まとわりついてくる喪失感から逃げるように、今日は高野悦子『二十歳の原点』を読んで過ごしていました。この本は本当にいい本です。外向きにははつらつとした明るさをしっかり保持しながらも、自分の底にはいつもこの社会に対する絶望感・ニヒリズムみたいなものがあって、でもそんな社会から見たら自分なんてものはいつも未熟で、孤独で、でもそんな自分にどう折り合いをつけていいかもわからなくて。そんなことをしっかりと思い出させてくれる本です。ずーっと昔や、はたまた昨日や、自分の人生の色々なときを思い出しながら今日はたくさん泣きました。どこまでいってもわたしは孤独で、この孤独を支えられるのは自分しかいないのだと思います。友情や、恋愛や、そんなものに救いを求めてもいられないのだと思います。いや、それでも本当はわたしはいつも誰かに救ってもらいたくて、でもそんなこと男としてのわたしにはいつも言い出せなくて、年をとるにつれて友だちは増えているはずなのに、何もないわたしをさらけ出せるような本当に信頼のおける人はわたしの周りからどんどんいなくなってしまって。本当のわたしはすっかり殻から出られないやどかりになりました。本当は、だれかにわたしの知らない輝く光の世界へ連れていってほしい。わたしのことを心から認めてくれる人の胸で泣いてみたい。でもそんなことはレッテルで武装された男のわたしにはできなくなってしまいました。小さい頃のわたしは本当に泣き虫で、幼稚園に行くにも親の手が最後まで離せなくて、毎朝園の先生に無理矢理剥がされて、その先生に抱かれながら帰っていく親の車を見て泣きわめくようなそんな子どもでした。そこからわたしは学年が上がるにつれて、「男なんだから泣くな」と言われ続けて育ちました。それからは、色々なことをまあ立派に成し遂げてきたなあと自分ながら思います。色々な人に信頼されながら、その信頼にどうにか応えてあげようと必死になって駆け回って、もがいて、苦しんで、でもその苦しみこそがわたしを強くすると思って、強くなって、強くなって。わたしはここまで強くなれたんだと思いました。でも最近、わたしの中、それも本当に奥底にある、入り口に大きな錠前のかかった暗い部屋のはじっこで、赤白帽子をかぶりながらずーっと三角座りをしている、あの頃の、泣き虫で、ヘニャヘニャで、何もできないわたしが、夜中わたしがひとりになっているとトコトコやってきて、「毎日はつらくない?」って聞いてくるようになりました。結局わたしは昔から何も変わっていません。誰かと喋っているとき、「この人はわたしを見ていないな」ということがわかるようになりました。この人はわたしを見ているんじゃなくて、わたしというスクリーンに映った、見栄えのいい映像を見ているなという目がわかるようになったし、その目に反射したわたしの姿を見て、猛烈に吐きそうになってしまうこともあります。結局のところ、いまのわたしは本当に誰も信頼できていないのです。本当は、すべてを包みこんでくれるような人と、こんな地球を飛び出して、星空を蹴りながら、あてもなくどこまでも進んでいって、見つけた手頃な星に腰かけて、コーヒーでも飲みながら愛を囁いて泣きたい。ああ、こんなに素敵でありきたりなことしか考えられない自分にも腹が立つなあ。どうやらこの先も泣いてばっかりの人生ですが、この涙が出なくなったとき、わたしは死ぬんだろうなあと思います。
都会にそびえるビルも、きたない大人も、うるさい高架下の改札口も、しょうもない学歴も、全部消えてなくなってほしい。何かがないといけない世界を生きることは、私には本当に大変です。だって、私には何もないのだから。