イメージ 1

1977年9月28日
フランスのパリから離陸した日本航空472便(DC-8-62 JA8033)東京行きが途中インド
のムンバイ空港を離陸直後にハイジャクされた。犯人グループ5名は機内で突如雄叫びを上げ客室を制圧し、アシスタント・パーサーからキーを略奪し、コクピットに押しかけた。
「我々は日本赤軍である。日本政府に対抗する為この機を乗っ取る。この作戦準備は1年半かけた。なお、我々はDC-8及びDC-10の操作方法も学んだ。おかしな行動をすればすぐ分かるからそのつもりでいろ」と告げた。
一方、機内では乗客の抵抗を阻止する為、男性は全員窓際に移された。そしてスチュワーデスや女性客を使い非常口にバリケードを構築する為荷物を運ばせた。
その中の客で、「女性に重い荷物を運ばせるな!」等一言でも罵声を発した者は直ちに容赦なく銃器で滅多打ちにされた。その暴行を受けた者に例外は無く、荷物運びを拒否した白人女性客も顔面の形が変わり、周りに鮮血が飛ぶほど殴られたという。

犯人のうち一人は2年前にマレーシアのクアラルンプールの米大使館占拠事件で人質交換により超法規釈放された「あさま山荘事件」の犯人の一人、坂東國男(現在レバノンに潜伏中とされる)がいた。
☆その当時、坂口 弘(現・死刑囚)も要求の中にいたが本人が辞退した。「死刑を免れる為」という説があるが、実は坂口は、あさま山荘事件の自体で日本赤軍に対する意見別れがあり、その為拒否したと思われる。

日本赤軍は、着陸地にバングラデッシュを選択。バングラデッシュは革命が起きたばかりで日本赤軍の意図にも理解があるだろうという選択だった。


バングラデッシュのダッカ国際空港ではマームード空軍大佐が指揮・交渉にあたり、空港は着陸後直ちに閉鎖され、軍と警察で飛行機を囲んだ。
この際、日本赤軍は9名の釈放(うち2名は通常の服役囚)と600万US$(当時の日本円で16億円)を要求。
☆その釈放犯の中には「三菱重工爆破事件」など多くの日本国内の爆弾テロの犯人も含まれていた

日本からは福田赳夫首相(現・福田康夫総理の実父)が内外的な「テロリストの要求を呑むべからず」との言葉を蹴り「人命は地球よりも重い」という名言を残し、特別機で石井一運輸政務次官(現・民主党党員)を始めとする人員を送り込んだ。
☆「テロリストに資金を与えた」と非難されたが、海外の他の事件でも似たような解決策がとられた為、日本だけ責任を問うには無理がある

だが、現地ではバングラデッシュ政府と日本赤軍の交渉が続き、双方から日本が直接交渉することは拒まれた。
そこで突然バングラデッシュ軍による戦闘が始まる。
現在、一部では「身代金略奪の為」という噂があるが、実は身代金は関係なく、この事件で軍が空港に集結してる隙をついて、反政府を目論んだ一部の軍隊によるクーデターであった。
(翌日には鎮圧されている)
結局、内政不安なバングラデッシュにこのまま居座るのは双方危険と判断し、日本側は女・子供の釈放のみで、身代金全額及び釈放犯全員引渡しでバングラデッシュから離陸した。

しかし、当初は同じ革命の有志と見ていたリビアに逃走を仕掛けたが、リビア空軍の執拗な妨害で追い返された。この事は犯人にとって非常にショックだったという。

結局、アルジェリアに着陸したが、そこではアルジェリアは人質の無事解放を条件に犯人及び飛行機及び身代金については一切問わずという条件が科せられ、犯人はそのまま空港から立ち去った。
(銃撃戦などの国内での損害を憂いした結果と思われる。現に他の国からも断固着陸拒否を突きつけられている)

機体は、無事に日本に帰ったが、約一週間に及んだ事件の間、乗客の汗と嘔吐、そして循環式トイレが処理しきれず真っ黒になるなどで機内は異臭が染み込み、内装は全て張り替えられた。その後は1984年まで通常に運行を行なった。