『日本のブルースアルバムの名盤紹介その25』

ブルースの新星 / パワーハウス登場
東EXPRESS UPJY-9131 [JAP] 1969

なんか忘れていると色々探していて、1枚のレコードを見て、はたと気づきました。パワーハウスの記事を書いていないと。時代は1969年。ゴールデンカップスが第3集を発表し、BLUES CREATIONがデビューした年にパワーハウスがレコードを発売しました。私はこのバンドも日本のブルースを作った最初のバンドの一つだと思っています。パワーハウスはその後、メンバーチェンジを経て、パワーハウス・ブルース・バンドとなり、1974年のライブ音源を残しています。またパワーハウスの初期スタジオ録音とライヴ音源をコンパイルした編集盤もリリースしています。竹村、陳はその後、30年以上横浜で音楽活動を続けます。野木はその後、実弟に自身のドラマーの座を譲り引退。柳は柳ジョージとして活躍しました。彼らの音源でビックリしたのは、ビートルズのBACK IN THE U.S.S.R.をブルースでアレンジしたことです。この音源を聴いた時は凄いと思いしました。

https://youtu.be/gvvrfAWpvh8?si=r4SN9pSgBx4yV6dp

日本で初めての本格派ブルース・バンド"パワー・ハウス"が出来るまで

3年程前、竹村栄司、陳信輝はバンド結成を思い立ち、現在、ザ・ゴールデン・カップスのメンバーであるルイズルイス・加部と共に、ヤード・バーズのレパートリーを得意とする「ミッドナイト・エキスプレス」と云うバンドを結成する。その時のパーソネルは次の通り。(ヴォーカル) 竹村栄司。(リード・ギター) ルイズルイス・加郎。(ドラムス)陳信輝。
その後、ルイズルイス・加部は当時「グループ・アンド・アイ」の名前で活躍していた現在の「ザ・ゴールデン・カップス」に転身したので、オルガンのミッキー吉野(現在ゴールデン・カップス在籍)を加え、 日本で初めての本格的ブルース・バンドの「第一期べベス (Bé Bes)」を結成した。そして同時に陳信輝はドラムスからギターに転向した。
この頃、ゴールデン・カップスのいない横浜でサイケデリックとR&Bを得意とするバンドがあり、「べベズ」と人気を二分していたが、この中に柳譲治、野木新一が活躍していた。
'67年12月、ミッキー・吉野がケネス・伊東のかわりにゴールデン・カップスへ転向したのを契機に、より完璧なブルース・バンドを作るべく、柳、野木をスカウトし、現在のメンバーである「第二期ベベズ」来上ったのである。全員、こよなくブルース音楽を愛し、約2年間セミ・プロのブルース・バンドとしてカップスのいない横浜で活躍して来たが、カップスの強い推選で今年レコーディングを契機として、グループ名を現在の「パワー・ハウス (Power House)」と改名した。この「Power House」と云う名前は、「クリーム」のギターリストとして有名なエリック・クラプトンが、かつて主催していたバンド名「エリック・クラプトンとパワーハウス」から取ったもので、"幻のブルース・バンド"と云われ、白人最高のブルース・バンドと呼ばれている。全世界に"ブルース熟"が高まっている折、「パワー・ハウス」のブルース・サウンド をお楽しみ下さい。

★竹村栄司(ヴォーカル、マラカス)
出身地横浜
生年月日 S23-6-18
学歴 日本大学芸術学部中退
好きなアーティスト スティビー・ウインウッド、麻生レミ、ジョン・メイオール、ジャニス・ジョプリン、デイヴ・平尾、ジョン・メイオール& his ブルース・ブレイカーズ、フリート・ウッド・マック、ジェフ・ベック・グループ、キャーンド・ヒート、クリーム、マザーズ・オブ・インベンション 
尊敬する人 ジョン・メイオール

★陳信輝(リード・ギター)
出身地横浜
生年月日 S24-5-30
趣味レコード収集 (ブルースに限る)
学歴 横浜中華高校
好きなギターリスト エリック・クランプトン、ジェフ・ベック、ピーター・グリーン、スペンサー・デイビス、エディ・藩
好きなアーティスト クリーム、ジョン・メイオール & his ブルース・ブレイカーズ、ジェフ・ベック・ トリオ、フリート・ウッド・マック、キャーンド・ ヒート、マザーズ・オブ・インペンション

★柳譲治(ベース・ギター、ヴォーカル、ハモニカ)
出身地横浜
生年月日 S23-1-30
趣味レコード鑑賞(ブルースのみ)
学歴 日本大学法学部政経科在学中
好きなアーティスト エリック・クランプトン、ジャック・ブルー、ジョン・セバスチャン、ピーター・ グリーン、ルイズルイス・加部、クリーム、ジョン・ メイオール & his ブルース・ブレイカーズ、フリート・ウッド・マック、ラヴィン・スプーンフル、キャーンド・ヒート

★野木信一(ドラムス)
出身地 横浜
生年月日 S24-1-6
趣味 レコード鑑賞(ジャズ、ブルース)
学歴 聖ミカエル学院高等学校
好きなアーティスト ジョン・メイオール、B.B.キング、エリック・クラプトン、アルピン・リー、ピーター・グリン、ルイズルイス・加部、ジンジャー・ ベーカー、ジョン・メイオール& his ブルース・ブレイカーズ、クリーム、テンイヤーズ・アフター、 フリード・ウッド・マック
尊敬する人 フィーリー・ジョー・ジョーンズ

(Guest musician)
ミッキー吉野 Micky Yoshino - piano, organ

Side A
① BACK IN THE U.S.S.R.
② HOOTCHIE KOOTCHIE MAN
③ I WANT TO KNOW
④ FOXY LADY
Side B
① YOU’RE BETTER MAN THAN I
② OB-LA-DI,OB-LA-DA
③ SPOONFUL (柳譲治がVo)
④ GOOD MORNING LITTLE SCHOOL GIRL

<ライナーノーツ(CD)>
なんだかんだいっても結局、頑固なのだ。なにかというと内心新しもの好きのくせに、一般的に広まったころには「なんだそんなもの」てな醒めた顔している、そういうほうがカッコイイ、という傾向が横浜の人には確かにある。いわゆる〈一般論〉に対して、端から(または潜在的に)強い不信感をもっているのだ。そんなこともあって、横浜という土地に住む人は、プライドが高くクールで身のこなしがスマート、というイメージの固定化がなされたりもする。〈港町のナイス・ガイ〉てなやつを女性おしゃれ雑誌的観光物として設定しやがって。しかももっとひどいのになると、横浜に暮らしているんだから、ってんでそういうイメージに沿った生き方を自分に課してしまう大バカさえいる。全くメイワクな話だ。どんなに見た目がカッコよかろうが、不特定多数のイメージを満たすなんてことをしちまったらダメなの。実は私も横 浜育ちだが、かつて「あんたなんか横浜の男とはいえないわよ」と東京の娘にいわれたことがあった。パブリック・イメージの毒ってまわりやすいのね。横浜にくらしてて車の免許もなくアイヴでもなく、バカで助平で甘ったれなんてえのはダメらしい。そりゃ私も矢作俊彦の『マイク・ハマーへ伝言』は愛読したし共感するが、あれがすべてと思われちゃ横浜なんて住みにくくてしょうがねえぞ。
伝説というのは胸トキメかせてくれるものだが、目をくらませるものでもあるわけだ。東京のディスコのステップの流行というものが、横浜のディスコの流用、横浜/横須賀で流行ったものが、東京に伝来されて後全国に広まっていった=横浜が日本の踊りの流行の先端にいた、というのは70年代のせいぜいまんなかよりちょっとあとぐらいまでの話である。80年代に入ってからのテイタラクは、件の「横浜博」とかいう忌しいものとなって結実するわけだが。
横浜が日本の大衆音楽シーン、特にGS〜ロックという流れの中で、特殊性を示して来た一番の原因は、横浜が港町でありつつ米軍基地の街だったことにある。本牧という横浜スタジアムの4倍という広さを持った〈近所の外国〉。異文化、それも憧れが、違和感に勝る特別な価値感の素。そこでは何もかもが新しく好奇心をゆさぶった。本牧周辺の空気を吸いなれてしまうことは、日本の 平均的感動というものに対して不信感を持つ、ということに他ならなかった。今でこそアメリカはOLさんの娯楽場だが、20年前の日本人にとっては遠かった。1ドルだって360円もした。その遠い憧れへ確実に通じている扉、本牧米軍基地とはそういうものだった。
ゴールデン・カップスが出てきたとき、テレビでその姿を見た私が反射的に思い浮かべたのは、近所の不良、という存在だった。それ以前から「エレキは不良を作る」だの「GSはうるさくて汚い」だの、いろいろ言われていたが、カップスは掛け値なしに「GS(ロック)は不良の音楽だ」ということを身をもって示していた。しかもその表情にも容姿にもすえた臭いが漂う凄味があった。近所の空地でシンナー吸ってる中高生のお兄さん、というイメージが、なんとなく頼もしく私には思えたのだ。カップスは日本のGS界で最もはやくブルース・ロックを志したバンドである。67年のレコード大賞をブルー・コメッツの「ブルー・シャト一」が受賞したことで、GSは戦国時代に突入したわけだが、68年にはすでにビートルズやストーンズ、といった英国のビート系グループのサウンドや音楽性を手本にするばかりでなく、なんでもいいから他とちょっとだけでも違うこと、というあまりにも歌謡界的志向のバンドが乱立した。なかでも当時の洋楽の流行りを取り入れたR&Bのグループと称するものも少なくなかった。カップスはデビュー当初から、モータウンやスタックス系のR&Bはお手のもの、とり立ててR&Bフレイヴァーを強調する必要がないほどR&B感覚を取り入れ表現することには長けていた。そんなことも あって、世の中がR&Bだなんだと騒ぎはじめたころには、すでにブルース・ロックを標榜していた。クリームやポール・バターフィールド・ブルース・バンド、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ、といったいわゆるホワイト・ブルースのバンドを新たなお手本としていた。なぜ黒人のブルースが手本にされにくかったかといえばレコードを手に入れるのが、たいへんだったこ とと、あくまでバンドの型態バランスは保たねばならず、ギター・ソロが派手なほうが好まれた、という2点が原因ではなかろうか。カップスはそうしたブルースへの没入の成果を69年3月発表の『ブルース・メッセージ』というアルバムとして示す。
パワー・ハウスはそんな不良の兄貴=カップスの弟バンド、といわれていた存在である。が、カップスとパワー・ハウスとはその源流が同根である。パワー・ハウスの原型は、66年に結成されたミッドナイト・エキスプレスというバンドである。メンバーは竹村栄司(ヴォーカル、ベース)、ルイズルイス・加部(ギター)、 陳信輝(ドラムス)の3人。主にヤードバーズの曲を得意としていた。その後加部がカップスに参加。残った2人はキーボードのミッキー・吉野を加えて、日本初の本格的なブルース・ロック・バンド=ベベズを結成する。ミッキー参加時に陳はギターに転向している。ベベズは67年の春ごろから活動していたようだが、メンバーは陳、竹村、ミッキーの他は流動的だったようだ。ミッキ一は68年夏にはカップスに正式加入してしまうが、ペペズ→カッ プスの間にフラワー・クリエイションというバンドに参加していたこともあるらしい。結局ミッキーが抜けたのを切っ掛けに、陳と竹村はよりグレードの高いブルース・バンドを目指し、柳譲治 (ベース。後の柳ジョージ)と野木信一(ドラムス)をスカウトする。ベベズは横浜のディスコを中心に活動。客を無視して自分たちの好き勝手な曲をやっていたが、そのブルース・フィーリングの濃密さが話題を呼び、レコーディングの話もまとまる。いうなれば正式なプロ・デビューであるが、それを機にバンド名もベベズからパワー・ハウスへと改める。
『ブルースの新星/パワー・ハウス登場』というアルバム、つまりこうしてここにCD化されたこのアルバムは69年4月1日にリリースされた。中の⑥「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」は①の 「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」とカップリングで、69年3月にシングルとして先行リリースされていた。
サイケデリックなジャケットに負けない重さを持った内容である。陳の非凡なギター・プレイはもちろんのこと、竹村の堂々たるヴォーカル、柳のハーモニカやベースでの手堅いプレイも味わい深いものがある。カップスはどちらかというと、ブルース・ロックといってもサイケデリックな色を出してしまいがちだったが、パワー・ハウスは実にストレートなブルース・ロックを聴かせて いる。特に⑦「スプーンフル」と⑧「グッド・モーニング・リトル・スクール・ガール」における、長時間のインプロビゼーションは画期的なものであり、その後の来たるべきアート・ロック時代を予見させるものである。ギターの奔放な前進を受けとめながら、しっかり自己主張している柳のベース・ランニングは、さすがである。しかも1のブルースとしての消化力。単なるカヴァーに終わらせぬ決意が見える。ブルースという型式にはまって自己陶酔するのではなく、ブルースを基点とした意識の変革とさえ呼びたくなる。他の曲にしてもそうだ。単なるジミ・ヘンドリックスのカヴァーではなく、ジミの底に流れているハードなブルース魂を暴き出そうとでもしているような④ 「フォクシー・レディー」 や、スカ・ブルースとでもいうようなちょっとポップな⑥も捨て がたい魅力を放っている。
69年という年は、カップス、パワー・ハウスの他にも、ブルース・クリエイション、関西のヘルプフル・ソウルといったブルース・ロック・バンドがレコード・デビューを果した年だった。ブラインド・レモン・ジェファーソン、チューリップスといったレコードは残さなかったが、ライヴで注目を集めたブルース・バンドもあった。GSという特異で奇異なパワーにあふれたひとつのマグマが、冷めて、商業の波に浮かんだり沈んだりした、いわばGS終焉の年だった。エレキを持ちバンドを作り人前でパフォームしたのは、なぜだったのかという、反問がはじまった。音楽家としての自分に立ちかえった人々は、GSと呼べるほどの楽天性はもはや捨てはじめていた。ブルース・ロックはそうした動きの中で、 GSを反面教師としてロックを改めて志しつつあった者にとっては重要な心のよりどころだったのである。中には技術と思考がかみあわずに消えていった者も少なくなかっただろう。ロック・バンドとしての活動は楽なものではなかったのだ。安田講堂は落城し、フォーク・ゲリラは新宿西口広場からしめ出された。アメリカでは、シャロン・テートがチャールズ・マンソンのファミリーに惨殺されたが、ウッドストック・フェスティバルに40万人も集まった。ブライアン・ジョーンズは突然ひとりぼっちでプールに浮いてしまった。もちろんヒッピー幻想とGS幻想を同一視するつもりはない。しかし、何かが確実に終わろうとしているという巨大なオーラの動きは世界中で多くの人々が感じていたのだ。
このアルバムもその感応の証しのひとつではないだろうか。パワー・ハウスは70年春に解散してしまうが、その後の陳信輝の作品(フード・ブレインの『晩餐』や『SHINKI CHEN』、スピード、グルー&シンキなど)に共通する奇怪なうねりが、ここにも光っている。
                平成元年7月湯浅学