「サトウさーん、ごはん」 
看護師さんが呼びに来た声で目が覚めた。
横になって雪を見ているうちにうとうとしたらしい。
「デイルームで食べるか、こっちで食べるか、どうする」
「ここで食べます」
「そう。食べたら、薬わたすから、ナースステーションに来てね」

病室の時計を見ると十二時。ちょうど昼食の時間。
起き上がって、手を洗おうと病室を出て洗面所に向かう。洗って、手を拭こうと
した時にタオルを持っていない事に気付いて、どこかに掛かっていないかと
あたりを見回したが、見当たらなかった。

手をぱっぱっと振って水を飛ばし、そのまま部屋に戻る。
ちょうど、看護師さんがトレイに食事をのせて運んで来てくれた。

「よく寝てたねぇ」
「あとで、採血するから。それと血圧はかるよ」
「デイルームにお茶あるから、飲みたかったら汲んでおいで」

私が「あの、預けたお財布、ちょっと貸してほしいんだけど」
と言うと、看護師さんは「なんで?」と聞いた。
「コップ持って来てないの。あと、タオルも。売店に行きたい」
看護師さんは「あぁ」と言って少し間をあけ、答えた。
「売店はないのよ」

「財布はね、病室に置いてない方がいいのよ。出来ればその時計もね、預かるよ。」
私が枕元にはずしておいた腕時計を見ながら、看護師さんは続けた。
病棟は慢性的に物不足で、ちょっとした私物が何でも盗みの対象になるらしい。
「おやつとか、化粧品とか、洗剤。何でも。お金なんて絶対だめ。だから、どうしても
必要なものだけ、部屋に置いときなさい」

聞いて、少し不安になり、一人でいる時部屋にカギをかけていいか、と訊いてみた。
看護師さんは「いいよ、私らは入るときノックするし、寝てたら持ってるカギであけるから」
と答えて、「はい、ごはん食べてね。薬、忘れないで取りにきて」といい部屋を出て行った。

食べ終わって、トレイをさげて、念を押された薬をもらいにナースステーションに向かった。
ナースステーションはデイルームを見渡せる位置にあり、食事の済んだ患者さんたちが
行列して薬をもらうのを待っている。

受け取った薬は、持ち帰らずその場で飲まなければならない。
飲み忘れやオーバードーズを防ぐためだろう。
飲んだら、口をあけて見せて、ちゃんと飲み込んだか看護師が確かめる。

ナースステーションのちょうど正面に、小さくガラスで区切られた喫煙スペースがあった。
入ると、すでに二人、先客がいて食後の一服をふかしている。
壁際に横一列に並んだ椅子の一つに座り、スタンド灰皿にチェーンで繋がれたライターで
タバコに火をつけた。

先客の一人が、「あんた何吸ってんの」と声をかけてきた。
「マルボロ」と言ってタバコの箱を見せると
「そう、私はパーラメントが好き」と言うその人は、ウネザキと名乗った。
「看護師さんに買い物でね、パーラメント頼んでもいつもセブンスターしか買ってきてくれへん。
私ねぇ、あんたと一緒。洋モク好きなんやけど、生意気や、かっこつけとる、ていつも言われるわ」
そう、と、うなづいて相槌をうつとウネザキさんはさらに話しだした。
「昔の彼氏が乗ってた車は、ボルボ」
「見て、これ、くつした。私冷え性で、寝るときも履いてないとだめ」
脈絡なく彼女の話が続く。

「タバコさ、」
「パーメント。家の人に頼んで差し入れしてもらえば」と私が言うと、
ウネザキさんは「高いタバコやし、旦那は買ってくれんよ。面会もたまにしか来んから、無理やわ」
と言い、「ねぇ、マルボロ、一本ちょうだい」と、その時だけ、目をそらして言った。
「私躁鬱なんやわ。退院した事もあるけど、すぐにここに戻らされる。戻ってくると、おかえりぃ言われて。
家に戻ったときは誰もおかえりぃなんて言わんのにね」
「ねぇ、もう一本タバコちょうだい」吸い終えてすぐ、ウネザキさんがまた言った。

「もうだめやよ。吸いすぎ、ウネちゃん」
奥に居た女の人が、ウネザキさんにそう言うと、ウネザキさんは「あぁ!」と甲高い声を出した。
私は驚いて、取り出そうとしていたもう一本を箱に戻しながら、奥に居る女性とウネザキさんの
顔を交互に眺めていた。
「あぁ!あぁ!わかったよもう。うるさい、うるさい」
気分を害した様子でウネザキさんは喫煙スペースから出て行った。
まだ驚いた顔のままの私を見て、奥の女性は「あなた、大丈夫やからね」と言った。

「私も先週ここに来たばっかり。頭おかしい人ばっかりで、はじめは怖かったけどね、大丈夫。」
「本当、びっくりするわねぇ、あんなん言われたら」言いながら、女性はにこっと笑い、私はそれで
少しほっとした。

40代半ばに見える、細くて、綺麗な顔立ちのその女性はクシダさんと言った。
肩まで伸びたストレートの髪は落ち着いた茶の色にブリーチされていて、着ているパジャマは
フェンディのロゴが入っていて、見るからにお金持ちの奥さんという雰囲気だった。

私と同じ、スズキ先生に診てもらっていて、私と同じく休養入院という名目でここに来たと言う。
スズキ先生は私が当時住んでいた市内で心療内科を開いていた。そこには入院の設備がなくて、
先生が診ている患者に入院の措置をとるときは、隣の市にあるこの病院の院長を頼り、
病室を貸してもらう事になっているようだった。

お互い簡単に自己紹介をして、また、たまにここで話そう、ということになった。
「サトウさん、仲良くしてね」「うん。ありがとう。こちらこそよろしく」

はぁ。
自分の病室に戻ると、大きな溜息が出た。ここにいるのがウネザキさんのような患者さんばかり
だとしたら、話に付き合うだけで疲れてしまう。個室で良かった、とつくづく思った。

窓の外を見るとまだ雪が降っていて、さっき眠る前に見た時よりずいぶん積もりだしている。
病室は空調が効いていて暖かい。暖かい部屋で、出かける必要もなく、外の雪を眺めるのは
心地が良い。
窓を開けて雪を眺めてみよう、と思い立ち、開けようとしたら十センチくらいのところで止まった。
それ以上はどれだけ力を入れても開かない。

TVやなんかで見たいわゆる精神病院では、窓に鉄の柵がかかっていた。
ここは、柵をつけるかわりに窓を開けられなくしているんだな。

病棟の出入り口には鍵のかかったガラスの扉。
病室の窓は十センチ開くところでロック。
廊下に出て、突き当たりにあるドアのノブをまわしてみた。当然開かない。

外から誰も入っては来れないし、誰も、外に出て行けない。
私は、閉鎖病棟、かぁ…、と改めて感心して、非日常的な今の環境を少し愉快に思った。
「それじゃ、お部屋に行きましょうか」看護師さんについて、エレベーターに乗り、上がっていく。
病室のある階につくと、広い廊下とナースステーションの横に大きな観音開きのガラス戸がある。
看護師さんは私の持ってきた荷物を持ったままナースステーションに入り、荷物をそこに
おいてカギを持って出てきた。
ガラス戸にはカギがかかっていて、扉の向こうに、患者さんらしき人が数人、立ち止まってこちらを
向いているのが見えた。カギが開けられ、中に通される。デイルームには人が数人いた。

「こんにちは」
患者さんの一人が声をかけてきた。髪の短い、目のぱっちりした女の人だった。
私が返事をせずに通り過ぎようとすると、それを大して気にする様子でもなく、体操をはじめた。
おむつでズボンを膨らませた年配の女性が、ティッシュの箱を抱えて小走りに走っている。

病室に案内してもらい、「少し、待っててください」と言い看護師さんが部屋を出て行くと、
夫が「なんや…キチガイの病院やな」とひとりごちた。
私は、ベッドに腰かけて、はいているスリッパに描かれている小さなウサギを見ていた。
南天の実と葉で目と耳をかたどった雪のウサギ。

5分ほどして、さっきの看護師さんが病室に戻ってきた。
ナースステーションの隣の応接室で、夫と二人、入院の際の注意などの説明を受ける。
「入院してはじめの一週間は、面会、電話、外出はできません」
「男性と女性は階で分けられていて、ここは女性の病棟なんですよ」
「決まった時間に薬を飲んで、あとはゆっくり過ごしてくださいね」
説明を聞きながら夫は「はい」「はい」と手短に答えていく。

「荷物、調べますからカバンから全部出してください」と言われ、着替えや洗面道具を
テーブルの上に出して並べていく。
かみそり、ライター、つめきりといった「凶器になるおそれのあるもの」はすべてナース
ステーションに預ける事になる。財布や携帯電話も、病室には持ち込めないとのこと。

「よろしくおねがいします」
夫は頭をさげて、応接室の奥にある、廊下につながっているらしい扉から出て行き、
私は手前の扉から病棟に戻った。

病室でパジャマに着替えて、ベッドで横になる。荷物の片付けは、後回しでいいや。
横になると、窓からは空しか見えない。一面、ぶ厚い雲。
雷がゴロゴロ鳴ったかと思うと、大粒のあられが落ちてきて、カツ、カツ、と音を立てて
窓にあたる。バラバラと乱暴に落ちるあられがふとやんで、静かになる。
雪が降るんだ。