先日は雪の下に咲く庭の梅の花に凜(リン)とした早春を感じましたが、今日は久しぶりの陽光を浴びながら雪解けのたんぼ道を散歩していると、枯れ草に覆われつつも間から芽吹いている野の草に春の足音が近づいていることを感じました。
島崎藤村が詩集『落梅集』のなかの「小諸なる古城のほとり」の雰囲気箱のような景色なのかと。
「…… 緑なすはこべは燃えず 若草も藉(シ)くによしなし 白銀の衾(フスマ)の岡辺 日に溶(ト)けて淡雪流る
あたたかき光はあれど 野に満つる香りも知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し ……」です。
我ながら下手な訳ですが……… 自分の理解として………
(春まだ浅いので)はこべ草も花をつけるところまでにはなっておらず、若草もお尻に敷いて座れるほどには成長していない。雪が融けきらずにうっすらと残っている丘には陽光を受けて雪が融けて流れている。
陽光はほのかに暖かいのだけれど草は芽吹いたばかりで草の香りはまだ感じ取れない。春まだ浅く、麦畑もうっすらと緑色が感じられるばかりである。
………といったところでしょうか。全くのお目汚しで恐縮です。それが、こんな風景なのかと。
← 「白銀の衾(フスマ)」は融けてしまっていますが、枯れ草の間から若草が生えてきています。まだお尻の下に敷けるほどではありませんが。
あと数日で3月を迎えます。
関西では、3月に入れば奈良の東大寺の二月堂の「お水取り」の行事が催され、それが済むと春の到来と言われています。ここ但馬の墨絵のような冬も彩色の絵のような景色に変わります。この寒さもあとしばらくの辛抱です。
しかし、ロシアの侵略に抵抗しているウクライナ国民も、侵略にかり出されて命がけのロシア兵も、ともに寒さとも闘っているわけで、どちらにとっても悲惨です。戦争はよいことは何一つ生み出さない。人の死・不幸、破壊、多額の国費の浪費etcしか生み出さない。
わが国は世界で唯一の被爆国として、なぜロシアに核兵器の不使用を強く要請しないのか、いやそれ以前になぜプーチンにウクライナへの侵略を直ちにやめるように訴えかけないのか。
EUでもNATO加盟国でもないわが国は、わが国に独自の外交としてロシアに平和を強く呼びかけることを何故しないのか。平和的にウクライナ支援に巨額を投じることに反対をするものではないが、それとは別に、それよりも先だって独自外交としてプーチンに働きかけるべきだろう。その働きかけはロシア政府によって、プーチンによって拒否されるであろうが、ロシアを懲らしめる手段を執る前に世界平和のための外交行動を取るべきであると考える。叶う叶わぬは別として、被爆国であり敗戦国の痛みをくぐった国であり平和憲法を有する世界唯一の国として、アメリカの外交に金魚の糞のように付き従うのではなく、独自の自立した外交を試みるべきである。そういう自律的な毅然とした政府であってほしい。
……… と考えるのですが、自立したポリシーを持たないわが国政府、リーダーでは期待する方が無理なわけで。
……… ごきげんようデス。