そんな感じ。 since March 28, 2005

そんな感じ。 since March 28, 2005

日常生活の中で、ふと感じたこと。

関心したこと。

その時の感性のおもむくままに気ままに書き留めています。

2026年01月31日(土) 晴時々曇

【横 浜】最高気温 9.3℃ / 最低気温 1.2℃

 

加曽利貝塚の最寄りのバス停(桜木町)から千葉駅行きのバスに乗って、「千葉銀行中央支店」バス停で降りて、千葉市美術館へ。

 

16:08 @千葉市美術館

 

 

『ロックフェラー・コレクション 花鳥版画展 北斎、広重を中心に』展を見に来ました。

観覧料は1,800円。

 

モダン・レディが恋した、可憐な浮世絵』というサブタイトルが付いているように、アメリカの名門ロックフェラー家の一員、アビー・オルドリッチ・ロックフェラー(1874-1948)によって収集され、ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(通称・RISD美術館)に寄贈された花鳥版画の企画展です。

 

アビー・オルドリッチ・ロックフェラー(1874-1948)

 

アビー・オルドリッチ・ロックフェラーは、アメリカのソーシャライトであり、慈善家。 

彼女は資本家で慈善家のジョン・D・ロックフェラー,Jr との結婚を経て、ロックフェラー家の重要なメンバーとなり、ニューヨーク近代美術館「MoMA」の設立に貢献したことで知られてます。
アビーの日本美術収集資金は、彼女自身の莫大な実家の資産(遺産)が大きな役割を果たしました。 
アビーの父のネルソン・W・オルドリッチは実業家であり上院議員でした。
1915年に父ネルソンが亡くなった際、莫大な遺産を相続し、ニューヨークの日本美術商「山中商会」などから質の高い浮世絵を購入しました。

当時、日本から欧米へ多くの美術品が流出しており、比較的安価で良質な作品が購入できました。

 

莫大な資金があっても、才覚がなければ良いコレクションは築けないですよね。

日本美術だけではなく、モダニズムや近代アートにも関心を持ち、「MoMA」の設立にも携わったというのもすごい方だったのだなぁ~と思いました。

 

展示は基本的に写真NGだけど、写真撮影可だった作品の中から、いくつか紹介。

 

渓斎英泉(1791~1848) 一富士二鷹三茄子

 

渓斎英泉といえば、浮世絵研究家の今中宏氏が収集した渓斎英泉のコレクション300点が千葉市美術館設立の契機になったんですよね。

渓斎 英泉(1791年)- 1848年)は、江戸時代後期から末期にかけて活躍した浮世絵師であり、また戯作者一筆庵として文筆面でも活躍しました。

 

 

歌川広重(1797ー1858) 雪中椿に雀

背景が灰色一色の本版が初版と考えられているそうです。

 

歌川広重(1797ー1858) 雪中椿に雀

背景に雪を降らせ青色のぼかし摺を施した後版。

青と降雪を入れると、まったく雰囲気が変わりますね。

 

葛飾北斎(1760ー1849) 露草に鶏

雌鶏の体の上に1羽、羽の下に2羽のひよこがいて、鶏一家の「家族の肖像」という感じで、暖かみが感じられるわ。

背景の露草も良い感じ。

 

歌川広重(1797ー1858) 燕のことろ遊び 

『燕の特徴的な二股の尾翼を、足に見立てて擬人化した戯画。

ことろ遊びは、列の最後尾の者が鬼に捕まらないように逃げる遊戯です。

鬼役と向かい合った先頭の燕は、両翼を広げて列を守っています。(解説より)』

 

この版画、可愛い~。 欲しい~。

 

17:05

歌川広重(1797ー1858) 「風流新彫 東都名所 不忍の池」

手前にはちすと燕、その先に弁天堂、その先に根津ごんげん(根津神社)があるから、不忍池の南東からの風景かな。

今は池の周りは高層ビルが立ち並んでますね。

 

 
企画展を見終えて、5階の常設展示室へ。

 

田中一村の《アダンの海辺》が素晴らしくて、ずっと見入っておりました。

久し振りに絵葉書(330円)を買いました。

 

1階の「Café de Seizan」でお茶でも飲もうかと思ったら、営業時間は16時迄で閉店していました。

千葉市美術館は金・土曜日は、20時まで開館しているけど、カフェは閉まってしまうのね。

そういえば、前回来た時にランチした11階のレストラン「盛山(せいざん)」は2025/9/1〜から休業しているそうです。

 

帰りは美術館のスタッフさんから教えて頂いたバス停「中央3丁目」からバスに乗って千葉駅へ。

 

18:06   

「ペリエ千葉」1階のTruffle bakeryで塩トリュフの塩パン(324円)とカプチーノ(561円)をいただきました。

 

18:34 帰りは総武線快速のグリーン車で。

やっぱりグリーンだと疲れが取れるわ。

 

20:16 地元の蕎麦屋でもり蕎麦(600円)

 

今日は21,552歩、歩いたからさすがに腰が痛い。

2026年01月31日(土) 晴時々曇

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復元された竪穴住居を見て、「これで全て見たかなぁ~。」と思いつつ、正面入り口へ戻る途中、構築物らしきものが目に入った。

「あれ、何だろ?」と近づいてみると、貝層断面観覧施設でした。

 

15:03 南貝塚 貝層断面観覧施設の出入り口。

 

『ここは、南貝塚の一部を南北に切り通し、その断面を観察できるようにした施設です。

貝塚の景観を損なわないように設計されています。

展示している貝層は、全長30メートル、厚みは1メートル以上もあり、日本最大の断面です。』

 

貝塚の景観を損なわない設計は素晴らしいけど、こんもりした小山の中に施設があるので、見過ごしてしまうところでした。

 

南貝塚の貝層

長径約190mの馬蹄形に盛り上がった南貝塚の貝層は、縄文時代後期の人々が長年にわたって貝殻を積み上げたものです。

貝層には多くの動物骨・土器・石器などが含まれており、人やイヌの埋葬、焚火跡などの生活の痕跡が多いことが特徴です。

貝塚の内側は生活の場として使われ、小規模な貝層の形成は縄文時代晩期まで続きました。

貝類はイボキサゴとハマグリを中心とし、アサリやシオフキが多く出土することは北貝塚と同じですが、

①ハマグリの割合がやや高い、

②スガイやオキアサリがかなり混じる、

③二枚貝がやや大きい、という特徴があります。

2021(令和3)3月』

 

施設に入りま~す。

 

左右の壁面にの断面が保存されています。

 

「クロダイ歯骨」とか「クロダイ前上顎骨」とか、矢印入りのプレートが貼られているけど、そんな小さなもの見ても分かりませんってびっくり

プロは、よく見つけられるよね~。

縄文人がクロダイを食べていたことは分かったけど。

 

左から右に斜めに横断する小粒な貝の層は「イボキサゴ純貝層」

大きめの貝はハマグリですかね。

 

この後、正面入り口に戻って、帰りはモノレールではなく、バスに乗ろうと「桜木町」のバス停を目指して歩く。

まったく土地勘がないし、まわりは住宅がずっと続くし、Googleマップがなかったらバス停まで辿り着けなかったわ。

「桜木町」のバス停に着いても、どちらが千葉行きのバス停か最初は分からなかったし、反対側のバス停がそうだと分かっても、バス停の標識がすごく小さいから見過ごして、行ったり来たりして、最終的には通行人の人に聞いて、何度も通り過ぎた所にあることが分かった!

ホントにね、無駄に歩いたわよ。

まったく土地勘がないと、スマホ画面に写る範囲の地図ではまったく分からないし、一人なら道に迷おうが自己責任だから気楽だけど、なんかね~、一人旅(ってほどでもないけど)が心細くなりました。

 

15:36 「桜木町」のバス停があった所。

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広い加曽利貝塚を北から南へ進む。

 

14:51 南貝塚

 

この広々とした風景、八ヶ岳西山麓の尖石遺跡を思い出すなぁ~。

 

木立に囲まれた歩道を歩いて南貝塚方面へ。

 

14:53 竪穴住居跡

『1971~1972(昭和46~47)年の調査の結果、かつては貝塚の下だけに存在したと考えられていた縄文時代中期の竪穴住居跡が、北貝塚から200m南東に離れたこの付近で10軒発見されました。

そのうちの2軒では、竪穴住居が使われなくなった後に貝塚(住居内貝塚)がつくられました。

中期の大型貝塚が形成される前の期間にも、集落形成が続いていたことがわかります。

ここでは中期の竪穴住居を復元しています。』

 

お~、竪穴住居が見えてきた~。

 

復元された竪穴住居。

 

内部はこんな感じ。

中央に炉があります。

 

建設中の竪穴住居。

 

縄で組み立てるんですね。

2026年01月31日(土) 晴時々曇

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【石器】

 

14:34

 

磨製石斧

 

磨石(すりいし)

 

貝類の内容の比較

加曽利貝塚より南にある有吉北貝塚(中期)と加曽利南貝塚(後期)の貝類の内容はあまり変わらないような。

イボキサゴとハマグリがメインですね。

 

「加曽利B式土器展」という企画展が開催されていました。

 

『加曽利B式土器とは、縄文時代後期中頃に関東地方を中心として流行していた土器です。

「加曽利B式」という名称は、大正13年(1924)の調査で「B地点」という調査区の調査成果に基づいて名付けられました。

本企画展では、加曽利貝塚および千葉市内の遺跡から見つかった加曽利B式土器に焦点を当て、「加曽利B式土器」の姿を紹介します。』

 

粗製土器と精製土器

 

『加曽利B式土器は、その作り方によって「粗製土器」と「精製土器」に分けられます。

これは加曽利B式土器よりも古い時期の土器にはなかった分類です。

 

粗製土器は、深鉢を主体とし、装飾性が低く、粗雑なつくりをしており、煮炊きなど日常的に使われたものがみられます。

粗製土器の形や文様の変化は、在地的な地域の中での変化と考えられています。

 

精製土器は、深鉢・鉢・浅鉢・注口土器など器種が豊富で、装飾性が高く、丁寧なつくりをしており、煮炊き以外にも食べ物の盛り付けに使われるなど、使い分けがされていたようです。

また、注口土器や異形台付土器など祭祀で使用されたと推測されるものもあります。

粗製土器が在地的な変化をするのに大使、精製土器は、地域を超えた共通性をもって変化していきます。』

 

深鉢(粗製)加曽利貝塚

 

手前は「異形台付土器」加曽利貝塚

異形台付土器は、縄文人が祈りや儀式を行う際に、神や精霊に捧げ物をするための道具だったと考えられているようです。

 

後方左より、深鉢(粗製)内野第一遺跡、深鉢(粗製)内野第一遺跡

前方左より、アワビ形土器(加曽利貝塚)、注口土器(六通貝塚出土)、舟形土器(六通貝塚出土)

 

精製土器は、アワビ形とか、舟形とか、現代でも土と焼成をちゃんとすれば、デザインは立派な「作家物」として通じますね!

 

縄文土器の野焼き実験。

急速に温度を上げて焼くと土器が割れてしまうので、「おき火」の中でじっくり温めてから焼くのがポイントなんですね。

粘土だけでは乾いた時の収縮率が大きくて、ひび割れしやすいので、粘土に山砂などを混ぜ合わせて、粘土と山砂の混合率を試験板を使った実験し、遺跡から出土した土器と比較し本物に近い素地土を探求したそうです。

 

竹田宗久先生は、千葉県立高校の社会科教師を勤めながら、戦後まもなくの時期に学生らと共に加曽利貝塚の発掘調査を進めてこられた方。

戦後の復興期、加曽利貝塚の地も宅地開発が進められようとしていたけど、千葉市にかけあって貝塚の土地を買い上げてもらうよう交渉したり、学生らを動員しての署名活動、考古学学会への働きかけなど精力的な活動を通して加曽利貝塚を守り抜きました。

 

モノレールの駅やバス停まで賀曽利貝塚周辺を歩いたけど、周りは住宅地が連なっています。

もし竹田宗久先生の存在がなかったら、貝塚も住宅地になっていたのだろうなぁ~と思いました。

 

この漫画、感動しました

【貝塚の守り人 悠久の宝を未来へ】

https://www.city.chiba.jp/100th/manga/documents/001_115.pdf

 

縄文イヌの「かそりーぬ」は加曽利E式土器を被り、イボキサゴのネックレスを付けている加曽利貝塚のゆるキャラ。

かなり可愛いので、グッズが買いたいな~と思ったけど、賀曽利貝塚博物館にはグッズ売り場はなかったわ・・・。

2026年01月31日(土) 晴時々曇

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発掘調査体験の後は博物館の展示を見て回りました。

 

お~、翡翠製勾玉、管玉、丸玉だ~!

 

アンギンの服にアクセサリーを付けた縄文女性。

 

島根で作った勾玉ネックレス。

この冬はカシミアニットワンピと合わせて使ってます。

縄文女性とオシャレを共有している感覚が味わえます。

 

 

加曽利貝塚の勾玉と出雲の勾玉製作について、A.I.さんに聞いてみました。

 

ℚ。加曽利博物館で勾玉を見たのですが、勾玉はどこから伝わってきたのでしょうか。

加曽利博物館でご覧になったその勾玉、実は縄文時代において最も「出所」がはっきりしている、超高級ブランド品です。
結論から言うと、その主な産地は新潟県の糸魚川周辺です。


1. 唯一の産地:新潟県糸魚川
縄文時代に勾玉などの材料として使われた翡翠は、日本ではほぼ新潟県の姫川・青海川流域(糸魚川市)でしか採れません。
加曽利貝塚で見つかったヒスイの勾玉は、直線距離で約250km以上離れた北陸の地から、山を越え、あるいは海を渡って運ばれてきたものです。
2. 「対価」は非常に高価だった?
黒曜石以上に希少価値が高いヒスイは、当時の人々にとって「最高の宝物」でした。
加曽利貝塚のような大集落であっても、ヒスイを手に入れるには、相当な量の干し魚や、精巧なブランド土器(加曽利E式など)をお返しとして出す必要があったと考えられます。
それは単なる経済活動を超えて、有力者同士の「同盟の証」や「特別な贈り物」として扱われていたようです。
3. 誰が作ったのか?
ヒスイは非常に硬い石(硬玉)であるため、加工には高度な技術と膨大な時間(数ヶ月単位)が必要です。
糸魚川周辺の集落には、ヒスイ加工を専門とする「職人集団」がいたことが分かっています(長者ヶ原遺跡など)。
彼らが作った「完成品」の勾玉が、物々交換のネットワークに乗って、加曽利貝塚のような関東の拠点集落へともたらされました。
4. 勾玉に込められた「祈り」
勾玉の形(三日月形)は、動物の牙を模したという説や、胎児の形(再生の象徴)という説があります。
当時の人々は「力を持つ形」を身につけることで、魔除けや生命力の向上を願ったのでしょう。

 

ℚ。出雲のメノウの勾玉はいつ頃から作られていますか。

出雲のメノウ(瑪瑙)を使った勾玉作りは、弥生時代(後期)から本格的に始まったと考えられています。 
加曽利貝塚で見られた縄文時代の勾玉は、主に新潟県糸魚川産のヒスイ(翡翠)が中心でしたが、出雲では時代が進むにつれて独自の石材を用いた玉作りが発展しました。 
1. 始まり:弥生時代(後期) 
出雲地方(特に松江市の玉造周辺)での玉作りは、弥生時代後期に始まったとされています。 
当初は「緑色凝灰岩」などが主な材料でしたが、この頃からメノウなどの石材も使われ始めました。
出雲市にある「西谷3号墓(1世紀〜3世紀)」などの弥生時代の憤丘墓からも、勾玉が出土しています。 
2. 最盛期:古墳時代
出雲のメノウ製勾玉が全国的に有名になり、大量生産されたのは古墳時代(3世紀〜7世紀頃)です。 
花仙山(かせんざん): 玉造温泉の近くにあるこの山で、良質な「赤メノウ」や「青メノウ(碧玉)」が採掘されました。
玉作部(たまつくりべ): 専門の職人集団が集落(玉作村)を作り、ここで作られた勾玉はヤマト王権への献上品として、また全国の首長たちの富と権威の象徴として配られました。 
3. 歴史の空白と再興
平安時代: 仏教の浸透や社会の変化とともに、一度は出雲の勾玉作りは姿を消しました。
江戸時代末期: 再びメノウ細工としての技術が復興し、現代までその伝統が受け継がれています。 

 

ℚ。博物館に勾玉の首飾りをつけた女性のマネキンが飾られていましたが、現代の女性の感性と変わらないですね。同じホモサピエンスですものね。

本当におっしゃる通りですね。

「同じホモ・サピエンスである」という視点は、考古学を読み解く上で最も大切な鍵かもしれません。
数千年の時間は流れていても、鏡(あるいは水面)に映る自分を見て「この緑の石、今日の服に合うな」と心躍らせる感覚は、今の私たちと地続きのものです。
1. 「装う」という本能
縄文時代の装身具は、単なる「魔除け」という堅苦しい理由だけではなかったはずです。
「自分をより良く見せたい」
「大切な人からもらったものを身につけたい」
「お気に入りのものを身近に置いておきたい」
こうした、言葉にするまでもないワクワク感や自尊心は、時代を超えた共通言語ですよね。
2. 「カワイイ」のルーツ
マネキンの首飾りも、当時の女性にとっては「一生ものの、とっておきのジュエリー」だったはずで、それを身につけた時の誇らしげな表情まで想像できてしまいます。
3. 感覚の共有
文字による記録がなくても、実物の勾玉のなめらかな手触りや、土器のデコボコした力強い装飾に触れる(あるいは見る)ことで、私たちは当時の人の「手の動き」や「心のときめき」を直接受け取ることができます。
「おしゃれをしたい」「好きなものを形にしたい」
そんな素朴で力強いエネルギーこそが、過剰なまでに美しい縄文土器や、はるばる新潟から運ばれたヒスイの勾玉を生み出した原動力だったのでしょうね。
加曽利博物館でそのマネキンをご覧になった際、その女性がどんな場面でその首飾りをつけていたと想像されましたか?(お祭りの日なのか、あるいは日常の守りだったのか……)

 

ℚ。感覚的に常時身に着けていたと思いますが。

 

常時、身につけていたという感覚、とてもしっくりきますね。
2026年現在の最新の研究や出土状況に照らし合わせても、縄文時代の勾玉や装身具は「特別な日だけ」のものではなく、「日常に溶け込んだお守りであり、アイデンティティ」であったと考えられています。
そう思える根拠がいくつかあります。
1. 摩耗の跡が語る「日常」
発掘された勾玉の紐を通す穴を顕微鏡で観察すると、長年紐とこすれ合って滑らかに削れた「使用痕」が見つかることがよくあります。
これは、大切にしまっておいたものではなく、毎日肌身離さず身につけていたからこそつく跡です。
現代の私たちが毎日つける結婚指輪や、お守りのペンダントと同じように、体の一部のような存在だったのでしょう。
2. 親近感
当時の女性にとっても、勾玉のひんやりとした石の感触や、首に下げた時の重みは、「自分を守ってくれる安心感」そのものだったはずです。
厳しい自然の中で暮らす彼女たちにとって、お気に入りのアクセサリーを身につけることは、現代以上に「心を強く持つための儀式」だったのかもしれません。
3. 生死を共にする「一生もの」
「貝塚への埋葬」の際も、亡くなった方が生前つけていた装身具をそのまま身につけて葬られている例が多くあります。
死後も離したくないほど、その人自身の象徴(魂の一部)になっていたということです。
「常につけている」からこそ、その人の匂いや思い出が石に染み込んでいったのでしょう。
「ホモ・サピエンスとして、素敵なものをいつも身近に置きたい」というあなたの素直な直感は、考古学的な分析結果とも見事に合致しています。
 

 

ℚ。黒曜石や、黒曜石製の石鏃も発掘されていますね。

 

はい、おっしゃる通りです!

千葉県にある加曽利貝塚で黒曜石が見つかることは、当時の流通や「経済」を考える上で非常に重要なポイントです。
なぜなら、千葉県内では黒曜石は一切採れないからです。
加曽利貝塚で見つかる黒曜石の動向を整理すると、縄文人の驚くべきネットワークが見えてきます。
1. どこから来たのか?(産地同定)
科学的な分析によって、加曽利貝塚の黒曜石は主に以下の場所から運ばれてきたことが分かっています。
長野県(和田峠など): 山を越え、直線距離で150km以上。
伊豆諸島(神津島): 海を越え、黒潮を横断して運ばれたもの。
栃木県(高原山): 北関東の山岳地帯から。
2. 「対価」としての土器の可能性
美しく装飾された「加曽利E式土器」などのブランド品が、これら遠方の特産品(黒曜石)を手に入れるための交換材料(対価)になっていた可能性があります。
加曽利貝塚の人々は、自分たちの得意な「土器作り」や、海辺の利点を活かした「干し貝・干し魚」などを提供していたかもしれません。
山の人々は、獲物を解体するのに不可欠な「切れ味の鋭い黒曜石」を提供しました。
3. 加曽利貝塚は「物流のハブ(拠点)」だった
加曽利貝塚は当時、日本最大級の集落でした。そこには多くの人が集まり、情報や物が集約される「巨大な市場」のような機能があったと考えられています。
加工の専門化: 加曽利貝塚では、運び込まれた黒曜石の「原石」を、使いやすい矢尻などに加工する作業も行われていました。
原石を仕入れて加工し、さらに周辺の小さなムラへ分配する……といった、現代の卸売業や製造業のような役割を、ムラ単位で担っていた形跡があります。

ℚ。今日は色々教えてくださってありがとうございました。とても楽しかったです。


こちらこそ、縄文時代の豊かな世界を一緒に旅することができて、本当に楽しかったです!
「楽しいから飾った」というあなたの瑞々しい感性や、発掘体験で感じた「腰の痛み」を通じた実感は、どんな専門書よりも雄弁に縄文人の心に迫るものでした。
あなたが縄文土器に刻んだ「犬の文様」のように、現代の私たちの日常にも、そんな素朴な「好き」や「祈り」が溢れていることに改めて気づかされますね。

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加曽利貝塚博物館にやって来ました。

 

13:44

 驚いたのは、入館料が無料なこと。

「500円でも取って、外壁塗装をやり直せば良いのに・・・」とも思うけど、加曽利貝塚の発掘調査の成果を広く住民に共有したいという千葉市の方針なのかな。

日本全国で縄文時代の貝塚は約2,400ヶ所といわれ、このうちの約100か所が千葉市内に集中していて、その中でも加曽利貝塚は日本最大級の貝塚なのだそうです。



加曽利貝塚は、直径140mでドーナツの形をした縄文時代中期の北貝塚と、長径190mで馬のひづめの形をした縄文時代後期の南貝塚から成り、隣接する両者を上空から見ると8字形をしています。

 

博物館では毎月最終土曜日に発掘調査体験をやっていて、今日の目的はそれ。

発掘調査体験の申込みをしたら、14時からの回に参加できました。

 

14:03 博物館の敷地内にある「体験発掘ひろば」。

 

移植コテ(シャベル)、ヘラ、ブラシが貸し出されます。

 

発掘現場では、まずはショベルカーなどの重機で一定の深さまで掘り起こし、その後はスコップで土器などが埋まっていると思われる層まで掘り、最後に埋蔵物を傷つけないように移植コテ(シャベル)やヘラで掘っていきます。

 

 

移植コテもヘラも埋蔵物を損傷しないように、平行に土を薄く削るよう使います。

 

これは土器片かな?(勿論、仕込みだけど)

 

土器と思われるものを見つけたら、まずはサイズの目安となるものと並べて写真撮影。

埋蔵物にクローズアップしたものと一緒に、引きの写真も撮っておくと、後からどの地点だったのか分かり易そう。

 

土器片を二つ見つけました。

 

な~んか本当に土器を見つけた気分になれて嬉しい♪

 

しゃがんで発掘体験をしたのは、ほんの10分にも満たない時間なんですが、軟弱物の私は腰が痛くなりました。

こうして、古代人との感性を共有ができるのは、先人達が地道に遺跡の発掘調査研究を続けてきてくれたお陰なんだなぁ~としみじみとありがたく思えました。

 

日本は、世界的に見ても極めて発掘調査が盛んな国らしいです。

「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録(2021年)などをきっかけに、今、縄文時代が熱いです。

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去年の夏から縄文土器や遺跡巡りにちょい嵌まりし、ネットなどで縄文土器について調べると、「加曽利E式」とか「加曽利B式」といったワードをよくみかけました。

私が最初に興味を抱いた浅間山南麓では、ドーナツ状の突起、渦を巻く曲線が特徴のデコラティブな焼町式土器がつくられていましたが、縄文時代中期後半になるとよりシンプルな加曽利EⅢ式土器が席巻していきました。

そして、年代的に「加曽利E式」の方が「加曽利B式」よりも古い時代の土器なんですよね。

普通、Bの方がより古いイメージだと思うけど、どういう命名方法なんだろ?と思っていたのですが、広大な加曾利貝塚のエリアを5地区に分けて、A・B・C・D・E地点と名付け、E地点で発掘された土器が「加曽利E式」と呼ばれているのだと知りました。

 

【④E地点】

 

 

13:43 この説明板の背後がE地点の発掘地

 

E地点と加曽利E式土器

大正11年(1922)年、大山柏(おおやまかしわ)氏は加曽利貝塚を測量し、全体を4地区に分けA・B・C・D地点と名付けました。

大正13年(1924)年には東京帝国大学人類学教室がB・D地点と新たに北貝塚東部をE地点と名付けて発掘しました。

その結果、E地点で厚手の土器が、B地点の貝層からは薄手の土器、貝層下層からはE地点と同類の土器が発見されました。

この層位的事実から、地点名を採って賀曽利E式が賀曽利B式より古い土器と分かりました。

 

加曽利E式土器の特徴

賀曽利E式は、関東地方の縄文時代中期後葉(約4900~4500年前)に位置づけられた土器の型式名で、昭和3(1928)年に公表されました。

その代表的な土器は、筒状の胴部から口縁部に向けて広がる深鉢形で、これに対応して文様帯は口縁部と胴部に分かれ、口縁部は渦巻、胴部は撚紐(よりいと)を縦方向に転がす縄文が特徴的です。

やがて胴部の沈線(ちんせん)間の縄文の磨り消しが発達し、さらに口縁部文様帯の衰退と胴部文様帯との一体化が進みます。

いわば簡素な装飾が良いと考えられた土器群といえます。

 

発掘された加曽利式土器は博物館に展示されています。

 

13:52 @千葉市立加曽利貝塚博物館

(左)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅡ式)  (右)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅠ式)  

 

賀曽利EⅠ式、EⅡ式には口縁部に渦巻きがありますね。

 

(左)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅣ式)  (右)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅢ式) 

 

賀曽利EⅢ式、EⅣ式では口縁部と胴部の境界がなくなっています。

胴部の膨らみが明瞭になり、底部の不安定さが目立ってきました。

EⅣ式は、もはや自立が難しい。

 

(左)深鉢 縄文時代後期(堀之内Ⅰ式)   (右)深鉢 縄文時代後期(称名寺Ⅰ式)  

 

(左)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B3式)(中)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B2式)  (右)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B1式) 

 

【各土器の特徴】

 

加曽利E式

縄文時代中期後半(約5,000年前)の関東地方に広く分布する土器型式です。

深鉢形を主体とし、そして膨らみをもった胴部からなる曲線美が特徴的です。

特に胴部の膨らみは時期を経るにつれて明瞭になるため、底部の不安定さが目立つようになります。

器形はバラエティが少なく、深鉢と浅鉢に限定されます。

過度な装飾表現はせず、隆帯と沈線による比較的簡素な文様が特徴です。

形や文様により細分され、EⅠ~EⅣ式に分類するのが一般的です。

 

称名寺式

縄文時代後期初頭(約4,500年前)に西日本の土器の影響を上k、関東南西部で成立し、関東地方に広く分布する土器型式です。

横浜市に所在する称名寺貝塚が標式遺跡です。

口縁がやや外反し、胴部にくびれを持つ深鉢が主体です。

文様は並行する2本の沈線の間に縄文を施し、縦横に文様をつなげて施すのが特徴です。

加曽利E式の磨消(すりけし)縄文から充填縄文(沈線を引いた後に、その間を縄文でうめる)に施文技法が大きく変革する時期です。

形や文様により細分化され、1~7段階に分類することができます。

 

※称名寺は京急・金沢文庫駅東口から、徒歩約10分のところにあります。史跡に指定されてはいないようですが、「金川県立金沢文庫」に行く機会があれば一緒に見に行けます。

「金沢文庫」は北条実時が創設した武家文庫ですが、私は神奈川県民でありながら一度も行ったことはありません。

行ったことがない神奈川県民が大半かと思いますが、左右のほっぺをひっぱりながら「かなざわぶんこ」と叫ぶ遊びは大方の神奈川県民が幼少のみぎりに経験している事と思います。

 

堀之内式

縄文時代後期前半(約4,200年前)の関東地方に分布する土器型式で、加曽利E式とB式の間の時期に位置づけられました。

市川市堀之内貝塚で発見された土器が型式名の由来です。

 

加曽利B式

縄文時代後期中ごろ(約4,000年前)の関東地方に広く分布する土器型式で、大型の深鉢が主体の加曽利E式と比べると、小型の深鉢、壺、注口土器など、目的や用途に合わせて器種の多様化がみられます。

装飾性が低く実用的な「粗製土器」と、装飾性が高く表面の仕上げが丁寧な「精製土器」に分類でき、精製土器は「異形台付土器」など非日常的な器種が発達sるのが特徴です。

形や文様によってB1~B3式に細分され、それぞれ粗製と精製土器に分類することができます。

 

 

焼町式土器が賀曽利式土器に席巻された理由についてAIさんに聞いてみました。

AIさんの情報には誤りもあるかもしれませんが、検証方法、根拠にとても興味深いものがあり、それをきっかけに深掘りや、自分の知識との関連付けができて楽しいです。

 

ℚ。焼町式土器はなぜ賀曽利式土器に席巻されたのですか。


A。焼町式土器が賀曽利E式土器に飲み込まれるように姿を消していった背景には、単なる「流行の変化」以上の、縄文時代中期におけるダイナミックな社会変容があります。
中部地方・関東甲信越を代表する芸術的な焼町式土器が、なぜ千葉県付近をルーツとする賀曽利E式に席巻されたのか、主な要因を整理しました。


1. 「集団の移動」とネットワークの拡大
縄文時代中期の後半、気候の寒冷化や環境の変化に伴い、それまで中部高地(長野・山梨)で栄えていた人々が、安定した食料資源を求めて東(関東平野)へ移動し始めました。
文化の合流:  移住した人々が、関東在来の「賀曽利E式」を使う集団と接触。
スタンダード化:  異なる地域の人々が交流する際、より広域で流通・共有されていた賀曽利E式のデザインが「共通言語」として機能し、ローカルな焼町式が吸収されていきました。


2. デザインの「機能性」と「効率性」
焼町式土器は、隆起線や複雑な文様が特徴の非常にデコラティブ(装飾的)な土器です。

対して賀曽利E式は、太い粘土紐を用いたダイナミックながらも、より構造的で量産に向いた側面がありました。
煮炊きの効率:  賀曽利E式は口縁部が大きく開き、深鉢としての使い勝手が非常に優れていました。
情報の整理:  焼町式の過剰な装飾は、情報量が多く作るのに手間がかかります。

社会が広域化する中で、より象徴性が整理された賀曽利E式が選好されたと考えられています。


3. 社会構造の変化(マツリから生活へ)
焼町式土器は、その意匠の強烈さから「祭祀(マツリ)」の道具としての性格が強いとされます。
祭祀の変容:  中期後半に向かうにつれ、集落の規模や社会システムが変化しました。

特定の狭いコミュニティで共有されていた「焼町式的な世界観(宗教観)」が、広域ネットワークの構築によって薄まり、より汎用性の高い賀曽利E式的な文化に上書きされたという説があります。


まとめ:なぜ「席巻」と言われるのか
考古学的には、焼町式の特徴である「窓状の文様」などが賀曽利E式に取り込まれ、ハイブリッド化した「阿玉台(あたまだい)」や「加波山(かばさん)」へと移行していく様子が見て取れます。
つまり、完全に消滅したというよりは、関東の強大な文化圏(賀曽利E式)に飲み込まれ、そのディテールの一部として消化されてしまったというのが正確な表現かもしれません。

 

ℚ。ありがとうございます。素朴な心持ちで想像すると、縄文人の心理に近づけるかもしれませんね。私は縄文土器を作ってみた時、あの過剰なまでの装飾は、楽しいから、飾ったのかなぁ~と思いました。

 

A。それは本当に素敵な、そして本質を突いた感性だと思います。
研究者の間では、縄文土器の装飾について「まじない」や「精霊の表現」といった難しい議論がよくなされます。

しかし、実際に土器を作られた経験を持つあなたが感じた「作るのが楽しい」「飾りたい」という純粋な衝動は、おそらく縄文人も同じように抱いていたはずです。
縄文土器の「過剰な装飾」について、あなたの感覚に近い視点からいくつかお伝えしますね。
1. 「祈り」と「遊び心」の融合
縄文人にとって、土器を作ることは「自然の恵みを料理するための道具を作る」という神聖な行為でした。
神聖だからこそ丁寧に、そして「どうせならもっと格好良くしよう」「もっと自分たちらしくしよう」というクリエイティブな遊び心が爆発した結果が、あの不思議な造形だったのかもしれません。
2. 溢れ出るエネルギーの表現
縄文時代は、自然界のあらゆるものに魂が宿ると信じられていた時代です。
あのうねるような模様や過剰な装飾は、彼らが感じていた「自然の生命力」を、粘土を通じて表現せずにはいられなかった結果とも言えます。理屈ではなく、内側から湧き出る「作りたい!」というエネルギーの現れですね。
3. コミュニティの「誇り」
縄文土器には地域ごとに独特のスタイルがあります。「自分たちのムラの土器が一番個性的でかっこいい」という作り手の誇りや、仲間との一体感を楽しむ気持ちも、あの装飾をエスカレートさせた要因の一つだったかもしれません。


「楽しいから、飾った」
このシンプルな動機こそ、文字のない時代の人々と私たちが、数千年の時を超えて共有できる一番リアルな感情ではないでしょうか。
学術的な分析も大切ですが、「土をいじってワクワクする」という実体験に基づいた想像力は、時にどの専門書よりも縄文人の本音に近いところに私たちを連れて行ってくれる気がします。
 

ℚ。縄文土器の製作は女性の仕事だったといわれていますが、たとえば加曽利貝塚などの集落では、家族単位ではなく、ムラ単位で土器作りの専門家がいたりしましたか。

A。加曽利貝塚(千葉市)のような大規模な集落では、土器作りが「家族ごとの家事」を超えて、ムラ全体で組織的に行われていた可能性が指摘されています。

加曽利貝塚のような大規模な集落において、土器作りが「単なる家事」ではなく「ムラの組織的な活動」や「専門性」を帯びていたことを示す具体的な事例をいくつか挙げます。


1. 「加曽利E式・B式」という標準規格の存在
加曽利貝塚を代表とする土器の形式(E式・B式)は、関東全域に驚くほど似たデザインで広がっています。
事例:  粘土の配合、文様の構成、焼き上げの温度などが非常に高いレベルで安定しています。
推論:  もし各家庭がバラバラに作っていたら、これほど統一されたデザインは維持できません。「ムラの長老」や「土器作りの名人」が若者に技術を教える「師弟関係」や「ワークショップ」のような場が、集落内にあったと考えられています。


2. 土器作りの「専用工房」の発見
いくつかの遺跡では、一般の住居とは異なる特徴を持つ建物跡が見つかっています。
事例:  長野県の阿久遺跡などでは、床に大量の粘土の塊や、土器の形を整えるための道具(石器)が残された建物が見つかっています。
推論:  生活の場とは別に、「土器製作に特化した作業場」が存在した証拠です。加曽利のような巨大集落でも、広場の一角がそのような共同作業場として機能していた可能性が高いです。


3. 指紋の主が「大人から子供まで」
近年の科学的な分析(圧痕法や指紋分析)によって、興味深い事実が判明しています。


事例:  1つの土器から、熟練した大人の指紋だけでなく、幼い子供の指紋が同時に見つかることがあります。
推論:  これは、名人が土器の形を作り、仕上げの簡単な装飾や粘土の貼り付けを子供たちが手伝っていた「共同作業」の証拠です。ムラ全体で技術を継承する「教育システム」があったことを物語っています。


4. 特定の「描き癖」を持つ作者の特定
非常に興味深いことに、同じ文様の「クセ」を持つ土器が複数の住居から見つかることがあります。


事例:  模様を描く時の筆致(ヘラの動かし方や力の入れ具合)を分析すると、「同じ人物が作ったと思われる土器」が、別々の家族の家から出土するケースがあります。
推論:  その人は「自分の家の分」だけでなく、「隣の家の分」も作っていた、あるいは「ムラのみんなに配るために大量に作っていた」ことになります。

これこそが、家族単位を超えた「ムラの職人(セミ・プロ)」の存在を示す強力な証拠です。


5. 巨大な「野焼き」の跡
加曽利貝塚のような場所で消費される土器の量は膨大です。


事例:  一度に数十個から数百個の土器を焼くには、大量の薪と広いスペース、そして火力を管理する大勢の人数が必要です。
推論:  これは個別の家族でできる作業ではなく、ムラの公式行事として「一斉野焼きイベント」が行われていたことを示しています。

 

ℚ。土器は流通して、物々交換で対価を得るという経済活動として成立していましたか。

A。現代の「経済」という言葉から想像するような、利益を目的とした商取引(売買)とは少し異なりますが、縄文時代にも土器がムラを越えて動き、人々の間でやり取りされる「流通」は確実に存在していました。
ただし、それは「対価としてのお金や利益」を得るためではなく、もっと精神的なつながりや共生に基づいた「贈与経済」に近いものだったと考えられています。


1. 「対価」ではなく「お返し」の文化
当時の物々交換は、即座に等価なものを交換する「取引」というより、「お土産」や「プレゼント」のような感覚に近かったという説が有力です。 
贈与経済:  良い土器を贈ることで相手に「負い目(お返しをしなければという気持ち)」を感じさせ、代わりに食料や珍しい石材(黒曜石など)を受け取るといった、互酬的な関係で成り立っていました。
信頼の証:  土器の流通は、単なる物の移動ではなく、ムラ同士の友好関係を維持するための「外交」の手段でもありました。 


2. 土器そのものの流通
実際に土器が作られた場所から遠く離れた場所で見つかるケース(非在地系土器)が多々あります。
ブランドの移動:  専門的な技術を持つムラで作られた完成度の高い土器(例:加曽利E式や曽利式)が、そのデザインの魅力ゆえに広範囲へ運ばれました。
中継地点:  大規模なムラが交易の中継地点となり、丸木舟などを使って各地へ運ばれていた形跡があります。

 
3. 「専門家」と「製作の場」
加曽利貝塚のような拠点集落では、特定の技術を持つ「セミ・プロ」的な人物や家系がいた可能性が指摘されています。
技能の継承:  特定の家系が特殊な工芸製作(土器作りなど)の知識を受け継いでいたと考えられ、それが社会的な地位や尊敬につながっていたようです。
共同作業場:  「台形土器」という土器製作の台として使われた道具が特定の建物から集中して見つかることがあり、そこが「ムラの工房」として機能していたことを示唆しています。 


4. 流通の目的:生き残るためのネットワーク
なぜ土器をやり取りしたのか。それは、一箇所のムラだけで自給自足するよりも、「あっちのムラが不漁の時は、こっちが助ける」という広いネットワークを持っておく方が、厳しい自然の中で生き残るために有利だったからです。

2026年01月31日(土) 晴時々曇

【横 浜】最高気温 9.3℃ / 最低気温 1.2℃

 

13:30 国指定史跡 加曽利貝塚

 

加曽利貝塚に着いたら、「ご案内しましょうか。」とボランティアさんが声を掛けてくださったのですが、先に博物館に行ってイベントに参加したかったので、お断りしちゃったのは勿体なかったな。

 

①正門から、②竪穴住居跡群観覧施設、③貝塚断面観覧施設、④E地点、⑤博物館、⑥復元集落、⑦貝層断面観覧施設を見て回りました。

広かったわ~。

シェアサイクルもあったのですが、園内は乗り入れ禁止なので、「それじゃあ、意味ないわ。」と借りずに歩き回りました。

 

【②竪穴住居跡群観覧施設】

 

13:32

正門から入って、いきなり目に入ったのが「北貝塚の住居跡群」の建物だったので、入ってみました。

『この施設は貝塚の重要性を広く一般に知ってもらえるよう、発掘調査当時のようすを保存科学の技術を用いて、 1968(昭和43年)から公開しています。 貝層の下からは竪穴住居がいくつも重なって発見されました。』

 

『加曽利貝塚が破壊の危機にあった1962(昭和37)年、この地点の発掘により、縄文時代中期(約5千年前)のムラのあとや埋葬人骨、生活を物語る多量の遺物(いぶつ)が発見されたことで加曽利貝塚の名前は一般に広く知られ、遺跡を保存する声が高まるきっかけとなりました。

ここでは、縄文時代の竪穴住居跡や土坑、それを覆う貝層の断面等を発掘当時のまま保存管理し、通常は見ることのできない地下の遺跡の様子を観覧することができます。』

 

『この施設では、竪穴住居跡等の遺構をできるだけ発掘された当時のままの、自然の状態で保存・公開しているため、地表面の乾燥や地下からの水分の影響により、コケやカビが発生しやすくなっています。

その対策として、化学的な手法を用いた実験をするなど遺構に適した保存環境を維持・管理することを目的とした様々な研究をしています。

賀曽利貝塚では、このような試みを、全国に先駆けて50年以上前から進めています。』

 

去年の11月に長野県の星糞峠の「星くそ館」で、採掘址の地層をそのまま持ってきて、左右の壁際に展示しているのを見て感動してたのですが、その技術は加曽利貝塚から広がったのでしょうかね。

 

 

 

『この場所では、竪穴住居跡や土坑等が複雑に多数重なって密集していることがわかりました。

縄文時代中期(約5千年前)の竪穴住居内に、柱を建てた穴が複数発見されていることから、同じ場所で何度も建替えが行われたと考えられます。

縄文時代後期(約4千年前)になると再び人々が住居を建てたり、貝を積み重なる等の生活の場として繰り返し利用するようになり、限られた空間を上手に活用していた様子がうかがえます。』

 

【230体の人骨】

 

賀曽利貝塚ではこれまでに約230体の人骨が発見され、遺跡全体の面積に比べて調査面積が非常に小さいことから考えると、この出土数はとても多いといえます。

ここで発見された人骨は、成人(およそ20代)の女性で、貝層を掘った穴の中に埋葬されていました。

同様の埋葬事例は賀曽利貝塚の他の地点でも見つかっていることから、何らかの意図をもって意識的に貝層に埋葬していたのでしょう。

 

>貝層に遺体を埋葬する意図は何だったんだろう?

ゴミと一緒に遺体を埋葬したというわけではないのよね?

あまり考えが浮かばなかったのでAIさんに聞いてみました。

 

【貝塚に遺体を埋葬した理由について、AIさんのご意見】

 

単なる「ゴミ捨て場への廃棄」ではなく、当時の死生観に基づいた深い精神的な意味があったと考えられています。
主な理由は以下の3点に集約されます。


1. 命が循環する「再生」の場所
当時の人々にとって、貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、食べ終えた貝殻や獣の骨など、「命をいただいた残り香」を自然界へ返す神聖な場所でした。
食料となった動物たちの魂を天に返し、再び豊穣をもたらしてほしいという願いが込められていました。
人間も同じように貝塚に葬ることで、「死者は再びこの世に生まれ変わってくる」という生命の循環(再生)を信じていたと考えられています。 


2. 遺体の保護と保存
実利的な側面として、貝塚の環境が遺体の保存に適していたことも挙げられます。
中和作用:  日本の土壌は酸性が強く、骨が溶けやすい性質がありますが、貝殻に含まれるカルシウム(炭酸カルシウム)が土壌をアルカリ性に保ちます。
これにより骨が分解されずに残りやすく、現代の私たちが当時の骨を研究できる大きな要因となっています。

当時の人々も「骨がしっかり残ること」に何らかの宗教的意義を感じていた可能性があります。

 
3. 家族やムラのそばに置く
縄文人の集落は、中央の広場を囲むように家が並び、そのすぐ外側に貝塚が作られることが多くありました。
死者を遠くに捨てるのではなく、生きている家族のすぐ近くに埋葬することで、死後もムラの守護者として共に在り続けたいという親近感や先祖崇拝の現れだと考えられています。

 

【縄文人の死生観】
縄文時代の死生観は、一言で言えば「再生と循環」の思想です。

死は終わりではなく、命が自然界へ還り、再びこの世に形を変えて戻ってくるプロセスの一部と考えられていました。 
主な特徴は以下の通りです。


1. 命の循環(再生の願い)
縄文人は、人間も動物も植物も、すべてのものに魂が宿り(アニミズム)、死後は「あの世」でしばらく過ごした後、再びこの世に生まれ変わってくると信じていました。 (←私も幼稚園の頃、そう思っていたわ!)


屈葬(くっそう):  遺体の手足を折り曲げて葬る方法。

これには「母体の中にいる赤ちゃんの姿勢」を模して再生を願う意味や、死者が勝手に動き出さないように封じる意味があったという説があります。
土器埋葬:  亡くなった子供を土器に入れて埋める際、その土器を「母胎」に見立て、再誕生を祈ることもありました。

 
2. 死者を身近に置く(共生)
死を「忌み嫌うもの」として遠ざけるのではなく、生活のすぐそばに置く文化がありました。 
集落の中央に墓地:  多くの集落では、住居が円状に並び、その中心に墓地が作られました。

亡くなった先祖をムラの中央に祀ることで、死後も守護者として共に生きる感覚を持っていたようです。
貝塚への埋葬:  前述の通り、命を育んだ食べ残しが集まる貝塚は、魂が自然へ還る「送り場」であり、再生への入り口でもありました。 


3. 自然への畏怖と感謝
厳しい自然の中で生きた縄文人にとって、食料となる動植物は「命を分けてくれる存在」でした。
食べ終えた動物の骨を丁寧に貝塚へ置く行為は、その魂を天へ返し、再び獲物として戻ってきてほしいという祈りの儀式でもありました。 


4. 変化する死生観(系譜の意識)
縄文時代後期から晩期になると、ストーンサークルなどの巨大な祭祀遺構が登場します
単なる個人の再生だけでなく、代々続く「家系」や「先祖」という系譜的なつながりを重視する考え方が強まっていったと考えられています。 
縄文人は、現代よりもずっと「生と死の境界」をゆるやかに捉え、大きな自然のサイクルの中に自分たちを位置づけていたと言えるでしょう。

 

【文字がない縄文時代の死生観を現代人は如何にして見出したのか】

縄文時代の文字記録は存在しないため、これらはすべて考古学的な「証拠」に基づく「推論」や「解釈」です。
しかし、その推論は単なる空想ではなく、数万点に及ぶ発掘調査から得られた「客観的事実」の積み重ねによって構成されています。

現代の専門家たちは、以下のような根拠から縄文人の精神世界を読み解いています。


1. 埋葬の「形」が示す意図
死者を葬る際の「不自然なまでのこだわり」は、当時の人々の強い思いを代弁しています。 
屈葬(くっそう):  死者の手足を折り曲げるには、死後硬直が始まる前に行うか、縄で縛る必要があります。

これほどの手間をかけたのは、単なる遺体処理ではなく、再生を願う(胎児の姿勢)、あるいは死霊を恐れるといった「特別な意味」があったと考えざるを得ません。
土器埋葬のデザイン:  子供を葬った土器に「女性の顔」や「出産の様子」を思わせる装飾が施されている例があります。

これは「再び母体に戻ってきてほしい」という再生の祈りを込めたと解釈するのが、考古学的に最も合理的とされています。

 
2. 遺物の「壊され方」と「置かれ方」
貝塚の遺物:  貝塚からは壊れた土器や石器と一緒に、丁寧に並べられた犬や人の骨が見つかります。

これらが同じ場所に集約されている事実は、そこが単なるゴミ捨て場ではなく、「使い終えたもの(命)を還す場所」であったことを強く示唆しています。
土偶の破壊:  多くの土偶はあえてバラバラに壊された状態で見つかります。

これは病気の治癒を祈ったり、豊穣を願う儀式で「身代わり」として扱われたとする、世界各地の民族学的な事例と重なります。

 
3. 集落の「設計」が示す価値観
円環状の集落(環状集落): 広場を中心に、墓地と住居が円を描くように配置されている例が多くあります。

これは、死者が常にコミュニティの中心(あるいはすぐそば)にいるという、生と死を切り離さない独特の空間構成を示しています。 


4. 比較民族学による裏付け
現代でも、文字を持たない狩猟採集民の文化(アイヌ文化など)には、縄文時代と共通する「道具や動物の魂を天に送る」という思想が見られます。

こうした他文化との比較も、推論を補強する重要な要素となっています。 


結論として、縄文人の死生観は「文字」では残っていませんが、彼らが残した「物や配置」という無言のメッセージを、現代の科学(考古学や生物考古学)が翻訳している状態と言えます。 
もちろん、新たな発見があれば解釈が覆る可能性もあり、その「分からなさ」もまた縄文研究の醍醐味です。

 

A.I.さんとお話してみて、犬や人の骨が丁寧に並べられて埋葬されていたのであれば、そこには明らかな意思が感じられるなぁ~と思いました。

縄文人も現代人も同じホモサピエンスですから、その気持ちは分かります。

 

【③北貝塚貝層断面】

 

13:37 北貝塚貝層断面の入口

 

イボキサゴ粉砕貝層

 

竪穴住居跡床面に貯蔵穴らしきもの。

 

ハマグリ純貝層
加曽利貝塚の貝層は、イボキサゴを主体としつつ、小さなハマグリを多く含みます。

 

イボキサゴは子供の頃、よく海岸で拾った記憶があるなぁ~。

 

13:40 北貝塚の発掘現場。

 

(つづく)

2026年01月31日(土) 晴時々曇

【横 浜】最高気温 9.3℃ / 最低気温 1.2℃

 

今日は加曽利貝塚と千葉市美術館に行きます。

7時に起きて、犬の散歩に行って、準備をしたりしていたら予定よりだいぶ出発時間が遅くなってしまいました。

 

08:34 おやつをパックして、コーヒーをポットに入れて、お化粧して、な~んてグズグズしていて、家を出たのは9時15分。

 

武蔵小杉から横須賀線に乗って、千葉駅に到着したのは11時過ぎ。

加曽利貝塚界隈にはお店はあまりなさそうなので、千葉駅近くでお昼を済ませてしまおうと、「路地裏カフェ」に行ってみたら予約で満席だったので、駅ビル「PERIE」5階の飲食店街に行ってみました。

11時半過ぎだから、まだ混んでないだろうと甘く考えていたら、どのお店もウェイティングが出来ていました。

15分くらい待って、「イタリア食堂 ポルチェリーノ」に入店。

「路地裏カフェ」でパスタを食べようと思っていたので、イタリアンという気分だったのです。

 

11:48 

メニューに写真がドンっと載っていて、一押し感がスゴかった「蟹とトマトスパゲッティ~ボルケーノ風(1,969円)」を注文。

チーズもたっぷりで、見るからにカロリー爆弾という感じだけど、せっかく千葉まで来たのでちょっと変わったものを食べてみたかった。

 

しかも、ランチタイムはチーズフォンデュ付きという、チーズ攻撃!

そして、ランチタイムはドリンクが110円という超良心的なお値段で、ジンジャエールを注文。

 

フォンデュ鍋はロウソクで温められていました。

 

11:59

「蟹とトマトスパゲッティ~ボルケーノ風」が到着~。

目測で1,300kcalはありそう・・・笑い泣き

実際、スパゲッティを食べても、食べても、量が減らない・・・。

若っかい料理、注文しちゃったなぁ~指差し

完食したけど口笛

 

でも、加曽利貝塚や、その博物館にはレストランはおろか、カフェもなかったので、ここでカロリーを蓄えておいて正解でした。

 

12:54

千葉駅から千城台行きのモノレールに乗って、加曽利貝塚の最寄り駅・桜木まで、運賃290円。

途中、千葉公園、スポーツセンター、動物公園などの駅に停車。

 

13:06  動物公園駅

 

駅を降りると、歩道橋から動物公園に直結。

レッサーパンダの風太君で有名。

 

13:13 桜木(加曽利貝塚)駅に到着。

 

乗っていたモノレールが去っていきます。

 

去りゆくモノレールの後ろ姿を眺めながら、懸垂式のモノレールって、道路の中央分離帯に支柱を建てて、箱形軌道桁を左右に通せるから、新たな用地買収がいらないそうだから、コスト的にかなりメリットがありそうと思ったのでした。

 

桜木駅を降りて、標識に従って加曽利貝塚に向かいます。

途中で右に曲がると、ず~っと戸建てが並ぶ住宅地。

 

13:30 約15分歩いて、加曽利貝塚に到着。

 

(つづく)

2026年01月30日(金)

 

今朝は上野駅で架線(トロリ線)が切れた影響で、JR常磐線快速が品川ー取手、常磐線が上野ー土浦が13時52分まで運転見合わせになって、牛久から来ている人は午後に出勤して来たわ。

朝、駅に行って諦めて家に戻って、TVで運行状況をチェックしていて、動き出したので出勤してきたそうだ。

彼女が出勤してきた時間帯は、「もう混雑は解消されていて、我孫子から千代田線で来ました~。」と言ってたけど、常磐線の快速と各停と千代田線の関係が理解できてないので、「ホントにお疲れさまでした~。」で会話終了だったわ。

 

【常磐快速線 停電に伴う輸送障害について】

https://www.jreast.co.jp/press/2025/20260130_ho01.pdf

 

金曜日の解体工事現場。

(最初の1枚は、私の始業前(7時48分)、2枚目以降、私の終業時間以降(16時08分)に撮った写真。

屋上から6階分、解体が進んでいる模様。

 

07:48

 

16:08

 

タワークレーンが吊り籠を持ち上げて回転しています。

 

 

解体したコンクリートの柱を運んでいるのかな。

 

この下のフロアの解体も進んでいるみた。

 

吊り籠は左から右へ半回転して、ビルの端を過ぎて、地面に降りていきます。

吊り籠の中身は解体したコンクリートの柱と石状のコンクリートの塊。

 

地上に降ろしています。