『方丈記』(鴨長明)
- 方丈記 (岩波文庫)/鴨 長明
- ¥525
- Amazon.co.jp
鴨長明「方丈記」を読みました。
中学校の古典の授業で、出だしの部分を暗誦したのを覚えています。
僕のクラスの国語の授業を担当してくれたオバサン先生は、何につけ暗誦させるのが大好きで、この方丈記や徒然草や枕草子なんていうの当然のこととして、島崎藤村とか谷川俊太郎とか、今昔物語とか新井白石とか、もうありとあらゆるテキストを端から覚えさせられました。古事記を覚えさせられたときにはさすがに「俺は稗田阿礼か」と思いました。
子どもの頃に出会ったたくさんの教師たちの中では群を抜いて個性的な印象だった彼女の授業は楽しかったのだけれど、でも今こうしてそのとき覚えた方丈記を読み返してみたときにその内容について殆ど理解がなかったことに気付き愕然とするのです。もちろん暗誦したのがいけなかったというつもりはないのだけれど、僕のささやかな集中力を暗誦に傾けたあとには、そのテキスト自体の内容を楽しむ余裕はあまり残っていなかったようです。とても残念なことですが。
「無常観」という初めて知るキーワードのインパクトが大きかったせいで、かつて僕は単純にもこれが「無常観についての」作品であると思い込んでいました。でも思えば悟りを開こうと方丈に庵を結んだ男が、「人生は儚い」といういわば当たり前のことを言うだけのためにくだくだとこんな文章を書くはずもないのです。「人生は儚い、だから云々」とか「人生は儚い、しかし云々」と読んでいくのがまあ、素直なんでしょうね。
そんなことを考えながらつらつらと読んでいるとこの方丈記という作品、思いのほか能動的な思いに満ちているように感じました。人の世の儚いことなんか分かった上で、それならどうやって生きていくのが「良い」のだろうかと考えている。「どうせ儚い人生なんだから何やったってしょうがないじゃん」って言っているわけではない。健全な考えです。昔も今も人って同じように考えて一生懸命生きてきたんだな、なんて感傷的な思いにひたって、ちょっとホクホクした気持ちになりました。
内容としてはそれほど目からウロコが落ちるというようなものではないのですが(だって900年も前に書かれたものなんだから)、時代を超えた共感っていうのは、なかなか悪くないです。
それから反省したのだけれど、古典文学というと何故か原文で読まなきゃならないというような勝手な強迫観念があって、それで古典に触れる機会を狭めてきてしまいました。思うにテキストの文体自体を楽しむという目的を持っている場合でなければ現代語訳でも十分、というか、寧ろその方が楽しめるのでした。優れた訳文が出回っている以上、そうしていろいろな作品に触れてみたほうがいいですよね。外国文学にしたって原書で読まなきゃならない決まりなんかないんだから、考えてみれば当たり前です。
そんな簡単なことに気付くのに、随分かかっちゃったな。
『中国の歴史11』(天児慧)
天児慧『中国の歴史 11』(講談社)を読みました。
全12巻シリーズの11巻目。第二次世界大戦以降の中国(大部分は中華人民共和国)の歴史の概説書です。彼等の考える理想の国家を目指す中国の歩みを毛沢東と鄧小平という二人の人物を中心に据えて解説しており、単純に一つの読み物としても楽しめる本でした。
法学部の学生の時には中国政治史の授業もあったので、大教室での講義を(当時はなかなかの興味を持って)受けていたこともあるのですが、さすがにもういろいろなことをすっかり忘れていました。でも、中国というのはいい意味悪い意味含め本当に面白い国です。
親しい誰かのことを理解しつくすことなど到底出来ないように、かつては怪物の絵を表紙にした本で論じられたこともある複雑怪奇な国家という生き物を理解するのは難しい。一般市民である僕たちが研究者と同じレヴェルでの理解を求められることはもちろんないけれど、お互いをつくっているのがその一般市民であるとするならば、僕たちが僕たちなりに相手のことを分かろうとすることに意味があることだと(熱く)思います。
最近のギクシャクしたわが国との関係はいうまでもなく残念なことですが、こんなことがあった「お蔭」で僕たちがお互いに相手のことを考え理解しようと思うことに繋がるのだとすれば、それは長い目で見れば決して悲しむべきことに尽きるというわけではないでしょう。その場その場での諍いやすれ違いをそのまま結論としてしまうのか、それとも(かなりヘヴィだとはいえ)プロセスの一つとして受入れることが出来るのか-。
国際問題にせよ個人的な日々の営みにせよ、僕たちがいつの日か、
「まあいろいろあったけど、何だかんだ言って、結局良かったよね」
って言える日が来るのかどうかというのはそういうところにかかっているんだろうなと思います。
・・あれ?僕は誰の話をしていたんだっけ?
『蝿』(横光利一)

横光利一「蝿」(岩波文庫)を読みました。
まっすぐ帰宅するのも何となく芸がないので、少し足を伸ばして郊外の方に行ってみました。一番日が長い季節ということで7時過ぎまで随分明るくて、公園の広い駐車場に車を停めて、昔中学だか高校だかの国語の教科書に載っていた横光利一の『蝿』を読みました。
対比の面白い作品です。生と死の対比。登場人物がどのように生きているかの対比。また、ペアで登場する人物(若者と娘、母親と男の子、それから厳密には違うのだけれど、危篤の息子と彼に会いに行く母親の農婦も)の間での対比も。。
不器用ながら自分たちのやり方で生きようとしている人たちと、冒頭では逆に死に直面していた蝿がそれぞれどのような結末を迎えるのか-。
テキストにメッセージを求めたがっていた頃(そして、結末の部分のみにそのメッセージを求めてしまいがちで、しかも求めている割にはその肝心なメッセージを受け損なってしまっていた未熟な頃・・)は救いのないような話だと感じた覚えしかないのですが、今こうして読み返すと丁寧に作られた作品としての面白さが分かるような気がします、ようやくのことで。まあ、教科書で求められていた読み方なのかどうかは分かりませんが、そのときの気持ちで自由に読むのが小説の楽しさなんでしょうね。

