日本への侵略行為2 | タロウのブログ

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●878年~879年(元慶の乱)
元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている?
それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲。
これに便乗した帰化(新羅)朝鮮人300~500人も蜂起し、秋田城下の12村を荒らし廻る。
5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせ、鎮撫して終息した。
●893年~894年(寛平の韓寇)『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
この頃の新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、大規模な略奪による飢饉の打破を強行。これまでの新羅の入寇以来、最大規模の侵略となる。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、指揮を執る将軍は3人。これらを迎え討ったのは、対馬守・文屋 善友である。
善友は手勢僅か数百の軍勢で、雨のように射て逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡?(やなぐい)各110、盾312に?ものぼる莫大な兵器をうばい、奮戦撃破した。
意外と知られていない元寇の原因
http://nandakorea.sakura.ne.jp/honkanhtml/genko.html