【昭和天皇の発言・エピソード集】

蛤の非礼な発言には怒り心頭、見つけたら蹴り飛ばして髪の毛引きちぎります!

共産党なんかは「天皇制打倒による日本民衆の解放が目的」とかで毎度ボイコットしてますけど、

全く望んでいませんので勝手にしてください。


皇室が特権階級で、「平等」の思想に沿わないから革命には邪魔なんですねw

皇室は関係ないんじゃないか?
そもそも、天皇陛下は国民に何も押し付けていない。国が決めたことに従って、国民と共にいる。

皇室や天皇陛下についての日記を書こうとしているのですが、

何だかバタバタ私用が続いていて、思うように事が進まない(´;ω;`)
エピソード集は今上天皇、皇后陛下と調べて続けてみようかな?と思っています。

ちなみに信子様(寬仁殿下の妃)は麻生閣下の妹君ですよね。地味に凄いと思うんですが(・∀・;)


【昭和天皇の発言・エピソード集】


■ 異様なカリスマ性
米大統領・フォードは帝の謁見を受け、体の震えが止まらなかったと回想。

中国の指導者・鄧小平は帝の前で体が震えっぱなしだったと侍従が証言。

■ 付き人「あれは雑草です」 昭和天皇「雑草というものはありません」
「雑草というのは人間のエゴでつけている呼び名でかわいそうだ」
後日、発言の理由を説明なされました。


■ 好きな食べ物は、おそばとうなぎの蒲焼でした。
ふぐフグを食べさせてもらえなかったのを生涯とても残念がられていたそうです。


■ 乃木希典大将が陛下へ語ったこと。
「殿下ははどうやって学校に来られますか」「馬車で来ます」「これからは雨の日でも歩いてきてください」

その日から、親王はどのような時も歩いて登校するようになった。

 「穴が開いた服を着ているのはよくないことですが、つぎはぎをあてるのは恥ずかしいことではありません。

穴が開いたらつぎはぎをあてて着てください」


※1912年(大正元年)9月9日(他説あり)、乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、

自ら写本した『中朝事実』を与えた。

乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、

そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。

9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。


※『中朝事実』―山鹿素行―
中華思想に反論、昭和天皇尊皇思想の歴史書。
日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。

支那は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。




■ 戦時中、爆撃で御住居が燃え落ち、昭和19('44)年から、皇居内「御文庫」という処に仮住まいなされた。
ここの湿気が強烈だというのだが、驚くべきことに
昭和天皇・皇太后は、戦争が終結して昭和36(1961)年までこの仮住まいから引っ越さなかったという。


「日当たりのいい風通しのいいお住居を造らせていただきたいのですが」

昭和26年頃だが、陛下はこう言って拒否される。

「世の中には住む家の無い人もあるのに、私にはこれだけのものがあるのだから。」

「湿気ると言っても、印象だけでは問題にならない。数学的な根拠を示さなければ。」

侍従たちは、・・専門家に見せて計器を設置し、一年間データを取ったら、やはり最悪だと結果がでた。

そこで修理することになったが、屋根裏からは3立方メートルくらいのところから、ドラム缶二杯半の水が出たという。

昭和28年頃から、対外的にはやはり新宮殿が必要だという話が持ち上がったが、

・・だが「公事」と違って「私事」だから、陛下は気が進まない。政府は何度も新居へ移るよう勧めるが・・


「みなが空襲や引き揚げで住むところも無く苦労しているのに、自分だけそうするわけにはいかない。」


昭和天皇は・皇后はなんと皇太子の御成婚の後まで「御文庫」に住まわれ、

昭和36年12月に、やっと新たに建てられた吹上御所に移られたのである。


そのとき仰られた言葉が泣かせる。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」

かぎざきをつくろっていたのが出てくる始末。


「ぜひご新調になるように。アメリカ人なんかも見ておりますから。」

「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、

日本は負けてみんな着るものもなくてこまっているじゃあないか。」

「洋服なんか作る気になれない。」

「あんな古い洋服を着ておられては、我々の肩身が狭くて困るのです。」

「ふうむ・・」「そんなに言うなら、少し作ろう。」


こうして作った二、三着の背広を非常に大切にされ、晴れがましい客に会うときに着るようにされたという。

客との会見が済んで部屋に戻ったら早くも上着を脱いでしまわれる。

これは国民の肩身を狭くしないために作った洋服だから、そういう時のために綺麗にとっておかなくてはというお気持ちだったという。



■ 全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後長らく

アメリカ軍の占領下にあり、返還後も1975年(昭和50年)の皇太子訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、

ついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。


■ 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。

学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、

裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。

教師が理由を聞くと、「おじじ様の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという


■ 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として

「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。


■ 1949年(昭和24年)5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では、

天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、

一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。

天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、

長い年月の苦労を労った。

同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい?」と言い落涙した。

別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。


■ 巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。

この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。


■ 香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(久邇宮家出身の女王であることに因む)。

一方、皇后は昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。夫婦仲は円満であった。

結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。


■ はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と拒否した。

側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも

「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。

また、皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという。


■ 香淳皇后の老いの兆候が顕著になった後も「皇后のペースに合わせる」等と皇后を気遣っており、

1987年(昭和62年)9月に行われた天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」であった。


■ 1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見

[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?

[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。

しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。

私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。



■ 最後に・・・、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議での昭和天皇異例の聖断

(会議がメチャクチャになり、結論が出なかったため。) 

※ポツダム宣言※


参考URL 【ttp://www.infosnow.ne.jp/~sevas/adult/japan/japan2.html】


1.世界征服を企んだ戦争責任者は消しまーす。(ホントに書いてある)
2.武装解除&新体制ができるまで日本を占領しまーす。
3.この戦争前に手に入れた土地も返しなさーい。(なんでや?)
4.武装解除するなら兵隊は普通の生活に戻っていいですよん。
5.戦争犯罪人には罰を与えまーす。
6.降伏すりゃ経済活動や貿易も許可するよん。(軍事関係除く)
7.ちゃんとした新体制が出来たら占領をやめて帰りまーす。
8.この要求を飲まないと、速攻かつ徹底的にぶっ潰します。


世界人類の不幸を招くのは私の欲していないところである。

私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。

今となってはひとりでも多くの国民に生き残ってもらって、

その人たちに将来再び立ち上がってもらうほか道はない。


もちろん、忠勇たる軍隊を武力解除し、また昨日までの忠勤を励んでくれたものを

戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。

しかし今日は忍び難きをしのばねばならぬときと思う。

明治天皇の三国干渉の際のお心持ちを偲び奉り、私は涙をのんでポツダム宣言受諾に賛成する。―


後の昭和天皇回想ではこう仰せています。



『当時の私の決心は第一に、このままでは日本民族は滅びて終ふ、私は赤子を保護することができない。

第二には国体護持の事』

『敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱海両神社は直ちに敵の制圧化に入り、

神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。
これでは国体護持は難しい。
故にこの際、私の一身は犠牲にしても講話をせねばならぬと思った。』

                       

―昭和天皇独白録―


今の日本があるのは天皇陛下と共に、国民が頑張ったからなんですよね?





>>5 栄太郎さん

昭和天皇は沖縄のことはずっと気にかけていたということです。

沖縄の人たちは陛下が沖縄の日本主権を基本に、租借方式で沖縄にアメリカを置いたことについて

様々な思いがあると思いますが、陛下ご自身は沖縄を切り離すことはお考えではなかったはずで、

当時の状況で沖縄の本土復帰をいつか果たすにははそれしかなかったとのことでした。


後に沖縄が本土復帰を果たす講和条約の内容は、陛下がお考えになったものと

ほとんど一緒であったことを考えると、昭和天皇はやっぱり普通のお人ではなかったと思う(・∀・;)

ただ、沢山の我慢をさせてしまっていることは十分に分かっていたからこそ沖縄に行きたかったんでしょうね・・・





非常に興味が沸きました、いろいろな情報が錯綜する中これを読んで「そうだったのか!」と

すぐに言うことはできませんが、自分でも調べてみたいと思いました。

恐らくこれが「日本人」の目指すべき「日本人」なのですね…。いえ「人間の鏡」です。

人は誰しも年齢に寄らず、心のよりどころ、憧れるもの(今で言うヒーロー)が必要で、

昔の日本人にとっては、まさに天皇様がそうであったのですね。

だから昔はそれに見習い、素晴らしい心を持つ人が多かった…と言われてきたのでしょう。


だから今、真のヒーローを見失った日本人たちは、まやかされて野蛮人になってしまっている、非常に嘆かわしいことです。





この天皇陛下がおられる日本を残してくれただけで、日本は勝ったと思うべきだと思うがね。


今日を慈しみ、明日を、その先もずっと日本が日本で居られるよういつも祈られてるのでありましょう。

どうか永くお健やかにこの国をお守りくださり、天皇陛下が陛下でありますよう、心からお祈り申し上げます。




あー…まじ筆技が使えたらいいよな。

枯れ木に花を咲かせられるんだぜ、いいよな。




―それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である。

空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、



『昭和天皇論』小林よしのり著 『終章 御文庫から』P.329~P.333


※アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。


■ 昭和天皇は、・・昭和10年頃から背広を新調していなかった。

そのため終戦後は、十年以上前に作った背広を着て、22年の夏の東北巡幸では、