東京国立博物館が、正面の池を埋め立て、芝生の広場にするという計画を発表し、批判が起きています。

11月11日にプレスリリースが発表されています。

誰もが憩える開かれた前庭に生まれ変わる 東京国立博物館が「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」を発表

 

このプレスリリースに対する批判を受けて、11月19日の「お知らせ」にて、追加する説明が加えられました。

東京国立博物館 - お知らせ 「TOHAKU OPEN PARK PROJECT」についてのご意見を受けまして

 

1、イベントのおかしさ

まず、「お知らせ」には次のように書かれていました。

 

本プロジェクトで構想している前庭は、来館者の憩いの場としての機能を主とするものであり、前庭が常設のイベント会場になることはありません。本構想では、荘厳な本館を望む穏やかな芝生空間を基本とし、イベントについては、これまでと同様に、限られた期間・内容で実施する予定です。

 

「常設のイベント会場」とは、常にステージを造りつけておく、野外音楽堂のようなことをいうのであって、誰もそうしたことは考えていないでしょう。“ことあるごとに”イベントを開き、集客と会場費による収入を当て込んだ構想だということに問題を感じているのです。

この説明を読む限り、「荘厳な本館」に恥じぬ、「限られた期間・内容」で実施すると読めます。しかし、当初のプレスリリースを読めば、そのイベントがふさわしいものかはわかるでしょう。

 

新しくなった前庭を活用して、コンサートやビアガーデンなど様々なイベントを開催するこ とで、新たな東京国立博物館の魅力を発信していきます。

 

実際、東京国立博物館では、「TOHAKUビアテラス」というイベントが開かれています。

しかし、そもそも作品を鑑賞する場として、どうしてビアテラスが必要なのでしょうか。

ヨーロッパの美術館のレストランでは酒が提供されています。しかし、日本人と違って酒に強い人が多く、文化的な嗜みの一部として食事と酒を楽しむ文化的土壌が出来上がっています。

美術館はビアホールではないのです。

そこで飲んだくれた人間が館内に入り、作品を傷つけたりしたらどうする気なのでしょう。

 

東京国立博物館ではいろいろなイベントが行われています。フォトウェディングやテレビドラマ等のロケにも使われています。しかし、博物館は静謐な空間が求められているのです。何事にもほどというものがあります。

 

2、「池」のグランド・デザイン

プレスリリースと「お知らせ」いずれもが、池を芝生に変えることで「東京国立博物館の新たな顔となる開かれた前庭」となるとしています。

しかし、そもそも、正門が「開いている」のは、そこが「出口」だからで、迎え入れる場所として正門は機能していません。その意味で、正門は常に閉じられているのです。

もし、「開かれた」空間をうたうのであれば、正門を「入口」にすべきでしょう。

 

この役割的に閉じられた正門に対して、外部と内部をつなぐのが池の存在です。

上野恩賜公園の噴水広場から正面に見える本館、そして、正門の脇の入口を入ると、真正面に池を通して本館を見ます。

上空からの地図をみればわかるように、池と噴水は直線でつながっています。

いわば上野恩賜公園そのものが東京国立博物館の前庭であるかのようにふるまうべく、設計されているのです。

この池と噴水がいつ、どのような経緯で造られたのかは知りませんが、ふさわしいプランだと思います。

 

そうしたグランド・デザインをもつ空間的連続を断ち切るプロジェクトのどこが「開かれ」ているのでしょうか。

 

3、「憩いの芝生エリア」は博物館の「顔」になるか

完成イメージを見ると、芝生にはくつろいだ様子で座る人たちが描かれています。

しかし、「憩い」とは、言いかえれば「滞留」です。

「くつろぐ」と「だらしなさ」は表裏一体です。

子どもや学生、ファミリー層やシニア層、障害のある方や外 国の方まで、全ての人が快適・安全に、自分らしく過ごせる憩いの場」とはなんというきれいごとでしょうか。

そもそも「自分らしく」とはどういうことなのでしょうか。

「快適」で「安全」であるためには、各人に「節度」が求められます。

「節度をもった自分らしさ」とは「憩い」なのでしょうか。

 

好き勝手に座り、お弁当をひろげたり、大声でしゃべったり、イベントによっては酒を飲んだり、寝そべったりする人々の日常性とだらしなさが、博物館の「顔」たりえるのでしょうか。

 

本館が池に映るのがよい、というのは、平等院鳳凰堂などのイメージと重なるからでしょう。

そうした、歴史性を身近に感じさせることに池は役立っている、それは十分「顔」だといえます。

そして、実は本館よりも、谷口吉郎による東洋館のほうがいっそう池とのバランスがよいのです。

モダニズム建築として、ピロティないし校倉造を思わせる東洋館は、池を通して見ると、浮いて見えてきます。

谷口がそうしたことを意識しないはずがないのです。

 

ちなみに、内側がくぼんだ芝生の空間は、雨が続くととてもではないが座れるものにはならないだろうと思われます。

芝生は水はけがよいからどうにかなるかもしれませんが、中央にある石敷きの部分は水がたまることでしょう。

 

芝生の維持費は、池の維持費と比べて、よほど安価に済むのでしょうか。

いずれ芝生も維持できず、人工芝か土がむき出しになるのではないでしょうか。

 

 

4、芝生にする意味と官僚的思考

いや、実のところ、私個人としては池だろうが芝生だろうがどちらでもよいのです。

歴史上、東京の掘割の多くが埋められてきましたし、日本橋の上に高速道路も走りました。

風景は絶えず人の手によって変化します。

 

しかし、今回の件の背景に透けて見える思考が実に不愉快なのです。

 

2で述べたようなグランド・デザインによるものでないことは明確です。

「開かれた」空間にしたいなら、正門を「出口」ではなく「入口」にすればよいのです。

むしろ、切符をすべてオンラインにし、そうした切符を購入できない人のためのみに対応すべく切符売り場をボックスのかたちで内側に作ればよい。誰でも正門から出入り自由にすればよいのです。しかし、そんなことは書かれていませんでした。

 

芝生にすることで、イベントの集客力をつくりだし、会場料と入場料を得たい、集客による入場者数を増やしたい、という算盤勘定も透けて見えます。

要するに、本当の「誰もが」ではないのです、「入場料を払った誰もが」なのです。

博物館の予算が少ないことはよくわかります、こうしたイベントでどうにかして集客したいのもわかります。

しかし、博物館の本来の目的からは外れています。

 

ではどうしてこんな浮薄な計画をつくるのか。

ここには上野全体を俯瞰してグランド・デザインをするデザイナーがいない。

何がいるかと言えば、天下りした官僚です。

1969年以降、東京国立博物館の館長は一貫して「文部事務次官」だった元官僚が就任しています。

美術や考古学といった博物館収蔵品や研究と何の関係もない履歴の人間が60年近く、常にトップにいて、専門性のかけらもないのにあれこれと命じる、というのは異常です。

 

彼らは政治家や文科省とのパイプ役として必要なのだというのかもしれませんが、

それなら潤沢に予算を取ってくるべきです。

そうはなっていません。

結局のところ、文部事務次官の再就職先として、利用されているにすぎないのです。

 

奈良国立博物館と京都国立博物館はそうではありません。

ほぼ一貫して美術史家や文学研究者が就任しています。

東京国立博物館だけが官僚です。

現館長も前館長もかつて、文科省の天下り人事で処罰を受けたことのある人物です。

それが、うまうまと国立博物館の長の座に収まっている。

 

この芝生広場も、現館長が「自分の功績」として誇示したいのだという目的が透けて見えます。

収集、保存・修復といった博物館の主要な目的ではなく、派手で目に見える「功績」がほしい、館長のメッセージにあるのは、そうした分かりやすい派手さです。

どこにも保存や修復に関する言葉はなく、国際的な連携を、海外での展覧会を、といった分かりやすい「発信性」です。

館長には、学芸員が求めている、収蔵スペースや修復といった地味で目に見えないものは自分の「功績」にならないというのがよく分かっているのでしょう。

分かりやすい官僚的思考です。

 

館長のメッセージには「シロウト館長」と自虐まじりに書いていましたが、

実際、素人だということがよくわかります。

「収集、保存、調査研究、展示、教育」これが博物館法にある博物館の目的だというのは、

博物館学の最初に学ぶことです。

「憩いの広場」や「イベント空間」をつくることが博物館の目的ではありません。

そんなことも分からないのは、自虐するまでもなくド素人であり、恥ずべき存在です。

そういう恥知らずが、50年以上のさばってきたのが、東京国立博物館の不幸です。

 

 

さいごに

しかし、一番不愉快なことはなにかと言えば、

結局のところ計画は覆らず、芝生広場ができあがり、

そして出来上がればわれ先にとそこに行き、その芝生から「映る」写真を撮って得意顔をする人間が多くいるだろうということです。

先日の万博と同じです。

 

そこには展示物に対する感銘や敬意や鑑賞はなく、イベントスペース化した醜い観光地としての博物館があるばかりです。

そうではないはずなのです。

誰でも来られる博物館、それは小さい時から通い、教育プログラムを充実させることに他なりません。

 

私は以前、フィレンツェのウフィッツィ美術館で、20人ほどの小学生が、床に座りながら、ミケランジェロの絵画を前にレクチャーを受けているのを見て、「敵わないな」と舌を巻いた記憶があります。

ウィーンの美術史美術館でも同じ光景をみました。

敬意と親しみをもって作品に向きあう機会をどれだけ増やすか、ということが博物館の使命です。

それが「私たちの博物館」を創ることであり、グランド・ヴィジョンであるべきことです。

作品の前に遠慮なく地面に座り、いろいろな角度から作品を眺め、考える時間をつくること。

必要なのはそういうことです、休憩スペース、イベントスペースの芝生ではありません。

 

開館100周年に向けた「東京国立博物館 2038 ビジョン」は、次のような標語を掲げているそうです。

 

「いにしえから宝物を創ってきた人々の想いを、
いまを生きる力にする」

 

なんというへたくそな日本語でしょうか。

博物館という場の恒久性を考えるなら、少なくとも「いまを生きる」ではなく

「これからを生きる」にすべきでしょう。

そして、このビジョンには「伝える」ということが決定的に欠けています。

「宝物」(これも博物館にはそぐわない言葉)が、今、私たちの目の前にあるのは、誰のおかげなのか。

 

「伝えてきた人々の想いのバトンをつなぐ」、というのなら話はわかります。

しかし、そうではない。

いかにもお役人が好みそうな言葉を並べた結果、博物館の理念と何の関係もない、文法的にも不明瞭な言葉が標語として掲げられたのです。

 

だから、このビジョンには「守っていこう」「伝えていこう」という意思がありません。

もっとも、ビジョンのショートステートメントには次のように書かれています。

 

これまで150年にわたり、いにしえの宝物を守り、受け継いできました。そして、この先は、皆さまと共に未来へとつながる「最先端ミュージアム」を創ってまいりましょう。

 

しかし、150年?この数字は何なのでしょう?

1872年の文部省博物館の開館からの数字でしょうか。

馬鹿を言ってはいけない、奈良・平安時代の「宝物」を1000年、守り受けついできたのは誰だ。

少なくとも文部省博物館以前から所有者や寺社で代々守り継いできた、その延長の博物館だ、という意識があるようには思えない言葉です。

そして、ロードマップには次のようにあります。

 

「多様な人材と専門性強化で、宝物を未来へ」

 

もちろん、保存には専門家が必要です。

しかし、そうではないのです。

日本人が、この日本の美術作品、考古遺物、工芸品を守らねばならない、と自覚するようにすることが最も必要なことなのです。

 

将来、自分たちがこの作品を守っていくのだ、という誇りを生まずして、何が博物館であるものか。

インバウンドや表層的な集客を当て込んだ、見栄えの良いきれいごとを並べ立てる「ビジョン」に、どんなビジョンがあるというのか。

そこには文字通り、「いま」しかないのでしょう。

 

来館者や子どもたち、企業、クリエイターといったさまざまなパートナーと共に、歴史を深く掘り下げ、未来へつなぐ新しい発見や感動を生み出す場所を創出します。ここで出会う、いにしえの人々の想いが、訪れる人の心に「明日へのパワー」を届け、自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる。一そんな好奇心が刺激される場所へ。

 

この「パートナー」の列挙で気になるのは、「来館者」と「子どもたち」は別だということです。

子供たちも来館者ではないのか?

最も大事にしたい「企業」という言葉が間に入り、言い訳のように「クリエイター」が加えられている、言葉の選択はそんなところでしょう。

 

そんなことは、「場所を創出」するまでもない、作品自体がその力を持っています。

私が18歳で上京し、最初に東京国立博物館を訪れた時の感動と衝撃は、いまだに忘れません。

長次郎、了入、光琳、乾山、野々村仁清といった陶芸の名品の数々、

光悦の蒔絵硯箱、渡辺崋山の軸、そして、法隆寺館の伎楽面、水瓶、

考古資料の遮光器土偶に火炎土器、銅鐸、銅鏡、…教科書や本でしか見なかったものが、目の前にある、涙が出ました。

 

しかし、私が感動できたのは、あらかじめの歴史と美術の教育があったからです。

実物を見たい、という渇望があり、そこにあるとは思いもかけず、出会った衝撃は、すでに「作品」自体が持っていました。

 

小手先の「最先端ミュージアム」なるものよりも、たゆまぬ教育が大事なのです。

文化はcultureであり、cultureとは耕すことです。

「自分が彼方から続く悠久の一部だと実感できる」という言葉は、一見するともっともらしく響きますが、それはどんな実感なのでしょうか。

 

このミッションステートメントは、生成AIが書いたような、実感のなさがあります。

これを書いたはずの人(たち?)には、どんな未来が見えているのでしょうか。

最先端テクノロジーを駆使した、高画質な複製や、最近はやっている没入型イベント、

疑似的に触れる展示、そんなところでしょうか。

そんなことに予算をつぎ込むなら、修復費にあて、その過程をSNSなどで発信していくほうがよほど健全です。

 

私には、芝生に変えようとする人間も、それに異を唱える人間も、

結局のところ、本質から離れた浮薄な言い争いをしているように見えています。

 

博物館の「博」とは「ひろい」という意味ですが、

「恥知らず」は収蔵しなくてもよろしいかと思います。

大学の学生レポートについて、生成AIの使用が増えつつあるようで、

私の担当する授業でも、それが原因で何人か単位を落とすことになった。

 

どうやら彼らは、ばれないと思っているらしいのだ。

生成AIの精度が上がってはいるものの、

哀しいかな、人間のほうは賢くはなっていないので、

少し調べたり考えればわかるミスをそのまま提出してくるのである。

 

生成AIに条件を入力して、コピペし、言葉尻と言葉遣いを整えて提出する、

それで、「自分」という存在には何か価値があると言えるのだろうか。

それとも、私に対してのみ、「自分には存在価値がありません」という表明をしたいのだろうか。

私は彼らの人格を否定する資格はもたないので、

彼らはそういう表明をしたいのだと考えることにした。

 

最近は、生成AIかどうかの判定をするソフトがあり、

いちおう、学生のレポートもそれにかけてみると、

3割くらいがAIを使用した可能性が60%を超える。

 

念のため、そのソフトが正当なものかどうか確かめるために、

私が、別の用事で書いた文章をいくつか入れてみたら、

いずれも「15%以下」と出たので、

ある程度の信頼はおけそうである。

(ひとつ事務的に書いた文章を入れたら50%になったので、

ますます信頼できる)

 

学生のレポートでも、これはよく書けているな、と思ったものは、

あとでソフトにかけてみると、やはり「15%以下」になっていたので、

私の目もある程度たしかなものである。

ただし、60%を超えていても、これは本人が書いているな、といるものもある。

ソフトもしょせんはAIによる判定なので、過信してはならない。

 

 

さて、最近の生成AIの文章と構成は、非常に自然なものになってはきている。

しかし、その「くせのなさ」が気持ち悪いのである。

どの対象にも当てはまるような形容詞を当てはめ、

当たり障りのない、ほどよい「いいこと」を理路整然と語っているかに見せかける。

 

読んでいると、はたしてこの執筆者はこの対象を愛しているのか、と問いたくなる。

AIなのだから、「愛」や「面白味」などないに決まっているのである。

変なこだわりもなければ、わだかまるところもない、

ただ通り過ぎていくだけの言葉の羅列にすぎない。

 

60%を超えていても本人が書いている文章、というのはつまるところ、

くせがなく、面白味もない文章ということである。

ただ、それでも人間くささというのはあらわれる。

とにかく期限に間に合わせるべく書かねばいけないが、

まったく書きたくない、という意思は非常によく伝わるのである。

そこにある、内容の空回りや論理の破綻はたしかに「人」のものである。

ただし、やはり点数は低い。

 

 

生成AIは「当たり障りのない」ものには向いている。

また、データを整理するだけなら有効なのだろう。

 

しかし、こと私が相手にしている音楽や文学、芸術に関しては、

まったく生成AIは向いていない。

 

なぜかといえば、ある対象を「よい」というのは、非常に個人的なことだからだ。

「好き/嫌い」という価値判断は、その個人の人生と結びつく。

他者や環境からの影響の積み重ね、生来の志向、そういったものが、おそろしく複雑に結びついている。

ある芸術作品について、感銘を受けたとき、かりに同じような感銘を他者もまた経験するとしても、その何を表現したいのか、またそれを表現するための語彙や言葉遣い、文体は、やはり個人の経験と影響の積み重ねによる。

 

何に対して「好き/嫌い」という判断を下すか、そして、それをどう表現するか、

二重のパスワードが必要なのだといってもよい。

 

少なくとも、今私がここに書いているようなことを生成AIができるとしても、

この文章は書けないのである。

 

だが、私が言っているようなことは、ほとんど価値がないものになりつつある。

大方が好きだというものを好きだといい、大方が言えそうなことを言うことがよい、

そういう画一化が急速に進んでいる。

 

恐ろしいのは、その「画一化」の思考パターンのなかに入り込んでいることである。

つまり、人間が生成AIのようにふるまい始めることである。

それは感動とは真逆の思考と行動である。

 

ネットスラングのひとつに「語彙力」というものがあり、

それはあるものに心を動かされた時に、言葉にしがたいために「語彙力がない」という感動表現である。

「筆舌に尽くしがたい」「絵にも描けない美しさ」のような類の言葉で、

その表現自体はおもしろい。

その一方で、「語彙力」とさえ言えばOKだとなったり、

とくに感動していなくても、みんなが感動するというものに「語彙力」といってみたりする。

 

つまらないと思う。

「語彙力」とは、何かうまいことを言ったようで、要するに思考停止である。

私は頭を使って語彙力の限りを尽くせと言いたい。

もどかしい思いをして、自分の言葉で、自分にしか可能ではない表現で言葉を尽くし、

その感動を伝えようとするべきなのである。

 

どんなに努力したところで、どうせ、それはうまくいかない。

本当に美しいものや心を動かされるものを前にしたとき、

それを言葉にすることは不可能なのは分かり切っている。

 

先日、五色ヶ原で見た夜空を私はどうやって表現したらいいのだろうか。

同じように山の中で素晴らしい星空を見上げた人はたくさんいる。

だが、わが意を得たり、と思える文章に出会ったことはない。

 

しかし、言葉にできないところまで言葉を使わなければ、

筆舌に尽くしがたい、などとは言ってはいけないのである。

 

その徒労じみた努力を続けることが、「個」を生むのであり、

生成AIの「中央値」を外れ、人らしい生き方になる。

 

 

だが、こんなことを言ってみてももう無駄なのだという思いもしてくる。

この文章が意味をもつのは、生成AIに疑問を持つ人に対してであり、

疑問を持っている人は、私に言われるまでもないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

この何年か、ネット上、とくにSNSやニュースのコメントで、

無署名の“正論”がさかんに、いや、異常に増殖しています。

 

北海道でヒグマが出れば、

「すべてのクマを駆除せよ」といったり、「ヒグマがかわいそうだ」といったり、

その市区町村に住んでいるわけでもない人間が、

一理をもって意見を述べる、こんな馬鹿馬鹿しい話はないわけです。

 

また、広島の県知事が核兵器廃絶を訴えれば、

「核の抑止力という現実を理解していない」などというコメントが飛ぶ有様です。

 

なぜ彼らは、大きな顔をして(実際は顔も名前も出さずに)まことしやかな意見を述べるのか。

そして、彼らのいうところの「正論」の正体がなにか、少し考えてみたいと思います。

 

 

彼らに共通するのは、自分の聞きかじりの知識という、

一面性のみで作り上げられた「正しさ」でできているということです。

そこには、実地のものへの想像力が一切欠けています。

 

ヒグマでいえば、ヒグマを見たことも襲われたこともなく、

また、そうしたクマが日常に出没する恐怖を知らないと、

「クマがかわいそうだ、命を何だと思っているのか」という“正論”が登場する。

その一方で、「クマを全滅させろ」という極端な意見は、

上記の「かわいそう」主義に対する、人間至上主義の発露であり、

そこには客観性はない。

 

そこに暮らす人々が、どのようにしてヒグマと折り合いをつけて生きてきたのか、

そして、折り合いをつけようとしているのかを全く無視している。

なぜなら、彼らには関係がないからです。

おそらく、彼らがその地に行くこともなければ、住むこともないでしょう。

 

原爆忌の式典で行った広島県知事の挨拶に対し、

「核抑止力の有効性」という“正論”を吐く人間にあるのは、

自分は世界の軍事について一家言あるという、半端な知識のひけらかしにすぎません。

そのときには、今も世界中で戦禍にあり、身近な人を失い、家を失い、

飢餓に苦しむ人のことを一ミリも考えていないことは明らかです。

 

その原型は、テレビのワイドショーのコメンテーターに求められますが、

(自分の専門でもないことについて、したり顔で話す恥知らずは山ほどいます)

結局、彼らを批判する人たちのコメントをみると、

ようするに彼らもまたコメンテーターになりたいということなのです。

 

誰でもいえるようなことを誰でもいうように言って、感心されたいという

つまらない願望が、その言葉の端々から読み取れます。

「ヒグマがかわいそう」「ヒグマを絶滅させろ」、といった今どき小学生ですら言わない、

幼稚な言辞が飛び交うのは、まさしく「誰でもいえること」の末期症状です。

 

そこには、「一面的な正しさ」を「正しさの総体」として勘違いする、

愚かしさを出発点としています。

 

いかなるものにおいても、ある一面においては正しく、

またある一面においては誤っている、

正しさとはあくまで相対的なものであり、

多面体の中の一平面にすぎません。

 

 

では、ある一面のみをとらえて、それを正しいと思い込む人は、どういう人なのか。

それは以前の私が出会った人にも言えることですが、

自分が評価されていないという屈託を抱えている人です。

自分が適切に評価されている、あるいは評価されないのは自分の努力のいたらないためだ、ということを理解している人は、決して他者に対して攻撃的に“正論”をぶつけないものです。

 

自分に固執すると、周りが見えなくなっていきます。

SNSや、ネットニュースのコメント等によくみられる、

いかにも世間を知っている風のコメントを書き、“正論”を口走る人たちは、

世間や世界を知っているのではなく、

「自分のイメージの中の“世界”」を知っているにすぎないのです。

それは言いかえれば、「思い込みの世界」です。

 

思い込みの世界には、その世界の王様としての自分だけがいるのですから、

王様が言うことはすべて“正論”です。

そこには「現実」はなく、“思い込みの現実”があるばかりです。

 

そうした“正論”に、どのような価値があるというのでしょうか。

これまで、「正論」というのは、「道理にかなった議論」という意味でしたが、

私は、こうした最近の“正論”について、新たな定義を提案しておきたいと思います。

 

“正論”とは正義の空論である、と。

 

 

 

先日、立山から五色ヶ原までテント泊をしにいってきました。

登山、といえるような立派な登山でもないですが、山登りが好きです。

 

30になるころに、なにか運動をしないとこのままでは将来寝たきりになるのではないか、というところから山登りを始めたのですが、何にそこまではまったのかというと、

一度、車山から霧ケ峰まで歩いた時に、遭難しかかったことがきっかけのようです。

山に行きはじめたばかりで、地図ももたず、装備もなく、よくもまあ歩いたものだと、今から思えば愚かにもほどがある。

 

しかし、細い道を覆う圧倒的な笹原の中に立ち、

霧に隠れた笹原の向こうにクマやらなにやらがいはしまいかと、

神経を研ぎ澄ましていた時ほど、自分が「生きている」ということを感じたことはありませんでした。

全身からクラゲの触手のように、神経が張りつめていく感覚、

ようやくそこで、私が文明とか文化とか社会とかによって、

いかに何も考えないで生きているのかを痛感したのです。

 

人間中心の時間を離れること、そこでは人間の時間は無力であるということ、

理は自然の側にあり、人間の側にはないこと。

それを知ったことは、私のこの10年あまりの大きな変化となりました。

 

山が山となるまでの時間、人間の時間でいえば数万年とか10万年という単位を与えるのですが、そんな人間の尺度とは関係のない、山は「山の時間」を生きている。

また、岩は地中深くで作られた「岩の時間」、溶岩が噴き出て固まり風化していく「岩の時間」、そういう彼らの時間があります。

 

木には「木の時間」があり、それも樹種によって異なります。

あるいは同じ樹種でも、生える場所や標高によってその時間感覚は異なるのでしょう。

私たちはうっかり樹齢という、人間のサイクルの中で語るけれども、

そうではなく、彼らにはどのように根と枝をひろげ、葉を繁らし、秋には落葉し、

どうやって生長していくのか、それらは人間の時計の時間とは無縁のプロセスです。

 

高山植物や山野草は、平地の植物、

とくに雑草と呼ばれるような植物とは大きく異なる時間の感覚にしたがって

生きています。

 

私の家の庭はあっという間に雑草がせめぎ合うように生えてくるのですが、

それはススキやブタクサ、アメリカフウロなどの時間です。

しかし、その時間を私たちの生活下で感じることはほとんどありません。

人間の時間が支配的な都会において、彼らのささやかな時間は、

私たちにとっては草むしりの必要を感じさせる、生活時間の一部に還元されてしまいます。

 

しかし、高山植物を見ると、その印象はまるで違います。

立山の天狗平や、私が歩いて行った五色ヶ原に、主役のように生えているのは、

チングルマです。

地面をはうようにして、白い5枚の花弁と黄色の蕊をもった明るく目立つ花が、

すっと花柄をのばして咲く。

あの一帯を覆うように生えるためには、人間からみて非常に長い時間が必要です。

 

彼らは、すぐさま伸びなくても構わない、ただ、枯れなければいい。

枯れずに、じっと10メートル以上の雪の下を耐え、

雪が溶けた瞬間に葉を出し、花を咲かせ、

ほんの少しだけ枝を増やし、根を拡げていく。

そんな営みをずっと繰り返していく。

枯れないことが戦略で、じわじわとひろがっていく。

花を咲かせる慌ただしさと、じっくりと構える二つの時間がチングルマをはじめ、

高山植物の多くには備わっている。

そうして厳しい環境にしぶとく根をおろしている。

 

それらは人間の時間の感覚とはあまりに異なっています。

それぞれの時間が、勝手にそこにありながら、

絶妙に組み合わさり、「今」を作っている。

私は、いつだったか谷川岳の西黒尾根をのぼりながら、

はっきりとその複雑にあわさった音楽のようなものを聴いたのです。

もちろん音楽のような、というのは比喩で、あ、っと世界が広くなったのでした。

 

さて、五色ヶ原から立山に戻る途中、振り返ると、

朝の光の中に前日泊まった五色ヶ原が見えました。

その向こうには薬師岳、三俣蓮華岳、笠ヶ岳、槍ヶ岳、奥穂高、等々、

北アルプスの名峰が鎮座しています。

異なる山容をもった、とてつもなく大きな存在が、

悠然と向かい合っているようでした。

それはまさに、神々が対峙しているようでもあり、

森厳とした世界がひろがっていました。

自分がいる立山もまた、その神のごとき威容の連峰の一部であり、

私はその懐にいるのだという感覚、その恐れというか、喜びというか、

何だかわからない得体のしれない感慨、

それはある時代には信仰だったのだろうと思います。

 

 

そうした感慨を私が感じるのは、

小学校のころに宮沢賢治の作品に出会ったがゆえなのだろうと思います。

『春と修羅』の「序」にある「因果の時間的制約」という言葉は、

この文章の最初に書いた「人間の時間」です。

人間の時間は絶対的な尺度ではなく、

それぞれの存在によって相対的なものであるという「序」の詩行は、

その当時の私には意味がまったくわからないものでしたが、

今ならもう少しわかります。

それは、仏教的な解釈というよりも、もっと身体的な実感なのです。

 

あるいは「岩頸だって岩鐘だって/みんな時間のないころのゆめをみているのだ」

という「雲の信号」の一節、

『狼森と笊森、盗森』に出てくる岩手山と森、

『楢ノ木大学士の野宿』に出てくる岩たちの会話、

宮沢賢治に一貫するのは、そうした、複数形の時間です。

 

20年あまりを経て、私はたぶん、

宮沢賢治が見ていたものに近いものを見ているのだと思います。

複数形の時間が見えるようにしていることが、私にとっては大事なことです。

 

 

人間の社会が、しきりに多様性という言葉を使いながら、

その価値観が単一的、画一的になっているのは、

私たちの社会が、単数形の時間のなかにしかないと思い込んでいるからです。

 

人が単数形の時間のみに生きているかぎり、

多様性などということは望めるはずもなく、ごまかしにすぎません。

それが証拠に、社会はますます生きづらいものになっている。

それは、多様性をものの見方や考え方だと思っているのですが、

そもそもの話、これは「時間」の捉え方の問題なのです。

 

自分の尺度の時間が正しく、腕時計を合わせるように、

どこかにある「正しい時間」と「正しい時の刻み方」の上を歩こうとし、

そこから外れることを極度に嫌い、その正しさのうえに足並みをそろえようとする、

それが文明社会の弊害です。

 

自然のものにそれぞれの「時間」があるように、私たち一個人にすら、

「個の時間」があり、それは他者の時間とは進み具合が異なっている

ということに気づかねばなりません。

 

そんなことは分かっているというかもしれませんが、

「社会の時計」に合わせて生きているうちに、

私たちは容易にそのことを忘れるのです。

宇多田ヒカルが新曲を発表し、その内容に夫婦別姓のことが主張されていることで、

困惑と賛否を呼んでいるというニュースを読みました。

こういう感じで彼女の歌詞が問題視されたのは〈Keep tryin'〉の

「将来、国家公務員だなんて言うな/夢がないなあ」のとき以来でしょうか。

歌にポリティカルに読めるものがあると過剰に反応する、

日本人の(というよりもインターネット上で発言を繰り返す人の)リテラシーの低さが露わになっています。

 

とはいえ、そうやって断じるのも考えものです。

さて、はたしてそこには宇多田ヒカルの思想信条の発露があるのでしょうか。

少し、作品を紐解いてみたいと思います。

 

まず、タイトルにおいて直訳すれば「私の、それともあなたの」となります。

それを英語にしているのは、日本語だと男女の性差が生じることと、

長くなってリズムが悪いことでしょう。

(そもそも宇多田のタイトルには英語が多いということもありますが)

 

この"or"が示す「選択」がこの作品の主題になっています。

歌詞の最初のフレーズは、「僕」の自分に対する反省と失望が歌われます。

そこから類推できるのは、昨日、僕が君に泣かせるようなこと、喧嘩かなにかをした、ということです。

 

その具体的な内容は分かりませんが、

ともかく一人称と二人称が、それぞれあくまで「自分」として生きる、ということを

非常に重視している、ということがリフレインとなっている「君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの」にあらわれています。

 

そして、ここに問題のフレーズが続きます。

 

どの道を選ぼうと

選ばなかった道を失う寂しさとセット

令和何年になったらこの国で

夫婦別姓OKされるんだろう

 

まず、最初の2行をよく読みましょう。

そのままだと分かりにくいので、言いかえると

「ある選択をすると、選択しなかった側に対して心残りがつきまとう」という意味になります。

そして、次の問題発言はどうつながっていると考えるべきなのでしょう。

 

なぜこの2行が挿入されることになるのか。

まず、この2行が彼らの関係に直結する、転喩的な表現ととらえるなら、

二通りの原因が考えられます。

「夫婦同姓で籍を入れることにした」か「別姓でいるために入籍を諦めた」

という内容です。

 

そのどちらかなのか、それともそれ以外の意味があるのかはいったん棚上げにしておきます。

いずれにせよ、次のフレーズにあるように、「冷めたら温めなおせばよい」という

飲み物に紐づけて、仲直りを想像させる隠喩(ないし風喩)になっています。

つまり、語る側の一人称の「僕」は、「君」と仲直りをしようとしている。

そこを確認しておきます。

 

それでもなお、「毎日一緒はしんどいかも」という不安を口にする、

しかし、それは〈Wait & See~リスク~〉や〈Can you keep a secret〉、〈Distance〉など、

宇多田ヒカルの歌詞に共通する「距離」の表現です。

あくまで「君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの」というリフレイン上に表現されるように、

その距離感を守ろうとする自分がいる。

 

その一方で、「君と愛し合うのを愛する I love making love to you」という、

わりとあからさまにセクシャルな表現を用いて、

その距離を縮めようとする。

距離になじんだ自分にとっては、そのボタンを掛けなおす作業は、「恐る恐る」のものなのです。

しかし、それでも掛けなおそうとしている、というところがこのフレーズの意味になります。

 

 

さて、この歌の登場人物たちにおいて一番大きな問題は何か。

それは、恋人ないし夫婦であるにもかかわらず、”I”と”You”でできており、

ずっと”We”が出てこなかったことです。

 

ところが、最後のフレーズになってようやくそれが現れます。

 

自由に慣れれば慣れるほど

不自由だって、どうして誰も

僕らに教えてくれなかったの

君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの

 

撞着語法の表現をまず解きほぐす必要があります。

「自由に慣れるほど不自由である」とはどういうことか。

ひとつの解釈としてありうるのは、「自由でなければならない」という振る舞いを自分に強制することになり、「不自由」な状態を選ぶことができなくなる、という「不自由」です。

 

つまり、「人それぞれ」を厳密に守ろうとすると、「同じ」ということが困難になるということです。

そして、ここではじめて、そういうことをどうして「僕らに」教えてくれなかったのか、と1人称複数形を用いて修辞的疑問(反語)を提示します。

では、彼らはいまどういう心境に至ったのか。

その解釈のひとつは、「自由でいなければならない」というこだわりを捨てることにした、ということです。

 

そうすると、最後のリフレインの意味が変わってきます。

それまでは、「自分の好きなものを飲まなければならない」という、

こだわりの中でそれを飲んできたが、今は、こだわりを捨てた状態になっています。

つまり、これは「僕たち」の選んだことであり、「僕」と「君」がばらばらに選んでいるものではない、という解決への道が見えたサインになっています。

 

そうして見直すなら、先ほどの「令和何年になったら~」という問題のフレーズは、

「夫婦同姓でなければならない/別姓の自由を主張しなければならない」という

選択肢すらも、「こだわり」であることを表現したものになってきます。

 

ですから、同姓とか別姓とかもはやどうでもよく、僕と君が「僕ら」となって一緒の時間を過ごしているのだから、それでいいじゃないか、という歌詞だということです。

コーヒーか緑茶か、そんな好みの違いは些細なもので、いま一緒に飲み物を飲んで、

だらだら話をしている、そのことが大事なんだと。

「自由へのこだわり」を捨て、不自由も含めたさらなる自由にいたる境地に達するまでの過程が描かれた歌だと考えるべきで、夫婦別姓を主張するポリティカルな歌ではないのです。

 

そう考えるなら、タイトルはきわめてアイロニカルな意味を持ちます。

「僕のか君のか」という問いかけ自体が無意味なものだということが、

一曲を通すと明るみになっていく、そういう仕掛けです。

 

そもそもCMソングなのですから、ネガティヴな結論の歌のはずがないのです。

彼女は映画の主題歌であれ、朝ドラの主題歌であれ、常にクライアントの要求するところを鋭敏に察して、そことクリエイターとしての自分の接点を見つけて書き続けてきた人です。

綾鷹のCMです、だから、「一緒に飲もう」というメッセージだと考えるほうが普通ではないですか?

 

これは自己表現である以上に、まず「仕事」が前提なのですから。

 

 

この楽曲の不幸なところは、聴いている人の大半が、

そこまで自我や自由について考えていない、ということです。

大衆的な成功は、大衆の想像力の範疇になければなりません。

しかし、宇多田ヒカルという人は、少し前から大衆的な聴衆を置いてきぼりにする傾向が強くなっています。

 

自分の歌は大衆向けではないと割り切ってしまえばいいものを、

それではよくないと思っているようで、楽曲にちょこちょことクリシェ(常套句)を挟んできます。

この作品でも「自分を大事にできるようになるまで/なんにも守れない」という、

赤面してしまうようなクリシェを挟んできます。

歌詞全体のバランスから見て、完全に浮いてしまっています。

こういう書き方は〈誰かの願いが叶うころ〉あたりから顕著になってきました。

 

「令和何年~」は、次のフレーズによってバランスが保たれていますが、

「自分を大事に~」は、抽象的すぎて前のフレーズのフォローになっておらず、

歌詞として孤立してしまっています。

そのほうが楽曲の質からしてよほど問題が大きいのです。

 

自分という存在と、それを届ける相手との距離の取り方がうまくとれない、

不器用な人だな、という印象は昔からありますが、

この楽曲では、それが悪い方向に受け取られたということなのでしょう。

 

人によっては、彼女に離婚歴があるから、家族の一体感が分からないのだろう、

などと、個人情報にかこつけた口さがない批判をするようです。

 

そういう発言をすればするほど

自分が家族思いだと思ってるだけだって、どうして誰も

彼らに教えてあげなかったの

君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの