フルートの出番です124  クープラン「恋のうぐいす」 | 翡翠の千夜千曲

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    François COUPERIN - 14. Ordre - Le Rossignol en Amour - Le Rossignol Vainqueur

 

        

                Le Rossignol en Amour

 

        

         Paula Robison, flute - The Nightingale in Love by François Couperin

 

 

  今日は、フランソワ・クープラン(1668年パリ - 1733年)の「恋のウグイス」を聴きたいと思います。訳によっては、サヨナキドリとかナイチンゲールという訳もあります。クープランは、クラヴサン奏者でありオルガニストでもあった作曲家です。クープラン一族の中で最も有名で、大クープランと呼ばれました。父のシャルル・クープランと伯父のルイ・クープランはパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストですが、1679年、10歳にしてその父を失います。その後教会オルガニストとして活動し、93年には国王のオルガニストという地位を得ます。その後クープランは宮廷に出入りし、王家の人々にクラヴサンを教えています。また、宮廷作曲家として室内楽曲や王室礼拝用の宗教曲を作曲しました。

  クープランと言うと、人によってはモーリス・ラヴェルを思い浮かべる人がおられるのではないでしょうか。いずれ、この作品は取り上げますので、詳細はその時に述べたいと思います。「クープランの墓」という題を私はストレートに受け止めて、クープラン本人の墓の前に立っているラヴェルが尊敬してやまないクープランのことを思って書いたと思い込んでおりました。

  Le Tombeau de Couperin が本題ですが、「Tombeau」は墓ではなく「追悼」と訳すべきだそうです。クープラン時代の音楽の様式を借りた追悼組曲というのが正しい理解ということになります。ラヴェルは、強い愛国心を持った人で、徴兵検査に落ちても、周りに止められても関門をかいくぐって兵士になりますが、結果はさんざんでした。今のウクライナにも同じ気持ちの人はいるでしょう。しかし、彼は友人知人の多くを失います。バスク民謡への思いや戦死した友人への追悼の意をこめて、この組曲を作曲したというのです。

  さて、本題に戻ります。「恋のウグイス」クラヴサン曲集第3巻の第15オルドルの曲で、オルドルとは曲集という意味です。ですから、下の内容で構成されています。では、恋のウグイスは綺麗な鳴き声で鳴くのでしょうか?それとも、托卵の挙句縄張り争いでも勝利を得ようとするのでしょうか。

  • 恋のサヨナキドリ Le rossignol-en-amour
  • サヨナキドリのドゥーブル Double du rossignol
  • 怯えたヒワ La linote-éfarouchée
  • 嘆きのムシクイたち Les fauvétes plaintives
  • 勝ち誇るサヨナキドリ Le rossignol-vainqueur
  • ジュリエ La Julliet
  • キュテラ島の鐘 Le carillon de Cithére
  • 些細なもの Le petit-rien

  また、ムラマツの楽譜ではリコーダーと書かれていますが、フラウト・トラヴォルソ(フルート)でも演奏可能です。古楽器の木製のフルートはくすんだような、それでいて温かみのある音がします。原曲と、フルートによる演奏を比較して聞いてみてください。響きも表現も各々違いを楽しめます。 

  1713年に出版された『クラヴサン曲集第1巻』に収録されている作品の内いくつかは、出版される以前から手稿譜で出回っていたことが確実である。クリストフ・バラールの『クラヴサン曲選集』 Pièces choisies pour le clavecin de différents auteurs (1707) にはクープランの作品のいくつかが作者を記さず収録されている。『クラヴサン曲集第1巻』はそのような手持ちの作品をまとめた曲集であると考えられ、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという組曲における舞曲の定型の配列を守る傾向があるものの、他に多数の描写的な標題を持つ作品が収録されている。クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」と記しているが、クープランのクラヴサン曲の標題は現在では意味のよくわからないものも多い。

  その後、第2巻の組曲は第8オルドルを例外として組曲の定型はほとんどなくなって、描写的な標題を持つ作品が多くなっています。クープランの重要な宗教声楽作品である「ルソン・ド・テネブレ」 (Leçons de ténèbre) もこの頃に出版されています。

  更に、1722年に「クラヴサン曲集第3巻」が出版され、「王のコンセール」 (ConcertsRoyaux) がその第2部として出版されました。1730年の「クラヴサン曲集第4巻」を書くころには既に健康を害していて、書き上げて間もなくクープランは亡くなります。

 

<演奏者>  ポーラについて
  「彼女の名前は楽器の歴史に刻まれている」
  アメリカン・トレジャー」ポーラ・ロビソンはテネシー州で俳優、作家、ダンサー、ミュージシャンの家族の中で生まれました。彼女南カリフォルニアで子供時代を過ごし、学校のオーケストラでフルートを演奏することを学び、ベラ・ルウィツキーとダンスを学び、ジェフ・コーリーと一緒に演劇を学びました。彼女が12歳のとき、音楽は彼女の心を主張し、彼女は彼女がフルート奏者になりたいと知っていました。
  17歳の時、ロビソンはジュリアス・ベイカーでプレーし、両親に「今、私はジャシャ・ハイフェッツの先生がどのように感じたかを知っています。彼女は完璧です。彼は彼女がジュリアード学校で彼と一緒に勉強するためにニューヨークに引っ越すことを主張しました。これは、ニューヨーク市での彼女の長年の生活と画期的なフルートソリストや室内楽アーティストとしての彼女の多くの国際的な冒険を始めました。
  ロビソンが20歳のとき、レナード・バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団とソロに彼女を招待しました。サン・サーンスの「ヴォリエール」の歴史的な録音は、CDではまだ入手可能で、映画「ムーンライズ・キングダム」で取り上げられました。彼女はヤングコンサートアーティストの後援の下で彼女のカーネギーリサイタルデビューを与え、ニューヨークタイムズは書きました:「音楽は木から葉のように自然に彼女から破裂」。偉大なマルセル・モイーズとの研究が続き、1966年にポーラ・ロビソンがこの栄誉を受けた最初のアメリカ人であるジュネーブ国際コンペティションで1位を受賞しました。
  ロビソンは、レオン・キルヒナー、武満徹、オリバー・クヌーセン、フルートとオーケストラのための作品を委嘱しています。 

  ポーラ・ロビソンはジュリアード学校で教え、世界中でクラスを与えました。彼女はサンフランシスコ音楽院のDMA名誉カウサで、現在はニューイングランド音楽院のドナ・ヒエケン・フルート・チェアを占めています。彼女は夫のスコット・ニレンツ、イザベラ・スチュワート・ガードナー博物館の音楽名誉学芸員、娘のエリザベス・ファイン(現在はシカゴ大学博士)、デュケイン大学心理学部の助教授兼議長に感謝しています。 あなたは、彼女の感動的な仲間の選手や教師のために、そしてすべてのこれらの長年を通して、そして今、未来に続く彼女の学生のために、誰もが見つけて、今、私たちの世界をより良く、より美しい場所にする方法を見つけている。

 

 

クープラン、フランソワ/恋のうぐいす
Couperin, Francois LE ROSSIGNOL EN AMOUR (G-DUR) (A/S) (ED.FLEURY)

F.クープラン: クラヴサン曲集 第3、4巻より

フレデリク・ハース