深夜


今から56年前の話だ。

事情があり、僕は自殺を図った男性の書いた手紙を目にする機会に遭遇した。B5の便箋40枚に亘るその手紙の何枚かは、インクの文字が滲んでおり、それが彼の涙によるものだということを聞かされた。それは男性が入院中に書いたものだった。筆圧の強い左上がりの文字は、それまでの彼の葛藤を物語っているような感じがした。

自殺未遂に到る当時、彼には結婚を約束した素敵な恋人がいた。男性のカラオケボックスに勤務し、店長のポストにあった。グループの店舗の中でも優良店であり、収入も同年代と比較して恵まれている環境にあったと言える。

しかしながら、彼は手紙の中に当時の自分の経済状況について「不安で耐えられなかった」と記されていた。それを解消するために男性は入店以来、他人よりも多くの仕事をこなし、会社に認められたのだった。それでも、彼の不安定な気分は解消されることはなかった。

診察にあたった担当の医師がそんな男性に向かって、こんな質問をした。

「アナタはこれまでの人生の中で常に経済的な不安を抱き、それが理由で自殺を図ったと言われました。それならば、一体幾らの貯蓄があればその不安は解消されるのですか」と。

その質問に男性は何も答えられなかった。

結局彼は退院までその質問に対する回答を口にすることはなかった。ただ、自分の生活に対して客観的な視点を持ち始め、平穏な暮らしに戻っていた。少し付け加えさせて頂くと、彼の深層心理の中に幼年時代に自ら命を絶った母親の姿が写し出されたという。

深夜のファミレス―――
探偵仲間でもあり友人でもあるF氏と会い、久しぶりに食事した。酒を嗜まない四十近いオトコが二人、夜中にダラダラと喋れる場所なんて、ファミレスくらいなものだ。ふと、この手紙のことを思い出した。
そして彼にこう尋ねた。

「Fさんにとっての“お金持ち”ってどういうこと?」

どこかの大富豪の言葉じゃないけど、“いちいち値札を見て買い物をするようでは、真の大金持ちとは言えない”。でも残念ながら、今の稼業を続けていたら、こんな台詞、恐らくは一生掛かっても吐けそうもない。

彼は少しだけ考え込み、そしてテーブルに備え付けられたメニューに目を移してこう言った。

「まぁ、ファミレスのメニューの価格見ずに、何でも好きなものを注文出来る位の身分じゃないかな」

当時の僕等からしたら、実に適度な尺度だった。