通州事件・戦前の中国人による日本人虐殺に関する米人記者の文章
この本↓から、通州事件に関する部分を書き起こしました。
中国の戦争宣伝の内幕(アマゾンでググってくれ)
「通州事件」については、コミュがありますので、こちらに詳しいです。
<通州事件 昭和12年7月29日コミュニティ>
「中国の戦争宣伝の内幕」フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著/田中秀雄訳 より (一部を抜き出して書き起こし)
日本との戦争に同意したという西安とモスクワからのニュースを歓迎していた。
後に南京に帰ってきた蒋介石によって戦争は延期されることになり、今度はその言葉は彼らの怒りと不信で迎えられた。
彼らのリーダーの幾人かは南京政府で信用を得ていた。
彼らは蒋介石の大軍での日本を打ち負かすには充分ではない、
結果として戦争は延期するしかないと警告とともに説得された。
南京政府は彼ら数千名を数える若い共産主義者やモスクワの赤軍宣伝大学で
訓練と教育を受けた数百名に、実際の戦争の代わりに、
さらに一層大衆に反日キャンペーンをするように求め、結局は始まることになる日本との戦争に備えるように説得した。
しかし若い共産主義者は血が熱く敵意に燃えていた。すぐさま戦争を要求した。
軍閥の大軍隊が行進し教練をやっている。
都会の警察は夜に銃剣訓練をしているではないか?
これは血と復讐の栄誉の日、金持が貧者にされ、貧者が金持になるその日を欺こうとするトリックではないのか。
町からソビエトの旗が一掃されるのだと彼らは考えた。
「よし分かった」彼らは結論づけた。
もし蒋介石が言い逃れするなら、自分たちを騙そうとするなら、
自分たちの手で事件を起こし、戦争にしてやる、日本を戦争に引き込んで見せると。
実行するのは簡単だった。
中国には他国の人々と共に、万を数える日本国民が住んでいた。
そのほとんどは孤立していた。
中国人の町に妻や子と一緒に市民として暮らしていた。
軍隊に保護されてもいなかった。
商人や貿易業者は近づきやすく、逃げるのも簡単だ。
中国では外国人が殺され続けてきた。
目新しいことではなかった。
再び起きてもおかしくない。
おまけに日本人の男や女、子供たちは他の国から人気が悪くなっていた。
マスクワやヨーロッパのある国々による熟練したプロパガンダのためである。
その中に特に一国は中国に大きな利害関係があり、日本の商業的台頭を恐れていたのだ。
他の国民は後で始末してやる。
中国共産党はまず日本人を血祭りに挙げることに決めた。
もし日本人がニ三千名殺されたとして、誰が対応するのだ。
虐殺は日本を激昂させるだろう。
自国民を殺されて行動を起こさない国はない。
面目は立たない。
日本人虐殺は日本との戦争となるだろう。
蒋介石も戦わざるを得なくなる。
そしてまた、蒋介石は南京で新たに軍隊を狂熱的に作り直そうとしていた。
そしてこれによって中国中にさらに大きなスケールでの日本人男女、子供の虐殺が始まることになった。
これには朝鮮人も含まれる。防禦方法を持たない無辜の日本人たちは、
家で、店で屠殺され、町や村の街路で暴徒に殺された。
数え切れない多数の日本人、朝鮮人たちがこうして死んだ。孤立したコミュニティで殺されていく。
P33~P35
■通州事件
私が住んでいた北支の百五十マイル以内のところに、二百名の男女、
子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
二十名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、
子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。
それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。
そして一日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。
ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、
ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。
多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
水は彼らの血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。
これは通州のことである。
古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されることだろう。
この血まみれの事件に三百八十人の日本人が巻き込まれた。
しかし百二十人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。
この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって二十四時間以内に死んだのだが、
責め苦の中で死んでいったのだ。
中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、
彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。
セオドア・ルーズベルト・ジュニア夫人は中国から帰ってきて、
『サタデー・イヴニング・ポスト』(一九三十七年十月二十一日号)に、中国人の品行問題について、啓発的意見を述べている。
「……突然私たちは叫び声を聞いた。それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
私たちの直ぐ下で、一塊の群集が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、五人の日本人を追っていた。
四人はうまくバスの中に逃げ込んだ。
奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
一人がよろけて落ちた。
彼らはそこに襲いかかった。
それから彼は血だらけになるまで蹴られた。
殴られた。踏みつけられた。
肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。
そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点から
鞭を持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。
それから救急車を呼んだ。暴徒がまた集まってきた。明らかにやり返しに来たのだ。
私はあの日本人が死んでいると確信した。しかし担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た」
P35~37
■日本にいる中国人は安全である
こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む六万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
危険や恐怖など何も知らない表情だった。
かたや中国では、かの国人が暴徒と化して、日本人の子供を好きなように捕まえていたのである。
東洋的微笑の中で我々のように暮らし旅した者は、
「日本人の残忍さと非人間性、それに較べて貧しき中国人の平和な人間性とはいかに違うものか」と聞くことがある。
通州で無辜の日本人たちを虐殺したまさしくその中国兵たちが、
捕虜になったときは日本軍によって給養され、「罪を憎んで人を憎まず」のサムライ精神によって、
「もうああいうことをしてはいけない。さあ行け」と説かれていたのである。
日本軍の将官は虐殺の罪を無知な兵隊に帰するのではなく、
南京の軍閥やモスクワ、無知な耳に叩き込まれた反日宣伝のせいだとしたのである。
世界はこれらの非道行為を知らない。
もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。
そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。
しかし日本人は宣伝が下手である。
商業や戦争において、西洋諸国のような方法を取ることに熟達していたとしても、
日本人は自らの敵が世界で最強のプロパガンダ勢力であることにもかかわらず、宣伝を無視するだろう。
中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐに動かない。
彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されたことが分かっていた。
また西洋諸国が日本を世界貿易市場から締め出した以上、
北支との間でビジネスをしなければならないことが分かっていた。
率直に言って、中国とは戦争をしたくはなかったのである。
中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に絡め取られていることも分っていた。
しかしそれでも中国の人々とは戦争をしたくはなかったのである。
なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。
日本は南京とモスクワを真剣に観察していた。
まずソビエトの国内がぐらついているのを知った。
共産主義と第三インターナショナルは時がくれば自壊するだろうと。
蒋介石とその統治が中国人に人気がないことも知った。
彼らは蒋介石とその将軍たちが外国に資産を蓄えていることを知っており、
時が来れば、愛想づかしている彼らに代わって新しい指導者についていくだろうと。
その指導者というのは日本のように共産主義に反対し、北支に日本のために貿易を開始してくれる人物である。
P37~38
■盧溝橋事件
日本人虐殺は続いていた。
掠奪、殺人が継続した。そして盧溝橋で日本軍が銃撃された。
中国共産主義者がこれをやった。火をつけて引火させたのだ。
というのも日本軍の軍服は天皇を表象する聖なるもので、
日本人は深く永遠なる愛で天皇を仰募していたからだ。つまり心の中にある火が大きく燃え上がったのだ。
日本は今度は迅速に対応した。
共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟していた北京市民は、日本との門が開かれたことを喜んだ。
彼らは蒋介石の北京抹消計画を知っていた。
また世界では知られておらず、中国人は皆知りたがっていたことだが、
蒋介石はモスクワの共産主義と平和協定を結んでいたということも知った。
中国共産党は権力の座に昇ろうとしていたのだ。
中国共産党は蒋介石を日本と戦わせようとし、戦争に引きずり込んだ。
思ったとおりになった。しかし北支の市民はこれらの共産主義者に抵抗した。
町が共産主義者に乗っ取られたならば、南京に屈従しなければいけないし、
反日軍閥に救いを求めねばならない羽目になるのだ。
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(以上、転載)
戦勝国や反日サヨク(特ア)だけでなく、彼らに影響されている(というか、彼らの政治プロパガンダに騙されている)人たちは、
「日本(軍)は、日本人保護の“名目”で、中国に進出した」
「だが、実際は、侵略が目的だった」
と知ったかぶって言いますが、
それは無知だからです。
これ、そういう人をバカにしているつもりじゃなくて、自分自身のことです。
私は、戦前・戦後の情報工作とも知らず、本当にそう思っていました。
ですが、当時は実際に、中国大陸に進出していた日本人、
例えば日本企業の関係者や家族といった民間人が、多数、
しかも人語を絶するような惨たらしい殺され方で、殺害されていたのです。
(※参考)
【ttp://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1】
【ttp://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1】
【ttp://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1】
【ttp://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1】
【ttp://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1】
【ttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html】
進出していたのは日本よりも欧米が先で、別に日本人・日本企業・日本政府が特別なことをしていたわけではありません。
欧米人も中国人の襲撃で虐殺されていて、自国民保護のために軍隊を駐屯させていたのは、他の国もでした。
当時の中国というか支那の人たちは、国民党や共産党や軍閥、匪賊等の勢力が入り混じっていたようですが、
日本人をこんな目に遭わせておきながら、「残虐非道な日本人にいじめられるかわいそうな中国人」という、
まったくアベコベの宣伝を世界中に広めていました。
欧米の一般の人たちは、そのウソ宣伝を信じていたのです。そして、未だにそれは修正されていません。
だから、「南京大虐殺」の捏造のようなことを信じてしまう人がいるのではないでしょうか。
こういった宣伝は今現在も続いています。
それを、当の日本人がすっかり騙されて信じていて(←中には確信犯もいると思われますが、
そうでない人のほうが多いのではないかと思います)、しかも海外に自ら吹聴する人まで多数いるのですから、最悪です(><)
いろいろなことを、知って、機会があったら知らない人に教えられるようにしましょう。
自分が知識足りなくてクチコミも下手なのに偉そうなことを書いちゃってますが、
一人でも「騙されたままの日本人」を減らして(自分自身を含む)、
「知っている」「気付いている」人が多い状態にこの日本がならないと、
マスコミ等の反日サヨクはウソの宣伝を止めません。
「それ、違うよ」という人が増えないと。
書き起こしご苦労様です。
日本人を悪逆非道のように宣伝したのは、大陸で布教活動をしていたプロテスタント宣教師の布教目的もあるそうですね。
蒋介石もプロテスタントだったというんですから、目から鱗です。
でも蒋介石が毛沢東に負けた事で、結局は大陸から追い出されたんですから、神は見ているということでしょう。
はじめまして。
アメリカ人の目撃者が居た事実を、初めて知りました。
また、セオドア・ルーズベルト・ジュニア夫人が、中国共産党の残虐さを、新聞で伝えているという事実も知りませんでした。
それでいて、ルーズベルト大統領は、中国共産党と手を組んでいますが、そこのところ、よく理解できません。
一人でも、多くの日本人、また、騙されている世界の人々にこの事実を知ってもらいたいと思いました。
これの日記を紹介しても、いいですか?
どなたか、これをYuTubeで見やすくした英語版で世界に発信できない
ものでしょうが。
自分が出来ればよいのですが、すっかりアナログ派なもので、どうして
良いかわかりません。
そう思います。 **************************************
第2章 西安事件と頻発する日本人虐殺事件(P25~P38)
P31~P33
■共産主義者、日本を挑発 さあ、中国では若い共産党員が、蒋介石が誘拐されてソビエトのコントロール下に置かれ、