モーツアルト 「レクイエムニ短調」K. 626 | 翡翠の千夜千曲

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 Mozart – Requiem (with subtitles in 15 languages, Español, Português, English, Latin . . . )

 

Applause Introitus: Requiem aeternam  Kyrie eleison   Sequenz  Dies irae  Tuba mirum  Rex tremendae Recordare  Confutatis  Lacrimosa   Offertorium  Domine Jesu  Versus: Hostias et preces  Sanctus  Benedictus Agnus Dei  Communio: Lux aeterna  Credits

 

  お盆と言うことでこじつける訳ではありません。どちらかと言えば、8月15日を念頭に置いています。いわゆる3大レクイエムを3日間でお届けします。 

  雨の夜、夜道を黒塗りの馬車が駆け抜けていきます。ある家のまで馬車は止まります。乗っている男は暗がりで良く見えない上に、帽子を深くかぶり表情も見えません。男は、ドアの前に立ちドンドンドン・ドンドンドンと何度もたたきます。男はレクイエムを書いてくれと告げます。映画、アマデウスはこんな風に始まります。

  モーツアルトの筆まめは有名ですが、ここに奇妙な手紙が残されています。もっとも、この前後のモーツアルトの死や未完成のなぞなど、不可解なことが多いため、サリエリの毒殺説だの何やらかにやら不穏な話が多いのです。もっともこのイタリア語の手紙は、作りものらしいと言うことだけが分かっています。

  ダ・ポンテ宛の手紙
  あなたのお申し出に喜んで僕は従いたいのですが、しかしどうしてそのようにすることができましょう。僕は混乱しています。話すのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。僕はいつでもその姿が見えます。彼は懇願し、せきたて、早急にも僕に作品を求めるのです。僕も作曲を続けてはいます。休んでるときよりも、作曲しているときのほうが疲れないのです。それ以外、僕には恐れるものもないのです。最後のときが鳴っているように思えます。僕は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりにたどり着いてしまいました。しかし、人生は、なんと美しかったことでしょうか。生涯は幸福の前兆のもとに始まりを告げたのでした。ですが、人は自分の運命を変えることは出来ません。人はだれも、自分で生涯を決定することは出来ないのです。摂理の望むことが行われるのに甘んじなくてはいけないのです。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません。

  レクイエムニ短調(Requiem in d-Moll)K. 626は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年 - 1791年)が作曲したレクイエム(死者のためのミサ曲)です。モーツァルトの最後の作品ですが、モーツァルトの死によって作品は未完のまま残されたため、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成されました。しばしば、ヴェルディ、フォーレの作品とともに「三大レクイエム」の一つに数えられます。

  1791年頃、モーツァルトは人気を失い、苦しい生活ぶりでした。注文を受けたジングシュピール「魔笛」K. 620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K. 621の注文を受け、これを優先して作曲しました。ジュースマイヤーに一部を手伝わせてようやく完成が見えたので、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男性が彼を訪ねてきました。これが、冒頭の話です。男性は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていきました。
  プラハから戻ったモーツァルトは「魔笛」の残りを急いで書き上げ、何とか初演に間に合わせます。間もなく、、レクイエムの作曲に取りかかりますが、体調が悪化し、次第に床を離れられないほどでした。12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界しました(享年35)。

  彼の葬儀は12月6日にシュテファン大聖堂の十字架チャペルで行われ、4日後の10日にはエマヌエル・シカネーダーなどの勧めによりホーフブルク宮殿の前にある皇帝用の聖ミヒャエル教会でのミサで「レクイエム」の「初演」がそれまで完成したところまでを演奏しました。
  モーツァルトの死後に書かれた伝記などから、彼は死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という話が生まれたのです。当時、依頼者が分からなかったことや、ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いています。いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたのですが、1964年になってこの匿名の依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープ (Franz Anton Leitgeb) という人物であることが明らかになっています。

  ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていたようで、彼が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相でした。したがって、何ら神秘的な出来事が起こったわけではありません。しかし、モーツァルトが自身が死の病床にあってなおレクイエムの作曲をしていたのは事実で、コンスタンツェの妹ゾフィーは、モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだったと姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた手紙の中で述べています。(ウィキぺディアの記事を原に簡素化しました。)

 

 

   

楽曲冒頭、第1曲「レクイエム・エテルナム」

最初の部分の自筆譜 モーツァルト:レクイエム
リヒター(カール) (アーティスト), & 5 その他  形式: CD