緩和ケアへの選択 | 膵臓ガン4b 母を看取るまで

膵臓ガン4b 母を看取るまで

知り合いが膵臓ガンで亡くなった縁で膵臓ガンブログを拝見していましたが、自分の母親が膵臓ガンになってしまいました。2年間、肝転移ありで戦い抜いた母の最期までを記録します。

こんにちは。すみません更新できず。。
母の死が日が経つにつれてどんどん効いてきて。。
また以前より闘病中だったブログの方の訃報、やはり堪えます。
自分の悲しみがシンクロしてしまい。。
ご冥福をお祈りいたします。

緩和ケアを選択したか、そしてもっと標準治療終了後に何かできなかったか改めて考えさせられることがありましたので心を整理するために書きたいと思います。
不快になられた方、また考えの相違などあるかもしれませんが私個人のことなのでご容赦くださいね。

母は元々、違う検査でたまたますい臓ガンが発覚しました。
肝メタの4bですから抗がん剤しかありませんでした。
けれど、パンキャンの相談室に肝メタが1つだけなら焼く方法もあるとアドバイスを頂き都内の外科のセカンドオピニオンに連絡をしました。
けれど母がちょうど検査で膵炎にかかり2週間入院しました。
そのあと肺炎にかかり、初めての抗がん剤のスケジュールがずれたんですね。
その間1ヶ月、その間にCA-19-9は100→360になりました。
アブジェムをdosedownして始めたところ、副作用もしびれ以外なく72才の母がスキップなしで14クールまで受けられました。
抗がん剤で、母は元気な時間が出来たと思っています。

その間肝メタもすい臓も悪させず、ガンと思えない程普通の生活でした。
もちろんその間、肝動注も検討しました。でも、母の生活の質を落としたくなかったのです。母も遠くではなく、近所の病院でゆったり過ごしたいと。

その後肝メタが増えて多発肝転移になります。主治医は、フォルフィリは寝たきりになる、セカンドラインは期待できない、もうBSCに移行した方が良い。と言われたのが昨年の5月です。
それでも、母は生きるのを諦めた訳ではなく、自分体が受け入れられる治療をしたいとの事で、最後の薬、TS-1を選択しました。
全く効かず、マーカーはずっと5月まで200だったのが、10月には20000になりました。
それでも、全く症状もなくご飯も食べられて、血液検査もマーカーと貧血以外は異常なしでした。

そして少しでも長く標準治療をしたいと願って来ましたが、あっという間に今年の2月中旬に黄疸が出て、肝不全に。もう緩和ケアに移行するしかなかったのです。

もっと早くCT撮れば。。とか色々思いはありましたが、死の直前までいつも通りの生活を2年おくれてきた母にこれ以上の治療はさせたくなかったですし、母も死ぬのは怖くないし、でもやることはやってきたから。と嫌がりました。

何より、すい臓ガン、本当に静かに悪くなるともうどうしようもないくらいでした。
1週間前の血液検査も異常なしでも、翌週には余命3週間の宣告。。

母は家でのんびり過ごしたいとはっきり言ったので、緩和ケアへ移行しました。

マーカーからいっていつ何があってもおかしくなかったのですが、牙を向くと凄まじいです。

私も、もっとできることがあっただろうと後悔の毎日です。
説得して、自宅から離れたところで入院させて肝動注させたら良かったとも思います。

でも母はやりきったと思います。
決して病気であっても死を恐れず私たちのために1日でも長く生きようとしてくれた。
一度もケモが辛いと言ったことなかった。先生が休むかと聞いても、元気にやります!と答えていた。脱毛も辛いはずなのに笑いに変えて抜けた毛を写メしていた。
丸山ワクチンも興味を持っていた。一生懸命ギリギリまで、免役を上げる高いサプリメントも飲んでいた。
でもきっと、これ以上は母の体限界だったのだと思います。

旅立たれたカフェオレさんが緩和ケアにうつる前にコメントのやり取りをさせて頂いたときにがあります。なぜ積極的な治療をしないのか、諦めたのかと他のブロ友さんに聞かれていました。その時、「諦めたんじゃないんだよ。そうじゃないんだよ。」って仰っていました。

本当にその通りです。
誰もが、みんな最後まで闘っています。
治療の選択は、きっとそれは人それぞれの価値観や生き方、生活の状況だと思っています。

私自身はもちろん後悔がありますが。。きっと答えは出ない気がします。

母は目標だった2年を過ごし、やりきった、生き抜いた!お疲れ様!と言いたいです。

でもサッカーW杯は見たかったよね。。お母さん。

長文すみませんでした。













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