生成AIによる作曲に関する学生レポートをいくつか読んでいる中で、

気になった言葉がありました。

それは「生成AIは音楽の民主化を進めた」というものです。

一人ではなく、複数のレポートでそのような言葉がありました。

 

要点をまとめると、生成AIを活用することで、

作曲の技術、音楽の知識が無い人でも、

よい作詞と作曲ができるようになる、ということを「民主化」と呼んでいるらしいのです。

 

そこには次のような含意があります。

「作曲や音楽は専門性をもつ一部のアーティストによって閉ざされており、

一般の人が踏み入れることのできない王宮のようなものであったのが、

生成AIが革命を起こし、王宮の壁を壊し、すべての人の所有物へと変えた」

といえるものです。

 

しかし、音楽も作曲も、そのような要塞じみた閉鎖性をもって存在していたことは、

少なくとも戦後80年の歴史のなかでただの一度もありません。

人はなにかを口ずさめば歌えますし、手を叩けばリズムもできます。

そのへんのお茶わんや食器を叩いたって音の異なる様々な豊かな音で遊ぶことができます。

 

ギターやキーボード、ハーモニカ、それほど高額でない楽器を手にすれば、

練習すればコードくらいは弾けるようになりますし、

もう少し勉強すれば、作曲だってできます。

日本の歴代のシンガーソングライターのいったい何割が、

音大などの専門教育を受けて音楽をやっているのでしょうか。

 

その点で、少なくとも戦後の民主主義の日本のなかで、

音楽は常に民主的に存在しています。

義務教育で音楽は必修ですし、演奏する機会も、楽譜を覚える機会も均等に与えられています。

 

それでは、なぜ、ここにいたって、

生成AIによる作曲が「民主化」などといわれているのでしょうか。

それは「だれでもできる」ということを、

あたかも素晴らしいことであるかのように、

カモフラージュしているからにほかなりません。

 

民主主義国家の日本において(それが健全に機能しているかはともかく)、

「民主」という言葉は、重要な概念として価値を与えられています。

民主主義において最も重要な条件のひとつが「基本的人権の尊重」です。

 

つまり、一部のアーティストが、「音楽を創る」という技術を専横するのは、

理想の民主主義国家において、ふさわしくなく、

多くの専門性を持たない人たちの基本的人権を踏みにじっている、

と考えているということになります。

 

しかし、ここまで読むと分かる通り、ここには道理が通りません。

むしろ、経験と研鑽を重ねて、自分の才能に形を与えてきた、

クリエイターの基本的人権が軽んじられていることは明らかだからです。

 

私は最前、茶碗やコップを叩いたって、音楽にできる、と言いました。

しかし、生成AIを使って「音楽」をつくりたい、と言う人にとって、

茶碗やコップでは「音楽にならない」と考えているのでしょう。

彼らにとっては、音楽とは、楽器の楽音によるプロのポップスのような、

「かっこいい音源」の作成を意味します。

 

すでに、音楽の選別が始まっています。

それはあえて「民主化」という言葉になぞらえて政治的な文脈に落とし込むなら、

音楽の「選民思想」です。

 

それだけでなく、生成AIによる作曲が可能になっていくなかで、

人の役割は何かというと、「コマンドを与える」ということに落ち着きます。

出てきた曲が気に入らなければ、修正するコマンドを作成し、再び書き込みます。

何度かトライする間に、「いい感じの曲」になるという寸法です。

 

しかし、ここのどこに「民主」的なものがあるのでしょうか。

曲と詞じたいを作り出すのはAIの側です。

「曲を作る人」は、要するに、AIに指示をした、命令をした人だということです。

何かに命じ、自分では何の努力もせずに結果だけを待って、それを判定する。

それは、「民主」どころか、生成AIを隷属化させた「専制」ではないでしょうか。

 

つまり、ここには「民主主義」の思想の抜け殻だけがあり、

その実態は、一人一人が独裁者としてふるまいたい、という願望が横たわっているのです。

 

自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(粛清、建築、軍備拡張etc.)を叶えていく“独裁者”と、

自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(作曲)を叶えていく“民主的な個人”の間に

どれほどの違いがあるのでしょうか。

 

 

生成AIの作曲について、「民主化」という言葉を使う人間のいかがわしさが少し分かってきたことと思います。

もう一つ、これが「民主化」ではない、ということを現実の問題に即して主張しておきます。

 

それは、こうした生成AIによる作曲のサーヴィスを受けられるのは、

スマホやパソコンを所有し、インターネットの料金を払える人に限られているということです。

また、生成AIの音楽ソフトの中には、料金が発生するものがあります。

したがって、お金がある人だけのもの、だということができます。

それは「だれでもできる」という言葉には当てはまりません。

 

「民主化」とうそぶく人たちは、スマホの料金が払えない人なんてこの世にいない、

と思っているのではないでしょうか。

 

 

もっとも、「生成AIは音楽の民主化」と言っている人たちの多くが

プロフェッショナルな音楽家と同等の音楽が作れるとは思っていない、

ということは記しておくべきでしょう。

 

しかし、今日ほど、そしてこれからの世の中ほど、

プロフェッショナル、という言葉の価値が下落していく時代はないのかもしれません。

プロフェッショナルは決して技術の専横でもなんでもありません。

 

もちろん、クラシック音楽のような世界だと、

多くのプロの音楽家が比較的裕福な家庭の出身であることは間違いなく、

その点ですでに音楽と向きあう機会や、

その素養となる文化資本が均等ではないことは確かです。

 

しかし、この国で、基本的人権が遵守されているとすれば(されていることを願うばかりですが)、教育の機会は均等に与えられています。

義務教育の中で音楽に触れる機会はあります。

 

もういちど最初の疑問に戻りますが、

いったい何をもって生成AIの作曲を「音楽の民主化」ということができるのでしょうか。

 

人間が、自分の考えることを形にするために、知識を蓄え、技術を磨き、

絶え間ない研鑽を積むことでようやく形にする、という行為が保証されている、

それが基本的人権の尊重だと思います。

 

生成AIを使用するうえで、あくまでそれが素材にすぎず、

それを利用し、価値あるなにかを生み出すことができるのなら、

それはその人が積み上げてきた技術が優先されているとみるべきです。

 

生成AIが作った曲が、「人間の作る音楽とそん色ない」という言い方が、

これもよくみられるようになってきました。

同時に「生成AIの作る曲のおかしさを人間が判断できない」という言い方が成立している、ということに気づいている人はどのくらいいるのでしょうか。

 

人は自分を基準にします。

そのとき、自分に区別ができない、という能力の低さを認める代わりに、

対象を誉めることで、自分がそこに評価を与えている、という能力の高さをアピールする機会へとすり替えます。

 

あるいは、この先(今すでに)このようなことが起こりえます。

生成AIのつくる、どこか不自然な音楽やイラスト、映像の「気持ち悪さ」を

鑑賞の対象としていく、という美的判断です。

「気持ち悪さ」は十分、美的な対象になりえます。

それは、上に述べた、能力の低さの対極にあります。

生成AIの制作物の「気持ち悪さ」に価値を見いだしているからです。

そこには、人間の創作物の自然さとの対比を客観的に判断する能力が発揮されています。

 

 

しかし、この「音楽の民主化」云々の言説をみていると、

そういう「気持ち悪さ」の楽しみを共有することではないのです。

 

それは民主主義という言葉を隠れ蓑にした、専制的な思想の目くらましです。

これを成長期の学生たちの学習に取りいれる、というのがいかに危険なことかわからないでしょうか。

命令しかできない、一人だけの王国の絶対君主を育てることに、

どんな意味があるのでしょうか。

 

 

衆議院選挙を間近に控えた今日、

この「音楽の民主化」という言葉が、日本の民主主義の危うさ、

日本人の民主主義というものに対する意識の低さをあらわす、

よいひな型になっているように思えます。

今年教えた授業内容をもとに学生にレポートを書かせてみたところ、

「知」に対する意識のありようが大きく変化している、

もっといえば、「知」を必要としなくなってきている、という感じがした。

いや、もっといえば、「知」が何か、それがいるものかどうなのかもわからない、

というのが適切だろうか。

 

それはやはり、生成AIの弊害というべきものであろう。

「生成AIとうまくつきあっていく」という言葉を麗々しく持ち上げるのは、

生成AIの誕生以前に人生の半分以上を生きてきた人間の言葉である。

初期教育から生成AIを利用してきたという人間がどうなるのか、ということについては

まったく答えが出ていない。

 

しかし、答えは出ていなくとも、大学生のレポートを見ていれば、

それがいかに「知」というものを後退させているか、ということは一目瞭然なのである。

 

まず彼らは図書館に行かないため、あるジャンル、分野に関してどの程度の本があるのか、

ということが分量・総量として把握できていない。

いわば、暗闇から何本かの手が飛び出してきて、探している情報の断片を渡され、

それがすべてだと思っている、にすぎない。

 

ある著作の「分厚さ」に対する感覚がない。

すべてが同じ重さの画面としてしか、その著作は存在していない。

 

これはきわめて危険なことである。

紙の本の優れているところは、全体を物質的な量として見ることができる、というところにある。

 

知識は、手にかかる書物の重さによって、またページの感触と、指で押さえる位置と厚みによって視覚と触覚が紐づけられる。

視覚のみ、しかも平坦で形態的には何らの変化ももたらさない言葉やイメージの羅列は、

決して記憶にとどまることはない。

 

しかし、学生のかなりの数が、そのような「質量」としての知識を必要としていない。

検索するか、ChatGPTに尋ねれば答えてくれるからだ。

それがどのような「質」の情報なのかは何も分からないまま、

ただそれを受けいれていく。

いや、受け入れていくのではない、右から左へと流していくのである。

 

「知」はどのような意味をもつのか。

この文章を書こうと思ったのは、学生のレポートに対する様々な思いもさることながら、

高校生に生成AIを使って作詞・作曲をさせてみた、という報告論文を参考文献にあげていたレポートを読んだことにある。

 

その学生のレポートの出来不出来はここでは関係ない。

その論文に書かれていたことを、簡単に言ってしまえば、

ある大学で、学生たちに自分が書きたい、と思った条件を記して、

AIに作詞させ、作曲させたところ、

彼らは自分が気に入る作品ができたといって、

「創造性」を獲得できる、「作詞・作曲」という行為のハードルが下がり、

教育的にはプラスになる、というのである。

 

しかし、ここのどこに「創造性」があるのだろうか。

「作曲」のハードルは下がるにちがいない。

しかし、その下がったハードルはそもそもハードルを越えた、といえるのだろうか。

彼らは「作曲」していないのだ。

ゴーストライターを使って作曲していた懐かしの佐村河内と何が違うのか。

自分で飛ばないハードルに何の意味があるのだろうか。

 

しょせんそれは玩具で遊んでいるにすぎない。

自分の思い描く何か漠然とした思いを書くと、代わりに答えを出してくれる玩具である。

ここでいう創造性は、ようするに「自分の思う何か漠然としたイメージ」を書いた、

ということにすぎない。

佐村河内か。

 

作詞にはレトリックと語彙の「知識」が必要であり、

作曲には和声やリズムに対する「知識」が必要である。

 

その論文執筆者は、さまざまなアーティストが生成AIの使用について肯定的な評価をしているという一方的な評価のみを出している時点で、論文の客観性に問題があるのだが、

そうしたアーティストたちの人生の大半が生成AIを用いずに音楽の膨大な知識をもっている、ということを全く考慮に入れていない。

 

音楽には膨大な歴史と知識の積み重ねがある。

アーティストや芸術家は自分なりに学び、積み重ねてきた知識の上に立って、

そこに新たな作品をまた積み上げていく。

そういう長い営みの上に成立している。

 

生成AIはそうした知識の上澄みをとり、

無難なものを提示するにすぎない。

そこには意思も歴史もない、空虚な音の集合があるばかりである。

 

しかし、ここまで書きながら、ふとこういう思いにもかられる。

歴史では、これまでにさまざまな技術を「古くなったもの」として捨ててきた。

そのために忘れられた技術もまた膨大にある。

私がもっている音楽の知識といっても、たとえば、初期の記譜法や旋法による作曲、

オルガヌムなど、ほとんど扱えない。

しょせんは近世以降の知識を「知識」だといっているにすぎない。

 

私が口角泡を飛ばして創造性のための知識、と訴えているものは、

長い歴史から見れば、ある局面の終末期の現象にすぎないのかもしれない。

楽典の知識はもはや古くさい形骸にすぎず、生成AIのつくりだす、

脈絡のない音の連続、あるいは古くさいお決まりの和声進行によるそれっぽい音の連続を

おもしろがり、広がっていき、スタンダードになるときがやってこようとしているのかもしれない。

 

それは、私にとって音楽と言えるものではない、

というだけで、世間はそんなこととは関わりなく、そうしたものを受けいれ、

喜ぶのは、もしかしたら歴史の必然なのかもしれない。

 

ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が彼の晩年には時代遅れの産物だったように、

私は趣味の異なる時代の境目に立っているのかもしれない。

 

中世の神学的な知識が、やがて大半の人から忘れられたように、

私があるべきもの、と信じている知識はすでになくても困らないものなのかもしれない。

 

しかし、私には「知」を必要としない時代の生き方がわからない。

機械学習と生成AIにとにかく仕事の情報を流し込み、

それが生みだす言葉や情報を右から左へと忙しく流し続ける生き方に、

どんな充実が生まれるのだろうか。

死ぬ前に自分の人生を顧みた時、自分は何をしたと言えるのか。

そこにおける「知」とは、情報の入力のしかた、流し方、それだけである。

解釈は必要ない、なぜなら生成AIがより的確な判定をしてくれるからである。

 

そのために、流し続けることで生じたお金で、

生きがいを買い求めるのかもしれない。

おそらくそれが推し活というものの正体なのではないかとも思われる。

自分でなくてもいい仕事をやり続ける苦痛を、

快を購入することでそこに「生きる意味」を見いだそうとする。

 

推し活によって得られる「知」がある。

推しの情報はどんな些細なものでも知っておきたい、という欲求である。

だが、その「知」もやがて必要とされなくなる時がくるかもしれない。

そうなったときには、何が残されるのだろうか。

 

情報がとにかく映り続け、移り続ける刺激だけが、

生きる意味となっていく。

そこには、人としての「判断」はいらない。

判断には「知性」が必要だが、すでにそれは失われて久しい、

となっているからだ。

 

そして、頼るべきAIが電源を落とし、サーバーがダウンしたら使えなくなる、

電波の届かない場所では使えなくなる、

そんな単純なことにすら思いつかず、右往左往するのである。

 

世界には、自分の知恵と判断でしか生きられない場所がやまのようにある。

しかし、彼らがそこに出向くことはできない。

自分で檻の中に入っていることにすら気づかずに、

飼いならされ、餌を与えられて、死んでいくのである。

 

私にとって「知」とは自由になるために必要なものだ、

ここまで書いて、ようやくこんな当たり前の結論にたどりついた。

だが、この過程こそを楽しんでいるのであって、

こんなくだらない時間の使い方は生成AIには絶対できないことなのである。

 

合理性や効率という言葉が、何を失うことにつながるか、

教育はそれを教えるべきなのだが、

世の中の流れは完全に逆方向に向かっている。

東京国立博物館が、正面の池を埋め立て、芝生の広場にするという計画を発表し、批判が起きています。

11月11日にプレスリリースが発表されています。

誰もが憩える開かれた前庭に生まれ変わる 東京国立博物館が「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」を発表

 

このプレスリリースに対する批判を受けて、11月19日の「お知らせ」にて、追加する説明が加えられました。

東京国立博物館 - お知らせ 「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」についてのご意見を受けまして

 

1、イベントのおかしさ

まず、「お知らせ」には次のように書かれていました。

 

本プロジェクトで構想している前庭は、来館者の憩いの場としての機能を主とするものであり、前庭が常設のイベント会場になることはありません。本構想では、荘厳な本館を望む穏やかな芝生空間を基本とし、イベントについては、これまでと同様に、限られた期間・内容で実施する予定です。

 

「常設のイベント会場」とは、常にステージを造りつけておく、野外音楽堂のようなことをいうのであって、誰もそうしたことは考えていないでしょう。“ことあるごとに”イベントを開き、集客と会場費による収入を当て込んだ構想だということに問題を感じているのです。

この説明を読む限り、「荘厳な本館」に恥じぬ、「限られた期間・内容」で実施すると読めます。しかし、当初のプレスリリースを読めば、そのイベントがふさわしいものかはわかるでしょう。

 

新しくなった前庭を活用して、コンサートやビアガーデンなど様々なイベントを開催するこ とで、新たな東京国立博物館の魅力を発信していきます。

 

実際、東京国立博物館では、「TOHAKUビアテラス」というイベントが開かれています。

しかし、そもそも作品を鑑賞する場として、どうしてビアテラスが必要なのでしょうか。

ヨーロッパの美術館のレストランでは酒が提供されています。しかし、日本人と違って酒に強い人が多く、文化的な嗜みの一部として食事と酒を楽しむ文化的土壌が出来上がっています。

美術館はビアホールではないのです。

そこで飲んだくれた人間が館内に入り、作品を傷つけたりしたらどうする気なのでしょう。

 

東京国立博物館ではいろいろなイベントが行われています。フォトウェディングやテレビドラマ等のロケにも使われています。しかし、博物館は静謐な空間が求められているのです。何事にもほどというものがあります。

 

2、「池」のグランド・デザイン

プレスリリースと「お知らせ」いずれもが、池を芝生に変えることで「東京国立博物館の新たな顔となる開かれた前庭」となるとしています。

しかし、そもそも、正門が「開いている」のは、そこが「出口」だからで、迎え入れる場所として正門は機能していません。その意味で、正門は常に閉じられているのです。

もし、「開かれた」空間をうたうのであれば、正門を「入口」にすべきでしょう。

 

この役割的に閉じられた正門に対して、外部と内部をつなぐのが池の存在です。

上野恩賜公園の噴水広場から正面に見える本館、そして、正門の脇の入口を入ると、真正面に池を通して本館を見ます。

上空からの地図をみればわかるように、池と噴水は直線でつながっています。

いわば上野恩賜公園そのものが東京国立博物館の前庭であるかのようにふるまうべく、設計されているのです。

この池と噴水がいつ、どのような経緯で造られたのかは知りませんが、ふさわしいプランだと思います。

 

そうしたグランド・デザインをもつ空間的連続を断ち切るプロジェクトのどこが「開かれ」ているのでしょうか。

 

3、「憩いの芝生エリア」は博物館の「顔」になるか

完成イメージを見ると、芝生にはくつろいだ様子で座る人たちが描かれています。

しかし、「憩い」とは、言いかえれば「滞留」です。

「くつろぐ」と「だらしなさ」は表裏一体です。

子どもや学生、ファミリー層やシニア層、障害のある方や外 国の方まで、全ての人が快適・安全に、自分らしく過ごせる憩いの場」とはなんというきれいごとでしょうか。

そもそも「自分らしく」とはどういうことなのでしょうか。

「快適」で「安全」であるためには、各人に「節度」が求められます。

「節度をもった自分らしさ」とは「憩い」なのでしょうか。

 

好き勝手に座り、お弁当をひろげたり、大声でしゃべったり、イベントによっては酒を飲んだり、寝そべったりする人々の日常性とだらしなさが、博物館の「顔」たりえるのでしょうか。

 

本館が池に映るのがよい、というのは、平等院鳳凰堂などのイメージと重なるからでしょう。

そうした、歴史性を身近に感じさせることに池は役立っている、それは十分「顔」だといえます。

そして、実は本館よりも、谷口吉郎による東洋館のほうがいっそう池とのバランスがよいのです。

モダニズム建築として、ピロティないし校倉造を思わせる東洋館は、池を通して見ると、浮いて見えてきます。

谷口がそうしたことを意識しないはずがないのです。

 

ちなみに、内側がくぼんだ芝生の空間は、雨が続くととてもではないが座れるものにはならないだろうと思われます。

芝生は水はけがよいからどうにかなるかもしれませんが、中央にある石敷きの部分は水がたまることでしょう。

 

芝生の維持費は、池の維持費と比べて、よほど安価に済むのでしょうか。

いずれ芝生も維持できず、人工芝か土がむき出しになるのではないでしょうか。

 

 

4、芝生にする意味と官僚的思考

いや、実のところ、私個人としては池だろうが芝生だろうがどちらでもよいのです。

歴史上、東京の掘割の多くが埋められてきましたし、日本橋の上に高速道路も走りました。

風景は絶えず人の手によって変化します。

 

しかし、今回の件の背景に透けて見える思考が実に不愉快なのです。

 

2で述べたようなグランド・デザインによるものでないことは明確です。

「開かれた」空間にしたいなら、正門を「出口」ではなく「入口」にすればよいのです。

むしろ、切符をすべてオンラインにし、そうした切符を購入できない人のためのみに対応すべく切符売り場をボックスのかたちで内側に作ればよい。誰でも正門から出入り自由にすればよいのです。しかし、そんなことは書かれていませんでした。

 

芝生にすることで、イベントの集客力をつくりだし、会場料と入場料を得たい、集客による入場者数を増やしたい、という算盤勘定も透けて見えます。

要するに、本当の「誰もが」ではないのです、「入場料を払った誰もが」なのです。

博物館の予算が少ないことはよくわかります、こうしたイベントでどうにかして集客したいのもわかります。

しかし、博物館の本来の目的からは外れています。

 

ではどうしてこんな浮薄な計画をつくるのか。

ここには上野全体を俯瞰してグランド・デザインをするデザイナーがいない。

何がいるかと言えば、天下りした官僚です。

1969年以降、東京国立博物館の館長は一貫して「文部事務次官」だった元官僚が就任しています。

美術や考古学といった博物館収蔵品や研究と何の関係もない履歴の人間が60年近く、常にトップにいて、専門性のかけらもないのにあれこれと命じる、というのは異常です。

 

彼らは政治家や文科省とのパイプ役として必要なのだというのかもしれませんが、

それなら潤沢に予算を取ってくるべきです。

そうはなっていません。

結局のところ、文部事務次官の再就職先として、利用されているにすぎないのです。

 

奈良国立博物館と京都国立博物館はそうではありません。

ほぼ一貫して美術史家や文学研究者が就任しています。

東京国立博物館だけが官僚です。

現館長も前館長もかつて、文科省の天下り人事で処罰を受けたことのある人物です。

それが、うまうまと国立博物館の長の座に収まっている。

 

この芝生広場も、現館長が「自分の功績」として誇示したいのだという目的が透けて見えます。

収集、保存・修復といった博物館の主要な目的ではなく、派手で目に見える「功績」がほしい、館長のメッセージにあるのは、そうした分かりやすい派手さです。

どこにも保存や修復に関する言葉はなく、国際的な連携を、海外での展覧会を、といった分かりやすい「発信性」です。

館長には、学芸員が求めている、収蔵スペースや修復といった地味で目に見えないものは自分の「功績」にならないというのがよく分かっているのでしょう。

分かりやすい官僚的思考です。

 

館長のメッセージには「シロウト館長」と自虐まじりに書いていましたが、

実際、素人だということがよくわかります。

「収集、保存、調査研究、展示、教育」これが博物館法にある博物館の目的だというのは、

博物館学の最初に学ぶことです。

「憩いの広場」や「イベント空間」をつくることが博物館の目的ではありません。

そんなことも分からないのは、自虐するまでもなくド素人であり、恥ずべき存在です。

そういう恥知らずが、50年以上のさばってきたのが、東京国立博物館の不幸です。

 

 

さいごに

しかし、一番不愉快なことはなにかと言えば、

結局のところ計画は覆らず、芝生広場ができあがり、

そして出来上がればわれ先にとそこに行き、その芝生から「映る」写真を撮って得意顔をする人間が多くいるだろうということです。

先日の万博と同じです。

 

そこには展示物に対する感銘や敬意や鑑賞はなく、イベントスペース化した醜い観光地としての博物館があるばかりです。

そうではないはずなのです。

誰でも来られる博物館、それは小さい時から通い、教育プログラムを充実させることに他なりません。

 

私は以前、フィレンツェのウフィッツィ美術館で、20人ほどの小学生が、床に座りながら、ミケランジェロの絵画を前にレクチャーを受けているのを見て、「敵わないな」と舌を巻いた記憶があります。

ウィーンの美術史美術館でも同じ光景をみました。

敬意と親しみをもって作品に向きあう機会をどれだけ増やすか、ということが博物館の使命です。

それが「私たちの博物館」を創ることであり、グランド・ヴィジョンであるべきことです。

作品の前に遠慮なく地面に座り、いろいろな角度から作品を眺め、考える時間をつくること。

必要なのはそういうことです、休憩スペース、イベントスペースの芝生ではありません。

 

開館100周年に向けた「東京国立博物館 2038 ビジョン」は、次のような標語を掲げているそうです。

 

「いにしえから宝物を創ってきた人々の想いを、
いまを生きる力にする」

 

なんというへたくそな日本語でしょうか。

博物館という場の恒久性を考えるなら、少なくとも「いまを生きる」ではなく

「これからを生きる」にすべきでしょう。

そして、このビジョンには「伝える」ということが決定的に欠けています。

「宝物」(これも博物館にはそぐわない言葉)が、今、私たちの目の前にあるのは、誰のおかげなのか。

 

「伝えてきた人々の想いのバトンをつなぐ」、というのなら話はわかります。

しかし、そうではない。

いかにもお役人が好みそうな言葉を並べた結果、博物館の理念と何の関係もない、文法的にも不明瞭な言葉が標語として掲げられたのです。

 

だから、このビジョンには「守っていこう」「伝えていこう」という意思がありません。

もっとも、ビジョンのショートステートメントには次のように書かれています。

 

これまで150年にわたり、いにしえの宝物を守り、受け継いできました。そして、この先は、皆さまと共に未来へとつながる「最先端ミュージアム」を創ってまいりましょう。

 

しかし、150年?この数字は何なのでしょう?

1872年の文部省博物館の開館からの数字でしょうか。

馬鹿を言ってはいけない、奈良・平安時代の「宝物」を1000年、守り受けついできたのは誰だ。

少なくとも文部省博物館以前から所有者や寺社で代々守り継いできた、その延長の博物館だ、という意識があるようには思えない言葉です。

そして、ロードマップには次のようにあります。

 

「多様な人材と専門性強化で、宝物を未来へ」

 

もちろん、保存には専門家が必要です。

しかし、そうではないのです。

日本人が、この日本の美術作品、考古遺物、工芸品を守らねばならない、と自覚するようにすることが最も必要なことなのです。

 

将来、自分たちがこの作品を守っていくのだ、という誇りを生まずして、何が博物館であるものか。

インバウンドや表層的な集客を当て込んだ、見栄えの良いきれいごとを並べ立てる「ビジョン」に、どんなビジョンがあるというのか。

そこには文字通り、「いま」しかないのでしょう。

 

来館者や子どもたち、企業、クリエイターといったさまざまなパートナーと共に、歴史を深く掘り下げ、未来へつなぐ新しい発見や感動を生み出す場所を創出します。ここで出会う、いにしえの人々の想いが、訪れる人の心に「明日へのパワー」を届け、自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる。一そんな好奇心が刺激される場所へ。

 

この「パートナー」の列挙で気になるのは、「来館者」と「子どもたち」は別だということです。

子供たちも来館者ではないのか?

最も大事にしたい「企業」という言葉が間に入り、言い訳のように「クリエイター」が加えられている、言葉の選択はそんなところでしょう。

 

そんなことは、「場所を創出」するまでもない、作品自体がその力を持っています。

私が18歳で上京し、最初に東京国立博物館を訪れた時の感動と衝撃は、いまだに忘れません。

長次郎、了入、光琳、乾山、野々村仁清といった陶芸の名品の数々、

光悦の蒔絵硯箱、渡辺崋山の軸、そして、法隆寺館の伎楽面、水瓶、

考古資料の遮光器土偶に火炎土器、銅鐸、銅鏡、…教科書や本でしか見なかったものが、目の前にある、涙が出ました。

 

しかし、私が感動できたのは、あらかじめの歴史と美術の教育があったからです。

実物を見たい、という渇望があり、そこにあるとは思いもかけず、出会った衝撃は、すでに「作品」自体が持っていました。

 

小手先の「最先端ミュージアム」なるものよりも、たゆまぬ教育が大事なのです。

文化はcultureであり、cultureとは耕すことです。

「自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる」という言葉は、一見するともっともらしく響きますが、それはどんな実感なのでしょうか。

 

このミッションステートメントは、生成AIが書いたような、実感のなさがあります。

これを書いたはずの人(たち?)には、どんな未来が見えているのでしょうか。

最先端テクノロジーを駆使した、高画質な複製や、最近はやっている没入型イベント、

疑似的に触れる展示、そんなところでしょうか。

そんなことに予算をつぎ込むなら、修復費にあて、その過程をSNSなどで発信していくほうがよほど健全です。

 

私には、芝生に変えようとする人間も、それに異を唱える人間も、

結局のところ、本質から離れた浮薄な言い争いをしているように見えています。

 

博物館の「博」とは「ひろい」という意味ですが、

「恥知らず」は収蔵しなくてもよろしいかと思います。

大学の学生レポートについて、生成AIの使用が増えつつあるようで、

私の担当する授業でも、それが原因で何人か単位を落とすことになった。

 

どうやら彼らは、ばれないと思っているらしいのだ。

生成AIの精度が上がってはいるものの、

哀しいかな、人間のほうは賢くはなっていないので、

少し調べたり考えればわかるミスをそのまま提出してくるのである。

 

生成AIに条件を入力して、コピペし、言葉尻と言葉遣いを整えて提出する、

それで、「自分」という存在には何か価値があると言えるのだろうか。

それとも、私に対してのみ、「自分には存在価値がありません」という表明をしたいのだろうか。

私は彼らの人格を否定する資格はもたないので、

彼らはそういう表明をしたいのだと考えることにした。

 

最近は、生成AIかどうかの判定をするソフトがあり、

いちおう、学生のレポートもそれにかけてみると、

3割くらいがAIを使用した可能性が60%を超える。

 

念のため、そのソフトが正当なものかどうか確かめるために、

私が、別の用事で書いた文章をいくつか入れてみたら、

いずれも「15%以下」と出たので、

ある程度の信頼はおけそうである。

(ひとつ事務的に書いた文章を入れたら50%になったので、

ますます信頼できる)

 

学生のレポートでも、これはよく書けているな、と思ったものは、

あとでソフトにかけてみると、やはり「15%以下」になっていたので、

私の目もある程度たしかなものである。

ただし、60%を超えていても、これは本人が書いているな、といるものもある。

ソフトもしょせんはAIによる判定なので、過信してはならない。

 

 

さて、最近の生成AIの文章と構成は、非常に自然なものになってはきている。

しかし、その「くせのなさ」が気持ち悪いのである。

どの対象にも当てはまるような形容詞を当てはめ、

当たり障りのない、ほどよい「いいこと」を理路整然と語っているかに見せかける。

 

読んでいると、はたしてこの執筆者はこの対象を愛しているのか、と問いたくなる。

AIなのだから、「愛」や「面白味」などないに決まっているのである。

変なこだわりもなければ、わだかまるところもない、

ただ通り過ぎていくだけの言葉の羅列にすぎない。

 

60%を超えていても本人が書いている文章、というのはつまるところ、

くせがなく、面白味もない文章ということである。

ただ、それでも人間くささというのはあらわれる。

とにかく期限に間に合わせるべく書かねばいけないが、

まったく書きたくない、という意思は非常によく伝わるのである。

そこにある、内容の空回りや論理の破綻はたしかに「人」のものである。

ただし、やはり点数は低い。

 

 

生成AIは「当たり障りのない」ものには向いている。

また、データを整理するだけなら有効なのだろう。

 

しかし、こと私が相手にしている音楽や文学、芸術に関しては、

まったく生成AIは向いていない。

 

なぜかといえば、ある対象を「よい」というのは、非常に個人的なことだからだ。

「好き/嫌い」という価値判断は、その個人の人生と結びつく。

他者や環境からの影響の積み重ね、生来の志向、そういったものが、おそろしく複雑に結びついている。

ある芸術作品について、感銘を受けたとき、かりに同じような感銘を他者もまた経験するとしても、その何を表現したいのか、またそれを表現するための語彙や言葉遣い、文体は、やはり個人の経験と影響の積み重ねによる。

 

何に対して「好き/嫌い」という判断を下すか、そして、それをどう表現するか、

二重のパスワードが必要なのだといってもよい。

 

少なくとも、今私がここに書いているようなことを生成AIができるとしても、

この文章は書けないのである。

 

だが、私が言っているようなことは、ほとんど価値がないものになりつつある。

大方が好きだというものを好きだといい、大方が言えそうなことを言うことがよい、

そういう画一化が急速に進んでいる。

 

恐ろしいのは、その「画一化」の思考パターンのなかに入り込んでいることである。

つまり、人間が生成AIのようにふるまい始めることである。

それは感動とは真逆の思考と行動である。

 

ネットスラングのひとつに「語彙力」というものがあり、

それはあるものに心を動かされた時に、言葉にしがたいために「語彙力がない」という感動表現である。

「筆舌に尽くしがたい」「絵にも描けない美しさ」のような類の言葉で、

その表現自体はおもしろい。

その一方で、「語彙力」とさえ言えばOKだとなったり、

とくに感動していなくても、みんなが感動するというものに「語彙力」といってみたりする。

 

つまらないと思う。

「語彙力」とは、何かうまいことを言ったようで、要するに思考停止である。

私は頭を使って語彙力の限りを尽くせと言いたい。

もどかしい思いをして、自分の言葉で、自分にしか可能ではない表現で言葉を尽くし、

その感動を伝えようとするべきなのである。

 

どんなに努力したところで、どうせ、それはうまくいかない。

本当に美しいものや心を動かされるものを前にしたとき、

それを言葉にすることは不可能なのは分かり切っている。

 

先日、五色ヶ原で見た夜空を私はどうやって表現したらいいのだろうか。

同じように山の中で素晴らしい星空を見上げた人はたくさんいる。

だが、わが意を得たり、と思える文章に出会ったことはない。

 

しかし、言葉にできないところまで言葉を使わなければ、

筆舌に尽くしがたい、などとは言ってはいけないのである。

 

その徒労じみた努力を続けることが、「個」を生むのであり、

生成AIの「中央値」を外れ、人らしい生き方になる。

 

 

だが、こんなことを言ってみてももう無駄なのだという思いもしてくる。

この文章が意味をもつのは、生成AIに疑問を持つ人に対してであり、

疑問を持っている人は、私に言われるまでもないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

この何年か、ネット上、とくにSNSやニュースのコメントで、

無署名の“正論”がさかんに、いや、異常に増殖しています。

 

北海道でヒグマが出れば、

「すべてのクマを駆除せよ」といったり、「ヒグマがかわいそうだ」といったり、

その市区町村に住んでいるわけでもない人間が、

一理をもって意見を述べる、こんな馬鹿馬鹿しい話はないわけです。

 

また、広島の県知事が核兵器廃絶を訴えれば、

「核の抑止力という現実を理解していない」などというコメントが飛ぶ有様です。

 

なぜ彼らは、大きな顔をして(実際は顔も名前も出さずに)まことしやかな意見を述べるのか。

そして、彼らのいうところの「正論」の正体がなにか、少し考えてみたいと思います。

 

 

彼らに共通するのは、自分の聞きかじりの知識という、

一面性のみで作り上げられた「正しさ」でできているということです。

そこには、実地のものへの想像力が一切欠けています。

 

ヒグマでいえば、ヒグマを見たことも襲われたこともなく、

また、そうしたクマが日常に出没する恐怖を知らないと、

「クマがかわいそうだ、命を何だと思っているのか」という“正論”が登場する。

その一方で、「クマを全滅させろ」という極端な意見は、

上記の「かわいそう」主義に対する、人間至上主義の発露であり、

そこには客観性はない。

 

そこに暮らす人々が、どのようにしてヒグマと折り合いをつけて生きてきたのか、

そして、折り合いをつけようとしているのかを全く無視している。

なぜなら、彼らには関係がないからです。

おそらく、彼らがその地に行くこともなければ、住むこともないでしょう。

 

原爆忌の式典で行った広島県知事の挨拶に対し、

「核抑止力の有効性」という“正論”を吐く人間にあるのは、

自分は世界の軍事について一家言あるという、半端な知識のひけらかしにすぎません。

そのときには、今も世界中で戦禍にあり、身近な人を失い、家を失い、

飢餓に苦しむ人のことを一ミリも考えていないことは明らかです。

 

その原型は、テレビのワイドショーのコメンテーターに求められますが、

(自分の専門でもないことについて、したり顔で話す恥知らずは山ほどいます)

結局、彼らを批判する人たちのコメントをみると、

ようするに彼らもまたコメンテーターになりたいということなのです。

 

誰でもいえるようなことを誰でもいうように言って、感心されたいという

つまらない願望が、その言葉の端々から読み取れます。

「ヒグマがかわいそう」「ヒグマを絶滅させろ」、といった今どき小学生ですら言わない、

幼稚な言辞が飛び交うのは、まさしく「誰でもいえること」の末期症状です。

 

そこには、「一面的な正しさ」を「正しさの総体」として勘違いする、

愚かしさを出発点としています。

 

いかなるものにおいても、ある一面においては正しく、

またある一面においては誤っている、

正しさとはあくまで相対的なものであり、

多面体の中の一平面にすぎません。

 

 

では、ある一面のみをとらえて、それを正しいと思い込む人は、どういう人なのか。

それは以前の私が出会った人にも言えることですが、

自分が評価されていないという屈託を抱えている人です。

自分が適切に評価されている、あるいは評価されないのは自分の努力のいたらないためだ、ということを理解している人は、決して他者に対して攻撃的に“正論”をぶつけないものです。

 

自分に固執すると、周りが見えなくなっていきます。

SNSや、ネットニュースのコメント等によくみられる、

いかにも世間を知っている風のコメントを書き、“正論”を口走る人たちは、

世間や世界を知っているのではなく、

「自分のイメージの中の“世界”」を知っているにすぎないのです。

それは言いかえれば、「思い込みの世界」です。

 

思い込みの世界には、その世界の王様としての自分だけがいるのですから、

王様が言うことはすべて“正論”です。

そこには「現実」はなく、“思い込みの現実”があるばかりです。

 

そうした“正論”に、どのような価値があるというのでしょうか。

これまで、「正論」というのは、「道理にかなった議論」という意味でしたが、

私は、こうした最近の“正論”について、新たな定義を提案しておきたいと思います。

 

“正論”とは正義の空論である、と。