チャイコフスキー 1812年(序曲) 小澤征爾
Berliner Philharmoniker Conducted by Seiji Ozawa
埼玉付近ではあと一週間で夏休みが終わる頃で小中学生はそろそろ切ない思いをしている子どももいるのではないでしょうか。いやいや、これは私の苦い思い出で、毎年最後の一週間はためにためた宿題を半べそをかき乍らひたすら片付けねばならず、己の無策ぶりと根気のなさを毎年のように味わったのです。低学年の頃の記憶は曖昧ですが、高学年になると「夏休みの友」などと言うものを渡された気がしますが、それを手にした瞬間に「お前なんか友達なもんか」と心の中で毒づいていました。
さて今日は、チャイコフスキーの「序曲1812年」が初演された日です。大砲をぶっぱなし、ラ・マルセイエーズが聞こえてくるも、そして逃げまどい疲弊していく兵士の様子を表す下降音階が延々と続くチャイコフスキー独自のしつこさに演奏者も聴衆もうんざりしたころ、急転直下フィナーレに向かっていくあのカタルシスは病みつきになるかも知れない。
序曲「1812年」変ホ長調 作品49は、ピョートル・チャイコフスキーが1880年に作曲した演奏会用序曲です。タイトルの「1812年」はナポレオンのロシア遠征が行われた年で、この曲は大序曲「1812年」、荘厳序曲「1812年」、或は祝典序曲「1812年」などと言う異名を持ちます。チャイコフスキー自身は決して精魂を込めた傑作とは受け止めてはいなかったようですが、歴史的事件を通俗的に描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに拍手喝さいを浴びるようになりました。
さて、話は変わります。1813年6月にイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍とフランス帝国つまり、ナポレオン軍の間で起きた戦争「ビトリアの戦い」を、 ベートーヴェンが「ウェリントンの勝利」という曲にしたのはご存知だと思います。
この曲は、行進用のドラムと進軍ラッパに続いてイギリス軍を表す「ルール・ブリタニア」とフランス軍を表すフランス民謡「マールボロ将軍は戦争に行く」が現れ、激しくぶつかり合い、やがてフランス軍が撤退するという構造になっています。「イギリス軍の勝利を祝う華々しい凱歌」というチャイコフスキーの1812年とよく似ています。更には、「火器の使用」という点でも酷似した作品なのです。
つまり2曲とも国歌・民謡・火器を使用して、どちらもフランス(ナポレオン軍)の敗退がテーマで、1812年と1813年という極めて近い時代の戦争を題材にいるのです。チャイコフスキーがベートーヴェンの作品を下地にしてそのまま借りて当時のロシア風の序曲に買い上げたと言えます。
<曲の構造>
第1部(1-76小節):Largo
ヴィオラとチェロのソロが奏でる正教会の聖歌「神よ汝の民を救い」("Спаси, Господи, люди Твоя")にもとづく変ホ長調の序奏に始まり、以
後木管群と弦楽器群が交互に演奏する(後述のように、この部分を合唱に置き換え
る演奏もある)。和音の強奏で序奏 を終えるとオーボエ、ついでチェロとコン
トラバスに第1主題がゆだねられる。Andanteの部分が近づくにつれてメロディ
ーも次第に激しくなる。
第2部(77-95小節):Andante
ロシア軍の行進と準えられるこの部分は、ティンパニの弱いトレモロに始まり、低音部楽器や小太鼓が主題を引き継ぎ、次第に盛り上がりを見せる。
第3部(96-357小節):Allegro giusto
この部分は変ホ短調の展開部のないソナタ形式で書かれている。ボロジノ地方の民謡に基づくといわれている主題があるため、「ボロジノの戦い」と説明がつ
くこともある。
第一主題の提示に続いて、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律をホルンが演奏するのをきっかけに、金管楽器群で反復して演奏される。やがて、木管
群と弦楽器群が第一主題を繰り返し、またラ・マルセイエーズの主題が現れる。
激しい咆哮が終わると、一転して緩やかな嬰ヘ長調(変ホ短調の平行調である変
ト長調と 同じ調)の第二主題に引き継がれ、その後でロシア民謡風の主題も現れ
る。227小節からは再びラ・マルセイエーズの主題が響くが、前半部分とはうっ
て変わり各パートを転々としながら演奏される。ラ・マルセイエーズの主題は次
第に貧弱になり、326小節から332小節にかけてコルネットとトロンボーンで伸
びに伸びきって演奏され、それを凌駕するように管楽器群・弦楽器群・打楽器群
が咆哮する。最初の大砲もこの部分で5回「発射」される。山場を越えると各楽
器群とも駆け下りるような音形となる(Poco a poco rallentando)。
第4部(358-379小節):Largo
冒頭の主題と同一の旋律であるが、冒頭とはうって変わってバンダを含むほぼすべての管楽器で堂々と演奏され、それに木管楽器や弦楽器、ロシア正教会の鐘
を強く意識した鐘が華麗に装飾する。
第5部(380-422小節):Allegro vivace
全楽器強奏で始まり、388小節目のffffからはロシア帝国国歌がバスーン、ホルン、トロンボーン、チューバ、低音弦楽器で演奏され、鐘が響き大砲もとどろ
く。なお、ソ連時代にはロシア帝国国歌が演奏禁止とされ、それに伴いロシア帝
国国歌の部分がミハイル・グリンカ作曲の歌劇「イワン・スサーニン」(皇帝に
捧げし命)の終曲に書き換えられた版も存在する。これについては編曲者の名前
を取って「シェバリーン版」とも言われる(なお、シェバリーン版はスヴェトラー
ノフ指揮のソヴィエト国立交響楽団のCDなどで聴くことができる)。
できそこないでも、我が子は可愛いなどと言いますが、当のチャイコフスキーはメック夫人やアナトリーへの手紙でも「序曲はおそらく騒々しいものになる。私は特に愛情を持って書いたつもりはない」と書き、ユルゲンソーン社主ピョートル・ユルゲンソーンに対しても「この作品が良いものになるか悪いものになるか、私はためらうことなく後者だと言える」と書いています。
こうして作品は完成したが、肝心の1881年に件の博覧会は開かれず、3月23日には依頼者のニコライが亡くなった。作品を持て余したチャイコフスキーはエドゥアルド・ナープラヴニークに、作品をサンクトペテルブルクで演奏するよう依頼をするも、ナープラヴニークは時期が来るまでは置いておくことが必要だと返答して、作品が日の目を見る機会はなかなか訪れなかった。
1800年11月7日にスコアーを書き上げた「1812年」は1882年8月20日、建設中の救世主ハリストス大聖堂で開かれたモスクワ芸術産業博覧会が主催するコンサートに於いて、イッポリト・アリターニの指揮により初演されたそうです。やっとも思いでこの作品は演奏の機会を得たのです。その時の作品の評価は予想通り、当時の新聞批評では凡作だと片づけられてしまいます。これが、チャイコフスキー自身が「完全な成功、大満足」と日記に記すほどの成功を得たのは、1887年3月17日のことです。
※ 演奏会のご案内
○ ベートーヴェン ピアノとヴァイオリンの為のソナタ全曲演奏会
○ 藝大スペシャルオーケストラ 藝祭2023年 9月1・2・3日
Tchaikovsky, P.I.:1812 Overture, op. 49チャイコフスキー:大序曲「1812年」op. 49
■出版社:Breitkopf & Hartel ■大型スコア
チャイコフスキー:序曲《1812年》、スラヴ行進曲、幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》、他
小澤征爾 (アーティスト, 指揮), チャイコフスキー (作曲), & 1 その他 形式: CD