私が、今も(40数年)

聖書の神さまを信じているのは、

聖書に「わたしは生きている」と

書いてあるからではない。


初めは、

書いてある事を、ある日

「真実だ!」と信じた。

18才の秋のこと。


しかし、もしそれが「書いてあるから」

と言う理由だけなら、

私は今現在も、同じように

信じられるか分からない。

いろんな事があった。

いろいろ人に会った。

いろんな苦痛もあった。


だが、それでも「今」私が聖書の神、

世界を造られたお方を信じているのは、

そのお方が、

今も、生きておられるからだ!


信じた時、内側に生まれて初めて味わった

喜びが溢れた。

なんなんだ?これは!と思った。


それから、ユースキャンプで賛美していた時に、

「田舎に帰りなさい。」と心の中に聞こえた。

帰るつもりは無かったし、

泣きたくないのに、大泣きに泣いた。

神さまの愛だった。

そしてその後、

事情があって帰る事になった。

あれは何?


瑞穂大橋から斐川の田んぼを通ったとき、

わたしの内側から、

「私はこの地が好きだーー」と、

大きな思いが溢れ出た。

なぜ?あれは何?


主人と結婚する時に、

教会の講壇の横に主はおられた。

目には見えないのに、

おられる事だけは何故か分かった。

聖書の言葉がこだました。

あれは何?


それがきっかけで、結婚した。



その後、もう数え切れないほどに、

いろんな苦悩の中にいた。

夕方の蜩の声が怖かった。

耳に聞こえるのではなく、

心の奥底に入ってくる。

虚しさに耐えれなかった。

生きていく事は無理だと思った。

生きるのに向いてない性格。

考え過ぎて分からなくなった。


そうだ!いっそのこと、

信じなかった事にしよう!と思った。

普通に生きようと思った。

しかし私は普通では無かった。

普通って何?


この頃、ふと自分と和解している事に

気づいた。

生きることには向いてないが、

生かされることには向いている。

(みんなそうだよ)

頑張る事は出来ないが、

このお方に頼ることは出来る。


「聖書に書いてある」以上の、

現実に今・この時・生きて・助けて・

生かして下さっているお方を信じている。

あーわたしは自由だ!