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1983年8月31日13:05
大韓航空ボーイング747 アラスカ経由ソウル行き007便が離陸。

1983年9月1日3:38
007便が領空侵犯を行い、警告にも応じなかった為、ソ連軍極東防空軍のSu-15戦闘機がミサイルにて撃墜。

乗員乗客269名(うち日本人28名)全員が死亡した。

たとえ、領空侵犯とはいえ「撃墜」したのは国際的に大非難を浴び、西側各国はこの事件後、ソ連に対する態度を強化し、アメリカも旅客機の相互乗り入れを無期限停止するなど世界中に激震が走った。

なぜ、こんなことが起きたのか?

☆事件の経緯は次の通り。
007便はアラスカ州アンカレッジ空港に予定通り到着した

その一方で撃墜現場ではアラスカ州から飛び立った米空軍の電子偵察機RC-135が、わざと領空侵犯を行なった。
この行為は、冷戦時代、ソ連も日本やカナダなどに行なっていたもので、迎撃機が何が飛んでくるか機種を確認し、スクランブルで飛んでくる時間などを計算し、領空を出て行くもので、もはや当時は西側・東側がお互いにやっていたことだった。

しかし、米空軍RC-135は、もう一度確認する為、また領空侵犯を行なった。
それに対し、ソ連極東防空軍は2度目のスクランブル発進を行なった。

ソ連極東防空軍に緊張が走り、もはや「次来たら許さない」という雰囲気に包まれていた。

そして3時。再び現れた領空侵犯機
指令はパイロットに対し「もう許さん、撃墜を許可する」と指令し、スクランブル発進。

スホーイSu-15型戦闘機1機を先頭に2機のミグ23戦闘機が発進し、現場上空でRC-135を目視。米空軍の無線周波数で警告したが、全く動じず、そのまま進路も変えず領空外に向かっていた。

Su-15からミサイルが発射。RC-135は、あっという間に火を噴き墜落していった

当時の航空自衛隊は当時の状況を傍受し録音していた。
パイロットの「やった!やった!!ざまあみろ!!」という歓喜の声が録音された。


この日、基地では撃墜した機体はしつこく領空侵犯したあげく警告にも応じなかったRC-135の
証拠の回収作業を早速開始、証拠を入手次第、米政府に厳重抗議を行なう予定だった。


翌昼。撃墜したパイロットが自宅でのつかの間の休息をし出勤すると、基地ではなんと、そのパイロットを直ちに内陸の基地へ家族ごと転勤させる手筈を整えていたのだった。

そして基地司令はパイロットに向い、こう言った「昨日撃墜したのはRC-135じゃなかった・・」



米空軍のRC-135偵察機は、元々はボーイング707旅客機を改造したものだった。

http://blogs.yahoo.co.jp/tarepajp/4300813.html

それが夜間飛んでいれば同じ4発エンジンのボーイング747と区別するのは非常に困難だった。

http://blogs.yahoo.co.jp/tarepajp/2303565.html

しかも米空軍の周波数で呼びかけても、相手は民間機。通じる訳が無かった。


☆ではなぜ007便は領空侵犯をしたのか?
当時推測と007便のパイロットの同僚の証言で、大体こういう経緯なのでは?という話はあったが、
1993年にソ連崩壊後のロシア共和国が、韓国との国交樹立のお土産に持ち込んだ当時の007便のボイスレコーダーと、フライトレコーダーを分析した結果、その予測を裏づけることが出来た。

まず、アンカレッジから、自動操縦装置を「帰り」に切り替えないとならないのだが、機長がうっかり忘れてそのまま飛び立ったようであること。
切り替えないとどうなるかというと、結局ソウルまでは飛行するが、その間の航路がソ連の飛行禁止空域を避けるようになってるのとは逆になるので、ソ連の飛行禁止空域を経由してソウルに向かうことになってしまう。

その事実を裏付けたのは、007便機長の同僚の証言で、当時彼は同じボーイング747で15分先行して同じ航路を飛んでいた。その際、機長同士の雑談の中で「風が強くて機体が揺れるから気をつけろ」と言ったら「風なんかないぞ?」という返事が返ってきたことが記録されていた。

そして撃墜される前、特に無線交信はなく、いきなりミサイルが命中したので、パイロットは、それがミサイルであることも認識せずに「メイディ!メイディ!操縦不能!!」という声を最後に録音は終わっていた。

なお、機体は高空からの急降下で速度がマッハを超え、機体が耐え切れず途中で粉々に粉砕したと推測されている。

007便の機長を始め、最後の最後まで誰も007便に迫る危機を認識せず墜落していったと思われる。


しかし、不幸にもソ連と米国の冷戦の真っ最中の出来事で、日本の目の前のカムチャッカ海域で墜落したにも関わらず、ソ連は西側諸国の現場立ち入りは一切禁止し、撃墜したことについても「第三次大戦」を懸念し、うやむやなまま、遺族補償どころか遺品すらも回収することが許されず、結局事件発生から10年近くが経ちソ連が崩壊という形でようやく事の事態が明らかにされた。

冷戦中の犠牲者はベルリンの壁を越えようとして射殺されたものや、朝鮮戦争、ベトナム戦争といったいわゆるソ連とアメリカがバックに付いた「代理戦争」だけではなく、こういた形で犠牲になった人達もいたというコトを忘れてはならない。

☆画像はトルコ製のSu-15Fのキット。冷戦時は誤ってSu-21と言われてた頃もあったという。

もう一つはハセガワのミグ23で後期型のフロッガーB。他にはアカデミーのコピー版もある。