最近、インターネットの有効利用(?)がようやくわかってきたので、自分の見た映画、舞台、読んだ小説なんかは、ネットで調べて他のリスナーがどう感じたか思ったかなんかを見て、自分とのズレを探すようにしている。


 


今日見た映画はジョニーデップ主演の「シークレットウィンドウ」


やっと見れた。


なんかねえ、この手の怖そうなやつって見るの後回しになって、結局見るの忘れんだよねえ・・・


 


はっきり言って、この映画は本当面白かった。


 


なんでこんなこと言うかってと、某大手検索サイトとかショッピングサイトのレビュー。


「この手のオチは使い古されていてつまらない。見る価値無し」


「序盤にオチがわかってしまって楽しめなかった。40点」


とか。




じゃあ書くなっ!




というか一体映画に何を期待しているのか・・・




そもそも、「見る価値なし」なんて書き込むこと自体、恥ずかしい行為じゃないの?




全否定は全肯定と同じだと。



だから、全否定をすることの方が俄然難しいはずなのに。。。




映画の書評に限らず、たとえば秋葉原の事件とか、最近起こっている、情けない卑怯者の犯す犯罪、


学校の裏サイトなんかもそうだよ。




全否定っつーのは


「自分はバカです」


って言ってるようなものだからね。




相手の顔、自分の顔がわからないから、とんでもないことを吐いて書き込む連中もそう。


(これはネット自体が非日常であるから、ネットの存在自体が増長させてるのもあるだろうけど)




加藤容疑者のネット予告だっけ、あれも恨みつらみかいていて、さも自分が社会の被害者であるかのように謳ってるけど、




あれはただの負け犬宣言だよ。




同情のかけらもない。


「僕は社会の荒波に負けました。ただそれだけのことです。バカなんです僕」




俺はバカという言葉が一番嫌いだけど、


俺が思う「バカ」とは想像力が欠如している人のことだと思う。




敗北感を抱かずに生きている人間なんていない。




彼より敗北感を感じた人なんて5億といるはず。




お前が気付いていないだけで、希望なんてそこら中にころがってんだよ。


希望を、希望と思っていないだけだよ。




それをすねたガキみたいにグチグチ情けない。


挙句、他人の人生をめちゃめちゃにしやがった。


俺は絶対に許さない。




それに次いでネット予告をする模倣犯。


あいつらこそ救いようの無いバカだ。




ノリだから。なんかじゃすまされない。


軽犯罪で捕まってはいるけど、


彼らこそ、加藤容疑者のような環境におかれたら、必ず自分を悲劇の主人公にして、同じようなことをする危険性が充分にある。まちがいない。


想像力のない人間は人の痛みがわからない。わかろうとしない。




自分も痛い。だから他人も痛い。




あたりまえのことすぎるけど、そのことに実感がなさすぎる。




他人の命を平気で冒涜できる人間は、まず自分の腹をナイフでさしてみるといいと思う。




話がずれたが、


ネットの普及のせいかどうか微妙なところだけど、


先に書いた映画のレビューにもあったが、全否定が多すぎる気がする。




僕がみたあの映画はサスペンスとうたっているけど、謎解きも大事だけど、何があの映画の一番の魅力かって、ジョニーデップ扮する、作家というもの心理。これにつきる。


ジョニーデップの演技は本当に素晴らしくて、書き物に煮詰まっている人間の些細な仕草からなにやらとても身近に表現している。


作家という職業は少数でなじみにくい職業だけれど、間違いなく彼の演技でその敷居が低く、とっつきやすくなっている。


あとは彼が扮するモート・レイニーという男に見ている方はのっかるだけ。




「なんだよ多重人格モノかよっ。いまさらいまさら」とかそんな観かたをしてる時点でこの作品の面白さに気がつくはずもない。




揚げ足を取りたいんだったら作品なんてみなけりゃいいと思う。




映画では「小説は結末がすべてだ。結末が全てを決める」と言っているが、


結末に向かって歩いていってしまう男の姿を見ないで、この映画はつまらないなんていってちゃだめだ。




話が秋葉原の事件にまで飛んでしまったけれど、


問題は加藤容疑者が、ただの快楽殺人者というか反社会的な人間ではないということが問題なんだと思う。


もちろん犯した行為は反社会的だし、今後社会とは一切関わってほしくはないけれど、




俺が彼に何の恐怖を感じるかというと、彼の起こした行動もそうだが、何より、彼の存在。


犯罪を犯す前の彼は決して反社会的でなかったという点。


というより、今の社会が、そういった反社会性を孕んだ人間がいるというのがスタンダードになりつつあるのかもしれないという点。




ずいぶん前の話だけど、宮崎勤の事件。


俺がかなり子供だったからというのもあるかもしれないけれど、僕は彼のことを異常者だと思った。


神戸事件の少年も異常者だった。


加藤容疑者も異常者に違いはないのだけど、段々と異常者が異常者でなくなっていくのが怖い。




過激な例えだけど、想像力がなくなれば、俺でも人を殺せると思う。


それくらい想像力というものは大事なものだと思う。




ネットは相手の顔がみえないからこそ、余計に想像して文章をかかなくてはならない。


「相手の顔がみえないからいいや」


そこに甘えてちゃ、必ず恐ろしい目にあう。


ネットの持つ、非現実性の枠を超えて、現実社会にまでかならず歪が出てくる。というか出てきてる。




学校の裏サイトの話もちょろっと書いたけど、今回の秋葉原の事件の模倣の殺人予告、全否定の多さ。




想像力の欠如。これは異常なものではなく、簡単に社会からつまみだせば済むという問題でないから恐ろしい。


いずれ社会を蝕んでいくかもしれない。



僕らは日常を生きているんだ。
喜びも悲しみも憎しみも、本当はそこら中に転がってる。
なるべくたくさんの日常に触れていくんだ。そして自分の知らない世界を想像していく。そして自分以外の誰かの存在も認めていく。敬意を払う。そうしてコミュニティが出来上がっていく。

だから僕らは映画を見て読書をして、音楽を聴いて、そして外に出て人に会い、会話をして、傷つき、喜んで、失敗して悲しみ、怒り、星空を見て綺麗だと思い、公園を散歩し、花の色や匂いが素敵だなと男ながら思ってしまったり、そういう些細なドラマを積み重ねていくしかないんだと思う。