「一九四五年の日本の敗北ののち,極東国際軍事法廷でくだされた評決,すなわち一九三○年代のさまざまな動きは,長期にわたってねりあげられた陰謀の一部であるという評決は,あまりにも単純化されたものであることはいまや明らかになってきている.たとえば,いまでは知られていることだが,中国との全面戦争に発展していくきっかけとなった一九三七年の蘆溝橋事件を引きおこしていくきっかけとなった一九三七年の蘆溝橋事件を引きおこしたのは,日本政府でもなければ現地の関東軍」(支那駐屯軍は通称「天津軍」で別に編成)「でもなかったし,日本の陸軍参謀本部は華北の挑戦的な民族主義との戦いを縮小しようとさえ考えていたのである.またこれも知られていることだが,日本の外務省,陸軍,海軍のあいだでは政策についてかなりの意見の食い違いがあったし,一九三六年のドイツとの防共協定にしても,日本の手を束縛することのないようにと,慎重に考慮されていた.また大臣や役人たちのなかには,イギリスとの協定締結に熱心だった人びともいたし,一九三九年には,陸軍はまだアメリカとの戦争は避けなければならないと信じており,海軍は反英的な方向にはまだ乗り出してはいなかった」
「たとえば,イギリスには中国は将来脅威になると思っている人びとがいたし,中国の領土的野心のうわさが議会で公然と取りあげられたこともあった」「そのような証拠とは,たとえばビルマが中国の領土の一部となっている中国で作成された地図,東南アジア在住の華僑についての重慶政府の声明,前世紀の中国の不幸の責任は外国人にあるとする蒋介石の著書『中国の命運』,その英訳が蒋自身によって差し止められたこと,フィリピンのケソン大統領が,周囲にアメリカ人の顧問が誰もいなかったときにひそかに述べた,中国は「日本よりもはるかに大きな,アジアにおける最大の潜在的脅威」であるという警告,などである」
「一方,中国における国民党支配とヨーロッパのファシズムとの類似が,イギリス政府内でふたたび問題になっていた」…「ザフルラー・カーンがチャタムハウスの極東問題研究グループに述べたところによれば,中国は仏領インドシナやチベットの一部を手に入れたいと思っているだろうし,すでにビルマ北部はかつて彼らが宗主国であったことを強調」…「中国は極東のほとんどを支配下におさめることをもくろんでおり,当面の目標は香港,インドシナ,ビルマ,チベットである」覚書もある.