私は、豊受姫大神様が好き。


磐長姫様が好き。


伊邪那美様が大好き。




日本全国。様々なる神社には沢山の神様が鎮座し私たちを見守ってくださっている。


でも、先程、ぽんと神様のお話を娘としてたのだけどね。


空から?上から?

なんか私にズボッと入ってきた感じでね。


その言葉を忘れない内にメモとして記す。

(私の言葉で記させていただく。)




遥か古。まだ日本という名もないであろう時代。


個々に名もあるようでない時代。


その時代の日本人の元である祖先たちは


神様に名を付けてはいなかった。

神様を名で呼ぶこともなかった。


朝起きれば、二本の柱と、鳥居の元。

今の鳥居は二本の柱に二本の横棒があるけれど、昔は、二本の柱に一本の横の柱しかなかった。


朝起きれば、目に入る自然に感謝していた。


山が目に映れば、山の神様。山様。おはようございます。


太陽様、おはようございます。


木のみや、きのこ。様々なる恵みに対して、感謝をしていた。


名もなく、だた純粋に山の神様。風の神様。海の神様と呼び、全ての神様。全ての自然に生かされている事。今日を迎えた事に心から感謝していた。



だが、現代では、神様には名があり

何処の神社、どの神様の効力が良いのかと

選び、純粋なる気持ちで祈っているであろうが

所詮は己の欲である。


神様(自然)を選んでいるのが、人間であり

身の回りにあるであろう恵み、自然、様々なる奇跡を忘れてしまったのだ。


それでいて、神様に愛される。

神様と近くなる等と表すが、神様、自然を選ぶ時点で遠のいておる。


効力が強い。願いが叶う。

願いが叶うために我々は存在しておるのか。

我々は人間の願いの為に存在し、敬われておるのかと。


もし、人間のそのような欲の願いを叶えるのであれば、それは神様ではなく、自然でもなく

魔であろう。


何を思い、祈り、手を合わせる?

何故、神社を選ぶ?




神様はね。


地球の為。自然の存続のためにと努められてる。

全ての神様は。


人間の私利私欲の為にと願いを叶えるのは

紛れもなくだよ。


純粋に手を合わせる。祈る事も出来ない現代。


何故、山様。太陽様。海様、風様、雨様。岩様。砂様。と、祈ることが出来ないのだろうね。


風は風の神様!


水は水の神様!


滝も、湖も、川も、草も木も。


そのままで祈ってほしいって。


祈ることまでも、純粋では無くなってしまったのかって。。


嘆かれていたよ。

と、私の言葉を娘に話したそうで、その話を娘から聴いて、今、記録してる。


命の神様。恵みの神様と呼べば良いのにってさ。


子どもたちのように

神社に手を合わせる。


神様の名を

子どもたちは知らない。

知らないけれど、目の前の神様に届くようにと、おでこに両手を

くっつけて祈る。


子どものように、祈りなさいって。


神様の名を知るからこそ、素晴らしいのではなく。


立派な神社に向かうから

ご利益があるわけでもない。


今の日本人に最も足りない部分なのだそう。


純粋な心。


見えを張ってどうする?

立派な神社よりも、氏神様、産土様を第一に考えなさい。


遠く離れた神社よりも、近い神社へと向かいなさい。


綺麗な心、綺麗な魂等と言いながらも

求めるものは、己。


このような国へと変わり

精神も弱くなった国を何故に守らなければならぬのか。


バラバラで纏まりもなく。

見えを貼り、鼻を天へと向けて歩くような世の中を。

他より、秀でるものを求め、少しでも高い位置へと立とうとする者たちを、何故に護らなければならぬのだ。


純粋なる声でもなく。光でもなく。

我々を感じてはおらぬのに、神社の名。神様の名だけで参拝へと向かうような者たちを

何故に護らなければならぬのか。


純粋な祈りがよい。

純粋な声を聞きたい。

純粋な魂の光を観たい。


これぞ、我々が求める喜びぞ。