徳島氏の城は芦刈町西部(浜中)と東部(小路)にあったという。西部が先で東部が後と考えられている。
武雄に勃興した渋江氏への脅威から守るために小城千葉氏が派遣したもので、のちには島原半島の島原氏が勃興して渋江氏にとって代わり西肥前を制し、牛津川が最前線となった。蝮森城は、牛津川を堀として有馬勢侵攻を防ぐための国境の拠点という役割を果たした。なお城の東の徳島堀はこの城の外堀であると伝わっている。また、縄張りについてはクリークを利用した環濠型の城だった。盛土のある築山観音が一応は主郭の一部とされている
東部の小路については「陣の森」「陣の山」と呼ばれ、今日でも「珍山」と呼ばれ城跡であると地域に伝わっている。盛土区画が近年まであり、主郭があった事もわかる。が、縄張りがよくわからない。堀に囲まれた南北に長い長方形の二区画をあわせたものが城跡だろうか。
なお、この徳島氏は肥前十七人城持ち、十九人城持ちにも数えられた。
