クラシック音楽はどこが楽しいのか?というご質問を数件頂きました。ボクなりに真面目にお答えします。 | あらい太朗(郎でも可)は大丈夫か

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さぁー今日もクドイぞぉー!
(安っぽいクラシック入門!とか言わないでね)
…と予め(;^_^A


■まずは、「やる側」の楽しさから。

楽譜ってのは「不完全」なものです。
この「不完全」ってところが、まず面白いです。
「不完全」は楽譜を読む側に、「解釈」するっていう都合の良い権利を与えてくれます。

楽譜中の指示(記号)は、とてもいい加減です。

フォルテ=大きく
ピアノ=小さく
クレッシェンド=だんだん大きく
リタルダンド=だんだん遅く
フェルマータ=その音を長く伸ばす

ね、恐ろしくいい加減でしょ?

バッハの楽譜なんて、音符以外ほとんど何も書いてなかったりします。

バッハよりずっと後、例えばチャイコフスキーなんていう人はとても神経質で、自分の楽譜でピアノ×5(ppppp)~フォルテ×5(fffff)までの強弱を使い分けたりしました。

そのまたちょっと後、マーラーなんて人はやっぱりこだわり屋で、「できる限り小さく、しかし、聞こえる様に」なんていうわがままな指示を入れたりしました。

楽器の構造やら編成やら時代背景やら国民性やら作曲者の性格やらを考えれば、安易にそれぞれの楽譜を比べることはナンセンスだけど、とにかく、どんな時代のどんな国のどんな人が書いた楽譜も、「完全」じゃない。

画家が残した「絵画」は、それそのものが「作品」だけど、作曲家が残した「楽譜」は、誰かが「再現」しない限り「作品」にはならない。音楽を「再生芸術」とか「再現芸術」とか呼ぶ所以です。

だから「楽譜」「手がかり」でしかない!

そう考えると「楽譜」はボクには「宝の地図」に見えてくる。
作曲者が残した「暗号」「解釈」し、「解き明かして」いく。

更にクラシックの場合、
幸か不幸かその地図を書いた本人はもう他界しちゃってる。
だから正解は誰にも分かりません。ここがポイント。
オシャレに言い換えれば、
「宝の在処は自分で決められる」のだ!

だから、クラシック音楽は楽しいのだ。


■次に「鑑賞する側」の楽しさ。

楽譜も「不完全」なら、演奏される音楽もまた「不完全」です。
なにしろ「音」以外ないのですから。

なのに人はその「音」に感動して、泣いたり、奮起したり、癒されたりします。
それは、頭の中で「音」意外の「映像」「匂い」「温度」「感触」なんかを「イメージ」してるからです。

「イメージ」できるのは人間だけ。だから「芸術」を生み出せるのも、それを理解できるのも人間だけなのだ。

「イメージ」も、言い換えれば「解釈」の仲間だ。「鑑賞する側」もまた「解釈」する。

芸術はどんなジャンルであれ、「やる側」と「鑑賞する側」の、
イメージキャッチボールだ。

「解釈(イメージ)する事をキャッチボール宝探しの様に遊べるようになると、芸術は楽しくなる。


●余記「イメージで遊ぶ」

ボクは小中学校のブラバンの指導をやっているけど、常に心がけてるのは子供達に解釈させる事です。

「クレッシェンドとはだんだん大きくって意味ですよ」
ってのは、解釈じゃなくただの「ルール」だ。

肝心なのはその先。
「なぜここがクレッシェンドなのか」
子供達なりに考えてもらった上で、
「どの程度、どんな感じでクレッシェンドするか」
を考えてもらう。つまり、解釈してもらう。

「解釈」。
この一点の示唆だけで子供達はとても楽しく音楽をやるようになるし、実際、彼らの演奏はそれより以前と比べ、俄然楽しく聞こえてくる。

少なくとも義務教育の中の音楽は、
「意味は分かんないけど上手にクレッシェンドできる」
事よりも、
「上手にクレッシェンドできないけど、意味はよく分かる」
事の方が大切だと思う。

ここを大人が間違えて教育してしまうと、ずっと芸術を理解できない子になっちゃうかも知れない。

子供達に「解釈」を教えず、「テクニック」ばかり要求する現場をしばしば見てきた。
これは、芸術を解さぬ大人のエゴであり、無知であり、大罪だと思う。

(スイマセン、次回の「ブラストライブ」 の草稿書かせてもらっちゃいました 笑)

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