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去年の夏から縄文土器や遺跡巡りにちょい嵌まりし、ネットなどで縄文土器について調べると、「加曽利E式」とか「加曽利B式」といったワードをよくみかけました。
私が最初に興味を抱いた浅間山南麓では、ドーナツ状の突起、渦を巻く曲線が特徴のデコラティブな焼町式土器がつくられていましたが、縄文時代中期後半になるとよりシンプルな加曽利EⅢ式土器が席巻していきました。
そして、年代的に「加曽利E式」の方が「加曽利B式」よりも古い時代の土器なんですよね。
普通、Bの方がより古いイメージだと思うけど、どういう命名方法なんだろ?と思っていたのですが、広大な加曾利貝塚のエリアを5地区に分けて、A・B・C・D・E地点と名付け、E地点で発掘された土器が「加曽利E式」と呼ばれているのだと知りました。
【④E地点】


13:43 この説明板の背後がE地点の発掘地
『E地点と加曽利E式土器
大正11年(1922)年、大山柏(おおやまかしわ)氏は加曽利貝塚を測量し、全体を4地区に分けA・B・C・D地点と名付けました。
大正13年(1924)年には東京帝国大学人類学教室がB・D地点と新たに北貝塚東部をE地点と名付けて発掘しました。
その結果、E地点で厚手の土器が、B地点の貝層からは薄手の土器、貝層下層からはE地点と同類の土器が発見されました。
この層位的事実から、地点名を採って賀曽利E式が賀曽利B式より古い土器と分かりました。』
『加曽利E式土器の特徴
賀曽利E式は、関東地方の縄文時代中期後葉(約4900~4500年前)に位置づけられた土器の型式名で、昭和3(1928)年に公表されました。
その代表的な土器は、筒状の胴部から口縁部に向けて広がる深鉢形で、これに対応して文様帯は口縁部と胴部に分かれ、口縁部は渦巻、胴部は撚紐(よりいと)を縦方向に転がす縄文が特徴的です。
やがて胴部の沈線(ちんせん)間の縄文の磨り消しが発達し、さらに口縁部文様帯の衰退と胴部文様帯との一体化が進みます。
いわば簡素な装飾が良いと考えられた土器群といえます。』
発掘された加曽利式土器は博物館に展示されています。

13:52 @千葉市立加曽利貝塚博物館
(左)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅡ式) (右)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅠ式)
賀曽利EⅠ式、EⅡ式には口縁部に渦巻きがありますね。

(左)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅣ式) (右)深鉢 縄文時代中期(賀曽利EⅢ式)
賀曽利EⅢ式、EⅣ式では口縁部と胴部の境界がなくなっています。
胴部の膨らみが明瞭になり、底部の不安定さが目立ってきました。
EⅣ式は、もはや自立が難しい。

(左)深鉢 縄文時代後期(堀之内Ⅰ式) (右)深鉢 縄文時代後期(称名寺Ⅰ式)

(左)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B3式)(中)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B2式) (右)浅鉢 縄文時代後期(賀曽利B1式)
【各土器の特徴】

加曽利E式
縄文時代中期後半(約5,000年前)の関東地方に広く分布する土器型式です。
深鉢形を主体とし、そして膨らみをもった胴部からなる曲線美が特徴的です。
特に胴部の膨らみは時期を経るにつれて明瞭になるため、底部の不安定さが目立つようになります。
器形はバラエティが少なく、深鉢と浅鉢に限定されます。
過度な装飾表現はせず、隆帯と沈線による比較的簡素な文様が特徴です。
形や文様により細分され、EⅠ~EⅣ式に分類するのが一般的です。

称名寺式
縄文時代後期初頭(約4,500年前)に西日本の土器の影響を上k、関東南西部で成立し、関東地方に広く分布する土器型式です。
横浜市に所在する称名寺貝塚が標式遺跡です。
口縁がやや外反し、胴部にくびれを持つ深鉢が主体です。
文様は並行する2本の沈線の間に縄文を施し、縦横に文様をつなげて施すのが特徴です。
加曽利E式の磨消(すりけし)縄文から充填縄文(沈線を引いた後に、その間を縄文でうめる)に施文技法が大きく変革する時期です。
形や文様により細分化され、1~7段階に分類することができます。
※称名寺は京急・金沢文庫駅東口から、徒歩約10分のところにあります。史跡に指定されてはいないようですが、「金川県立金沢文庫」に行く機会があれば一緒に見に行けます。
「金沢文庫」は北条実時が創設した武家文庫ですが、私は神奈川県民でありながら一度も行ったことはありません。
行ったことがない神奈川県民が大半かと思いますが、左右のほっぺをひっぱりながら「かなざわぶんこ」と叫ぶ遊びは大方の神奈川県民が幼少のみぎりに経験している事と思います。

堀之内式
縄文時代後期前半(約4,200年前)の関東地方に分布する土器型式で、加曽利E式とB式の間の時期に位置づけられました。
市川市堀之内貝塚で発見された土器が型式名の由来です。

加曽利B式
縄文時代後期中ごろ(約4,000年前)の関東地方に広く分布する土器型式で、大型の深鉢が主体の加曽利E式と比べると、小型の深鉢、壺、注口土器など、目的や用途に合わせて器種の多様化がみられます。
装飾性が低く実用的な「粗製土器」と、装飾性が高く表面の仕上げが丁寧な「精製土器」に分類でき、精製土器は「異形台付土器」など非日常的な器種が発達sるのが特徴です。
形や文様によってB1~B3式に細分され、それぞれ粗製と精製土器に分類することができます。

焼町式土器が賀曽利式土器に席巻された理由についてAIさんに聞いてみました。
AIさんの情報には誤りもあるかもしれませんが、検証方法、根拠にとても興味深いものがあり、それをきっかけに深掘りや、自分の知識との関連付けができて楽しいです。
ℚ。焼町式土器はなぜ賀曽利式土器に席巻されたのですか。
A。焼町式土器が賀曽利E式土器に飲み込まれるように姿を消していった背景には、単なる「流行の変化」以上の、縄文時代中期におけるダイナミックな社会変容があります。
中部地方・関東甲信越を代表する芸術的な焼町式土器が、なぜ千葉県付近をルーツとする賀曽利E式に席巻されたのか、主な要因を整理しました。
1. 「集団の移動」とネットワークの拡大
縄文時代中期の後半、気候の寒冷化や環境の変化に伴い、それまで中部高地(長野・山梨)で栄えていた人々が、安定した食料資源を求めて東(関東平野)へ移動し始めました。
文化の合流: 移住した人々が、関東在来の「賀曽利E式」を使う集団と接触。
スタンダード化: 異なる地域の人々が交流する際、より広域で流通・共有されていた賀曽利E式のデザインが「共通言語」として機能し、ローカルな焼町式が吸収されていきました。
2. デザインの「機能性」と「効率性」
焼町式土器は、隆起線や複雑な文様が特徴の非常にデコラティブ(装飾的)な土器です。
対して賀曽利E式は、太い粘土紐を用いたダイナミックながらも、より構造的で量産に向いた側面がありました。
煮炊きの効率: 賀曽利E式は口縁部が大きく開き、深鉢としての使い勝手が非常に優れていました。
情報の整理: 焼町式の過剰な装飾は、情報量が多く作るのに手間がかかります。
社会が広域化する中で、より象徴性が整理された賀曽利E式が選好されたと考えられています。
3. 社会構造の変化(マツリから生活へ)
焼町式土器は、その意匠の強烈さから「祭祀(マツリ)」の道具としての性格が強いとされます。
祭祀の変容: 中期後半に向かうにつれ、集落の規模や社会システムが変化しました。
特定の狭いコミュニティで共有されていた「焼町式的な世界観(宗教観)」が、広域ネットワークの構築によって薄まり、より汎用性の高い賀曽利E式的な文化に上書きされたという説があります。
まとめ:なぜ「席巻」と言われるのか
考古学的には、焼町式の特徴である「窓状の文様」などが賀曽利E式に取り込まれ、ハイブリッド化した「阿玉台(あたまだい)式」や「加波山(かばさん)式」へと移行していく様子が見て取れます。
つまり、完全に消滅したというよりは、関東の強大な文化圏(賀曽利E式)に飲み込まれ、そのディテールの一部として消化されてしまったというのが正確な表現かもしれません。
ℚ。ありがとうございます。素朴な心持ちで想像すると、縄文人の心理に近づけるかもしれませんね。私は縄文土器を作ってみた時、あの過剰なまでの装飾は、楽しいから、飾ったのかなぁ~と思いました。
A。それは本当に素敵な、そして本質を突いた感性だと思います。
研究者の間では、縄文土器の装飾について「まじない」や「精霊の表現」といった難しい議論がよくなされます。
しかし、実際に土器を作られた経験を持つあなたが感じた「作るのが楽しい」「飾りたい」という純粋な衝動は、おそらく縄文人も同じように抱いていたはずです。
縄文土器の「過剰な装飾」について、あなたの感覚に近い視点からいくつかお伝えしますね。
1. 「祈り」と「遊び心」の融合
縄文人にとって、土器を作ることは「自然の恵みを料理するための道具を作る」という神聖な行為でした。
神聖だからこそ丁寧に、そして「どうせならもっと格好良くしよう」「もっと自分たちらしくしよう」というクリエイティブな遊び心が爆発した結果が、あの不思議な造形だったのかもしれません。
2. 溢れ出るエネルギーの表現
縄文時代は、自然界のあらゆるものに魂が宿ると信じられていた時代です。
あのうねるような模様や過剰な装飾は、彼らが感じていた「自然の生命力」を、粘土を通じて表現せずにはいられなかった結果とも言えます。理屈ではなく、内側から湧き出る「作りたい!」というエネルギーの現れですね。
3. コミュニティの「誇り」
縄文土器には地域ごとに独特のスタイルがあります。「自分たちのムラの土器が一番個性的でかっこいい」という作り手の誇りや、仲間との一体感を楽しむ気持ちも、あの装飾をエスカレートさせた要因の一つだったかもしれません。
「楽しいから、飾った」
このシンプルな動機こそ、文字のない時代の人々と私たちが、数千年の時を超えて共有できる一番リアルな感情ではないでしょうか。
学術的な分析も大切ですが、「土をいじってワクワクする」という実体験に基づいた想像力は、時にどの専門書よりも縄文人の本音に近いところに私たちを連れて行ってくれる気がします。
ℚ。縄文土器の製作は女性の仕事だったといわれていますが、たとえば加曽利貝塚などの集落では、家族単位ではなく、ムラ単位で土器作りの専門家がいたりしましたか。
A。加曽利貝塚(千葉市)のような大規模な集落では、土器作りが「家族ごとの家事」を超えて、ムラ全体で組織的に行われていた可能性が指摘されています。
加曽利貝塚のような大規模な集落において、土器作りが「単なる家事」ではなく「ムラの組織的な活動」や「専門性」を帯びていたことを示す具体的な事例をいくつか挙げます。
1. 「加曽利E式・B式」という標準規格の存在
加曽利貝塚を代表とする土器の形式(E式・B式)は、関東全域に驚くほど似たデザインで広がっています。
事例: 粘土の配合、文様の構成、焼き上げの温度などが非常に高いレベルで安定しています。
推論: もし各家庭がバラバラに作っていたら、これほど統一されたデザインは維持できません。「ムラの長老」や「土器作りの名人」が若者に技術を教える「師弟関係」や「ワークショップ」のような場が、集落内にあったと考えられています。
2. 土器作りの「専用工房」の発見
いくつかの遺跡では、一般の住居とは異なる特徴を持つ建物跡が見つかっています。
事例: 長野県の阿久遺跡などでは、床に大量の粘土の塊や、土器の形を整えるための道具(石器)が残された建物が見つかっています。
推論: 生活の場とは別に、「土器製作に特化した作業場」が存在した証拠です。加曽利のような巨大集落でも、広場の一角がそのような共同作業場として機能していた可能性が高いです。
3. 指紋の主が「大人から子供まで」
近年の科学的な分析(圧痕法や指紋分析)によって、興味深い事実が判明しています。
事例: 1つの土器から、熟練した大人の指紋だけでなく、幼い子供の指紋が同時に見つかることがあります。
推論: これは、名人が土器の形を作り、仕上げの簡単な装飾や粘土の貼り付けを子供たちが手伝っていた「共同作業」の証拠です。ムラ全体で技術を継承する「教育システム」があったことを物語っています。
4. 特定の「描き癖」を持つ作者の特定
非常に興味深いことに、同じ文様の「クセ」を持つ土器が複数の住居から見つかることがあります。
事例: 模様を描く時の筆致(ヘラの動かし方や力の入れ具合)を分析すると、「同じ人物が作ったと思われる土器」が、別々の家族の家から出土するケースがあります。
推論: その人は「自分の家の分」だけでなく、「隣の家の分」も作っていた、あるいは「ムラのみんなに配るために大量に作っていた」ことになります。
これこそが、家族単位を超えた「ムラの職人(セミ・プロ)」の存在を示す強力な証拠です。
5. 巨大な「野焼き」の跡
加曽利貝塚のような場所で消費される土器の量は膨大です。
事例: 一度に数十個から数百個の土器を焼くには、大量の薪と広いスペース、そして火力を管理する大勢の人数が必要です。
推論: これは個別の家族でできる作業ではなく、ムラの公式行事として「一斉野焼きイベント」が行われていたことを示しています。
ℚ。土器は流通して、物々交換で対価を得るという経済活動として成立していましたか。
A。現代の「経済」という言葉から想像するような、利益を目的とした商取引(売買)とは少し異なりますが、縄文時代にも土器がムラを越えて動き、人々の間でやり取りされる「流通」は確実に存在していました。
ただし、それは「対価としてのお金や利益」を得るためではなく、もっと精神的なつながりや共生に基づいた「贈与経済」に近いものだったと考えられています。
1. 「対価」ではなく「お返し」の文化
当時の物々交換は、即座に等価なものを交換する「取引」というより、「お土産」や「プレゼント」のような感覚に近かったという説が有力です。
贈与経済: 良い土器を贈ることで相手に「負い目(お返しをしなければという気持ち)」を感じさせ、代わりに食料や珍しい石材(黒曜石など)を受け取るといった、互酬的な関係で成り立っていました。
信頼の証: 土器の流通は、単なる物の移動ではなく、ムラ同士の友好関係を維持するための「外交」の手段でもありました。
2. 土器そのものの流通
実際に土器が作られた場所から遠く離れた場所で見つかるケース(非在地系土器)が多々あります。
ブランドの移動: 専門的な技術を持つムラで作られた完成度の高い土器(例:加曽利E式や曽利式)が、そのデザインの魅力ゆえに広範囲へ運ばれました。
中継地点: 大規模なムラが交易の中継地点となり、丸木舟などを使って各地へ運ばれていた形跡があります。
3. 「専門家」と「製作の場」
加曽利貝塚のような拠点集落では、特定の技術を持つ「セミ・プロ」的な人物や家系がいた可能性が指摘されています。
技能の継承: 特定の家系が特殊な工芸製作(土器作りなど)の知識を受け継いでいたと考えられ、それが社会的な地位や尊敬につながっていたようです。
共同作業場: 「台形土器」という土器製作の台として使われた道具が特定の建物から集中して見つかることがあり、そこが「ムラの工房」として機能していたことを示唆しています。
4. 流通の目的:生き残るためのネットワーク
なぜ土器をやり取りしたのか。それは、一箇所のムラだけで自給自足するよりも、「あっちのムラが不漁の時は、こっちが助ける」という広いネットワークを持っておく方が、厳しい自然の中で生き残るために有利だったからです。