東京国立博物館が、正面の池を埋め立て、芝生の広場にするという計画を発表し、批判が起きています。
11月11日にプレスリリースが発表されています。
誰もが憩える開かれた前庭に生まれ変わる 東京国立博物館が「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」を発表
このプレスリリースに対する批判を受けて、11月19日の「お知らせ」にて、追加する説明が加えられました。
東京国立博物館 - お知らせ 「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」についてのご意見を受けまして
1、イベントのおかしさ
まず、「お知らせ」には次のように書かれていました。
本プロジェクトで構想している前庭は、来館者の憩いの場としての機能を主とするものであり、前庭が常設のイベント会場になることはありません。本構想では、荘厳な本館を望む穏やかな芝生空間を基本とし、イベントについては、これまでと同様に、限られた期間・内容で実施する予定です。
「常設のイベント会場」とは、常にステージを造りつけておく、野外音楽堂のようなことをいうのであって、誰もそうしたことは考えていないでしょう。“ことあるごとに”イベントを開き、集客と会場費による収入を当て込んだ構想だということに問題を感じているのです。
この説明を読む限り、「荘厳な本館」に恥じぬ、「限られた期間・内容」で実施すると読めます。しかし、当初のプレスリリースを読めば、そのイベントがふさわしいものかはわかるでしょう。
新しくなった前庭を活用して、コンサートやビアガーデンなど様々なイベントを開催するこ とで、新たな東京国立博物館の魅力を発信していきます。
実際、東京国立博物館では、「TOHAKUビアテラス」というイベントが開かれています。
しかし、そもそも作品を鑑賞する場として、どうしてビアテラスが必要なのでしょうか。
ヨーロッパの美術館のレストランでは酒が提供されています。しかし、日本人と違って酒に強い人が多く、文化的な嗜みの一部として食事と酒を楽しむ文化的土壌が出来上がっています。
美術館はビアホールではないのです。
そこで飲んだくれた人間が館内に入り、作品を傷つけたりしたらどうする気なのでしょう。
東京国立博物館ではいろいろなイベントが行われています。フォトウェディングやテレビドラマ等のロケにも使われています。しかし、博物館は静謐な空間が求められているのです。何事にもほどというものがあります。
2、「池」のグランド・デザイン
プレスリリースと「お知らせ」いずれもが、池を芝生に変えることで「東京国立博物館の新たな顔となる開かれた前庭」となるとしています。
しかし、そもそも、正門が「開いている」のは、そこが「出口」だからで、迎え入れる場所として正門は機能していません。その意味で、正門は常に閉じられているのです。
もし、「開かれた」空間をうたうのであれば、正門を「入口」にすべきでしょう。
この役割的に閉じられた正門に対して、外部と内部をつなぐのが池の存在です。
上野恩賜公園の噴水広場から正面に見える本館、そして、正門の脇の入口を入ると、真正面に池を通して本館を見ます。
上空からの地図をみればわかるように、池と噴水は直線でつながっています。
いわば上野恩賜公園そのものが東京国立博物館の前庭であるかのようにふるまうべく、設計されているのです。
この池と噴水がいつ、どのような経緯で造られたのかは知りませんが、ふさわしいプランだと思います。
そうしたグランド・デザインをもつ空間的連続を断ち切るプロジェクトのどこが「開かれ」ているのでしょうか。
3、「憩いの芝生エリア」は博物館の「顔」になるか
完成イメージを見ると、芝生にはくつろいだ様子で座る人たちが描かれています。
しかし、「憩い」とは、言いかえれば「滞留」です。
「くつろぐ」と「だらしなさ」は表裏一体です。
「子どもや学生、ファミリー層やシニア層、障害のある方や外 国の方まで、全ての人が快適・安全に、自分らしく過ごせる憩いの場」とはなんというきれいごとでしょうか。
そもそも「自分らしく」とはどういうことなのでしょうか。
「快適」で「安全」であるためには、各人に「節度」が求められます。
「節度をもった自分らしさ」とは「憩い」なのでしょうか。
好き勝手に座り、お弁当をひろげたり、大声でしゃべったり、イベントによっては酒を飲んだり、寝そべったりする人々の日常性とだらしなさが、博物館の「顔」たりえるのでしょうか。
本館が池に映るのがよい、というのは、平等院鳳凰堂などのイメージと重なるからでしょう。
そうした、歴史性を身近に感じさせることに池は役立っている、それは十分「顔」だといえます。
そして、実は本館よりも、谷口吉郎による東洋館のほうがいっそう池とのバランスがよいのです。
モダニズム建築として、ピロティないし校倉造を思わせる東洋館は、池を通して見ると、浮いて見えてきます。
谷口がそうしたことを意識しないはずがないのです。
ちなみに、内側がくぼんだ芝生の空間は、雨が続くととてもではないが座れるものにはならないだろうと思われます。
芝生は水はけがよいからどうにかなるかもしれませんが、中央にある石敷きの部分は水がたまることでしょう。
芝生の維持費は、池の維持費と比べて、よほど安価に済むのでしょうか。
いずれ芝生も維持できず、人工芝か土がむき出しになるのではないでしょうか。
4、芝生にする意味と官僚的思考
いや、実のところ、私個人としては池だろうが芝生だろうがどちらでもよいのです。
歴史上、東京の掘割の多くが埋められてきましたし、日本橋の上に高速道路も走りました。
風景は絶えず人の手によって変化します。
しかし、今回の件の背景に透けて見える思考が実に不愉快なのです。
2で述べたようなグランド・デザインによるものでないことは明確です。
「開かれた」空間にしたいなら、正門を「出口」ではなく「入口」にすればよいのです。
むしろ、切符をすべてオンラインにし、そうした切符を購入できない人のためのみに対応すべく切符売り場をボックスのかたちで内側に作ればよい。誰でも正門から出入り自由にすればよいのです。しかし、そんなことは書かれていませんでした。
芝生にすることで、イベントの集客力をつくりだし、会場料と入場料を得たい、集客による入場者数を増やしたい、という算盤勘定も透けて見えます。
要するに、本当の「誰もが」ではないのです、「入場料を払った誰もが」なのです。
博物館の予算が少ないことはよくわかります、こうしたイベントでどうにかして集客したいのもわかります。
しかし、博物館の本来の目的からは外れています。
ではどうしてこんな浮薄な計画をつくるのか。
ここには上野全体を俯瞰してグランド・デザインをするデザイナーがいない。
何がいるかと言えば、天下りした官僚です。
1969年以降、東京国立博物館の館長は一貫して「文部事務次官」だった元官僚が就任しています。
美術や考古学といった博物館収蔵品や研究と何の関係もない履歴の人間が60年近く、常にトップにいて、専門性のかけらもないのにあれこれと命じる、というのは異常です。
彼らは政治家や文科省とのパイプ役として必要なのだというのかもしれませんが、
それなら潤沢に予算を取ってくるべきです。
そうはなっていません。
結局のところ、文部事務次官の再就職先として、利用されているにすぎないのです。
奈良国立博物館と京都国立博物館はそうではありません。
ほぼ一貫して美術史家や文学研究者が就任しています。
東京国立博物館だけが官僚です。
現館長も前館長もかつて、文科省の天下り人事で処罰を受けたことのある人物です。
それが、うまうまと国立博物館の長の座に収まっている。
この芝生広場も、現館長が「自分の功績」として誇示したいのだという目的が透けて見えます。
収集、保存・修復といった博物館の主要な目的ではなく、派手で目に見える「功績」がほしい、館長のメッセージにあるのは、そうした分かりやすい派手さです。
どこにも保存や修復に関する言葉はなく、国際的な連携を、海外での展覧会を、といった分かりやすい「発信性」です。
館長には、学芸員が求めている、収蔵スペースや修復といった地味で目に見えないものは自分の「功績」にならないというのがよく分かっているのでしょう。
分かりやすい官僚的思考です。
館長のメッセージには「シロウト館長」と自虐まじりに書いていましたが、
実際、素人だということがよくわかります。
「収集、保存、調査研究、展示、教育」これが博物館法にある博物館の目的だというのは、
博物館学の最初に学ぶことです。
「憩いの広場」や「イベント空間」をつくることが博物館の目的ではありません。
そんなことも分からないのは、自虐するまでもなくド素人であり、恥ずべき存在です。
そういう恥知らずが、50年以上のさばってきたのが、東京国立博物館の不幸です。
さいごに
しかし、一番不愉快なことはなにかと言えば、
結局のところ計画は覆らず、芝生広場ができあがり、
そして出来上がればわれ先にとそこに行き、その芝生から「映る」写真を撮って得意顔をする人間が多くいるだろうということです。
先日の万博と同じです。
そこには展示物に対する感銘や敬意や鑑賞はなく、イベントスペース化した醜い観光地としての博物館があるばかりです。
そうではないはずなのです。
誰でも来られる博物館、それは小さい時から通い、教育プログラムを充実させることに他なりません。
私は以前、フィレンツェのウフィッツィ美術館で、20人ほどの小学生が、床に座りながら、ミケランジェロの絵画を前にレクチャーを受けているのを見て、「敵わないな」と舌を巻いた記憶があります。
ウィーンの美術史美術館でも同じ光景をみました。
敬意と親しみをもって作品に向きあう機会をどれだけ増やすか、ということが博物館の使命です。
それが「私たちの博物館」を創ることであり、グランド・ヴィジョンであるべきことです。
作品の前に遠慮なく地面に座り、いろいろな角度から作品を眺め、考える時間をつくること。
必要なのはそういうことです、休憩スペース、イベントスペースの芝生ではありません。
開館100周年に向けた「東京国立博物館 2038 ビジョン」は、次のような標語を掲げているそうです。
「いにしえから宝物を創ってきた人々の想いを、
いまを生きる力にする」
なんというへたくそな日本語でしょうか。
博物館という場の恒久性を考えるなら、少なくとも「いまを生きる」ではなく
「これからを生きる」にすべきでしょう。
そして、このビジョンには「伝える」ということが決定的に欠けています。
「宝物」(これも博物館にはそぐわない言葉)が、今、私たちの目の前にあるのは、誰のおかげなのか。
「伝えてきた人々の想いのバトンをつなぐ」、というのなら話はわかります。
しかし、そうではない。
いかにもお役人が好みそうな言葉を並べた結果、博物館の理念と何の関係もない、文法的にも不明瞭な言葉が標語として掲げられたのです。
だから、このビジョンには「守っていこう」「伝えていこう」という意思がありません。
もっとも、ビジョンのショートステートメントには次のように書かれています。
これまで150年にわたり、いにしえの宝物を守り、受け継いできました。そして、この先は、皆さまと共に未来へとつながる「最先端ミュージアム」を創ってまいりましょう。
しかし、150年?この数字は何なのでしょう?
1872年の文部省博物館の開館からの数字でしょうか。
馬鹿を言ってはいけない、奈良・平安時代の「宝物」を1000年、守り受けついできたのは誰だ。
少なくとも文部省博物館以前から所有者や寺社で代々守り継いできた、その延長の博物館だ、という意識があるようには思えない言葉です。
そして、ロードマップには次のようにあります。
「多様な人材と専門性強化で、宝物を未来へ」
もちろん、保存には専門家が必要です。
しかし、そうではないのです。
日本人が、この日本の美術作品、考古遺物、工芸品を守らねばならない、と自覚するようにすることが最も必要なことなのです。
将来、自分たちがこの作品を守っていくのだ、という誇りを生まずして、何が博物館であるものか。
インバウンドや表層的な集客を当て込んだ、見栄えの良いきれいごとを並べ立てる「ビジョン」に、どんなビジョンがあるというのか。
そこには文字通り、「いま」しかないのでしょう。
来館者や子どもたち、企業、クリエイターといったさまざまなパートナーと共に、歴史を深く掘り下げ、未来へつなぐ新しい発見や感動を生み出す場所を創出します。ここで出会う、いにしえの人々の想いが、訪れる人の心に「明日へのパワー」を届け、自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる。一そんな好奇心が刺激される場所へ。
この「パートナー」の列挙で気になるのは、「来館者」と「子どもたち」は別だということです。
子供たちも来館者ではないのか?
最も大事にしたい「企業」という言葉が間に入り、言い訳のように「クリエイター」が加えられている、言葉の選択はそんなところでしょう。
そんなことは、「場所を創出」するまでもない、作品自体がその力を持っています。
私が18歳で上京し、最初に東京国立博物館を訪れた時の感動と衝撃は、いまだに忘れません。
長次郎、了入、光琳、乾山、野々村仁清といった陶芸の名品の数々、
光悦の蒔絵硯箱、渡辺崋山の軸、そして、法隆寺館の伎楽面、水瓶、
考古資料の遮光器土偶に火炎土器、銅鐸、銅鏡、…教科書や本でしか見なかったものが、目の前にある、涙が出ました。
しかし、私が感動できたのは、あらかじめの歴史と美術の教育があったからです。
実物を見たい、という渇望があり、そこにあるとは思いもかけず、出会った衝撃は、すでに「作品」自体が持っていました。
小手先の「最先端ミュージアム」なるものよりも、たゆまぬ教育が大事なのです。
文化はcultureであり、cultureとは耕すことです。
「自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる」という言葉は、一見するともっともらしく響きますが、それはどんな実感なのでしょうか。
このミッションステートメントは、生成AIが書いたような、実感のなさがあります。
これを書いたはずの人(たち?)には、どんな未来が見えているのでしょうか。
最先端テクノロジーを駆使した、高画質な複製や、最近はやっている没入型イベント、
疑似的に触れる展示、そんなところでしょうか。
そんなことに予算をつぎ込むなら、修復費にあて、その過程をSNSなどで発信していくほうがよほど健全です。
私には、芝生に変えようとする人間も、それに異を唱える人間も、
結局のところ、本質から離れた浮薄な言い争いをしているように見えています。
博物館の「博」とは「ひろい」という意味ですが、
「恥知らず」は収蔵しなくてもよろしいかと思います。