに
ずっと 先になってもいいから
伝わると いいな
言葉では 伝えないけどね 私は


