生成AIによる作曲に関する学生レポートをいくつか読んでいる中で、
気になった言葉がありました。
それは「生成AIは音楽の民主化を進めた」というものです。
一人ではなく、複数のレポートでそのような言葉がありました。
要点をまとめると、生成AIを活用することで、
作曲の技術、音楽の知識が無い人でも、
よい作詞と作曲ができるようになる、ということを「民主化」と呼んでいるらしいのです。
そこには次のような含意があります。
「作曲や音楽は専門性をもつ一部のアーティストによって閉ざされており、
一般の人が踏み入れることのできない王宮のようなものであったのが、
生成AIが革命を起こし、王宮の壁を壊し、すべての人の所有物へと変えた」
といえるものです。
しかし、音楽も作曲も、そのような要塞じみた閉鎖性をもって存在していたことは、
少なくとも戦後80年の歴史のなかでただの一度もありません。
人はなにかを口ずさめば歌えますし、手を叩けばリズムもできます。
そのへんのお茶わんや食器を叩いたって音の異なる様々な豊かな音で遊ぶことができます。
ギターやキーボード、ハーモニカ、それほど高額でない楽器を手にすれば、
練習すればコードくらいは弾けるようになりますし、
もう少し勉強すれば、作曲だってできます。
日本の歴代のシンガーソングライターのいったい何割が、
音大などの専門教育を受けて音楽をやっているのでしょうか。
その点で、少なくとも戦後の民主主義の日本のなかで、
音楽は常に民主的に存在しています。
義務教育で音楽は必修ですし、演奏する機会も、楽譜を覚える機会も均等に与えられています。
それでは、なぜ、ここにいたって、
生成AIによる作曲が「民主化」などといわれているのでしょうか。
それは「だれでもできる」ということを、
あたかも素晴らしいことであるかのように、
カモフラージュしているからにほかなりません。
民主主義国家の日本において(それが健全に機能しているかはともかく)、
「民主」という言葉は、重要な概念として価値を与えられています。
民主主義において最も重要な条件のひとつが「基本的人権の尊重」です。
つまり、一部のアーティストが、「音楽を創る」という技術を専横するのは、
理想の民主主義国家において、ふさわしくなく、
多くの専門性を持たない人たちの基本的人権を踏みにじっている、
と考えているということになります。
しかし、ここまで読むと分かる通り、ここには道理が通りません。
むしろ、経験と研鑽を重ねて、自分の才能に形を与えてきた、
クリエイターの基本的人権が軽んじられていることは明らかだからです。
私は最前、茶碗やコップを叩いたって、音楽にできる、と言いました。
しかし、生成AIを使って「音楽」をつくりたい、と言う人にとって、
茶碗やコップでは「音楽にならない」と考えているのでしょう。
彼らにとっては、音楽とは、楽器の楽音によるプロのポップスのような、
「かっこいい音源」の作成を意味します。
すでに、音楽の選別が始まっています。
それはあえて「民主化」という言葉になぞらえて政治的な文脈に落とし込むなら、
音楽の「選民思想」です。
それだけでなく、生成AIによる作曲が可能になっていくなかで、
人の役割は何かというと、「コマンドを与える」ということに落ち着きます。
出てきた曲が気に入らなければ、修正するコマンドを作成し、再び書き込みます。
何度かトライする間に、「いい感じの曲」になるという寸法です。
しかし、ここのどこに「民主」的なものがあるのでしょうか。
曲と詞じたいを作り出すのはAIの側です。
「曲を作る人」は、要するに、AIに指示をした、命令をした人だということです。
何かに命じ、自分では何の努力もせずに結果だけを待って、それを判定する。
それは、「民主」どころか、生成AIを隷属化させた「専制」ではないでしょうか。
つまり、ここには「民主主義」の思想の抜け殻だけがあり、
その実態は、一人一人が独裁者としてふるまいたい、という願望が横たわっているのです。
自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(粛清、建築、軍備拡張etc.)を叶えていく“独裁者”と、
自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(作曲)を叶えていく“民主的な個人”の間に
どれほどの違いがあるのでしょうか。
生成AIの作曲について、「民主化」という言葉を使う人間のいかがわしさが少し分かってきたことと思います。
もう一つ、これが「民主化」ではない、ということを現実の問題に即して主張しておきます。
それは、こうした生成AIによる作曲のサーヴィスを受けられるのは、
スマホやパソコンを所有し、インターネットの料金を払える人に限られているということです。
また、生成AIの音楽ソフトの中には、料金が発生するものがあります。
したがって、お金がある人だけのもの、だということができます。
それは「だれでもできる」という言葉には当てはまりません。
「民主化」とうそぶく人たちは、スマホの料金が払えない人なんてこの世にいない、
と思っているのではないでしょうか。
もっとも、「生成AIは音楽の民主化」と言っている人たちの多くが
プロフェッショナルな音楽家と同等の音楽が作れるとは思っていない、
ということは記しておくべきでしょう。
しかし、今日ほど、そしてこれからの世の中ほど、
プロフェッショナル、という言葉の価値が下落していく時代はないのかもしれません。
プロフェッショナルは決して技術の専横でもなんでもありません。
もちろん、クラシック音楽のような世界だと、
多くのプロの音楽家が比較的裕福な家庭の出身であることは間違いなく、
その点ですでに音楽と向きあう機会や、
その素養となる文化資本が均等ではないことは確かです。
しかし、この国で、基本的人権が遵守されているとすれば(されていることを願うばかりですが)、教育の機会は均等に与えられています。
義務教育の中で音楽に触れる機会はあります。
もういちど最初の疑問に戻りますが、
いったい何をもって生成AIの作曲を「音楽の民主化」ということができるのでしょうか。
人間が、自分の考えることを形にするために、知識を蓄え、技術を磨き、
絶え間ない研鑽を積むことでようやく形にする、という行為が保証されている、
それが基本的人権の尊重だと思います。
生成AIを使用するうえで、あくまでそれが素材にすぎず、
それを利用し、価値あるなにかを生み出すことができるのなら、
それはその人が積み上げてきた技術が優先されているとみるべきです。
生成AIが作った曲が、「人間の作る音楽とそん色ない」という言い方が、
これもよくみられるようになってきました。
同時に「生成AIの作る曲のおかしさを人間が判断できない」という言い方が成立している、ということに気づいている人はどのくらいいるのでしょうか。
人は自分を基準にします。
そのとき、自分に区別ができない、という能力の低さを認める代わりに、
対象を誉めることで、自分がそこに評価を与えている、という能力の高さをアピールする機会へとすり替えます。
あるいは、この先(今すでに)このようなことが起こりえます。
生成AIのつくる、どこか不自然な音楽やイラスト、映像の「気持ち悪さ」を
鑑賞の対象としていく、という美的判断です。
「気持ち悪さ」は十分、美的な対象になりえます。
それは、上に述べた、能力の低さの対極にあります。
生成AIの制作物の「気持ち悪さ」に価値を見いだしているからです。
そこには、人間の創作物の自然さとの対比を客観的に判断する能力が発揮されています。
しかし、この「音楽の民主化」云々の言説をみていると、
そういう「気持ち悪さ」の楽しみを共有することではないのです。
それは民主主義という言葉を隠れ蓑にした、専制的な思想の目くらましです。
これを成長期の学生たちの学習に取りいれる、というのがいかに危険なことかわからないでしょうか。
命令しかできない、一人だけの王国の絶対君主を育てることに、
どんな意味があるのでしょうか。
衆議院選挙を間近に控えた今日、
この「音楽の民主化」という言葉が、日本の民主主義の危うさ、
日本人の民主主義というものに対する意識の低さをあらわす、
よいひな型になっているように思えます。