「小説渋沢栄一」第7回

明治4年(1871)6月に、栄一は合本組織と殖産興業の発展を必要とする由縁を表した「立会略則」(りっかいりゃくそく)と、福地源一郎に翻訳させた銀行論「会社弁」を大蔵省から発行しました。

「立会略速」で栄一は旧幕時代、士農工商として、社会の最下層に置かれ、不当な扱いを受けてきた商人の奮起と自覚を促しました。

商業を発展させるためには、取引の当事者が、己一人の私論にこだわらず、心を合
わせ、互いの立場を理解し合うようつとめるべきであると説いています。

また、合本組織(株式会社)には通商会社と為替会社が必要であると説きます。

通商会社とは今の会社の事であり、為替会社は銀行の事です。

明治4年11月、岩倉具視を全権大使とし、伊藤博文、大久保利通ら48人からなる使節団が、欧米各国に派遣されました。

津田梅子もその中にいたのですね。

留守中の大蔵省の実権を握っていたのは、井上馨でした。

しかし、政府部内は、西欧の文明科学を採用し、先進諸国に追いつこうとする文治派と、

国粋主義を貫こうとする武断派が対立していました。

各省からの経費の要求額は激増し、文治派の井上と武断派との関係は厳しくなるばかりでした。

明治5年4月、栄一は井上と共に、太陰暦を太陽暦に改めることを建議し、政府はこ
れを採用することになりました。

このように、大蔵省では重要な業務を続々と胥吏し、その権限は強大になっていきました。

各省から不平の声が高まってきたのは、井上らの業績に対する嫉妬心からでもあったようです。

明治5年9月12日、東京横浜間の鉄道が竣工し、天皇陛下の燐鉱(りんこう「その場に臨まれること」)を仰ぎ、盛大な祝賀の式が行われました。

十両の列車が発車の時、国旗を掲げ雅楽が奏され、百発以上の祝砲が発射されました。


第六車に乗り合わせていた栄一は、かつて、マルセイユからパリまで、初めて汽車に乗った時の感動をよみがえらせていました。


さて栄一は、国立銀行条例を公布する準備を進めていました。

国立銀行はアメリカの制度に倣い、紙幣発行の特権を持つ銀行としました。

国立銀行を設立するとはいうものの、大蔵省内の管理たちは、栄一を初め銀行業務についての知識が全くありません。

そこで栄一は、横浜東陽銀行の書記をしていたイギリス人、アレクサンダー・アー連・シャンドから簿記を習いました。

各省の大蔵省に対する不満は、その後も増すばかりでした。

財政経済を理解するものは一人もおらず、大蔵省の主張を聞かず、盛んに経費の乱費を続けたので、ついに、井上の堪忍袋が破裂して、彼は辞表を提出しました。明治6年5月3日のことでした。

栄一も、これはとてもやっていけないと思い、井上に続いて、明くる日の4日に辞表を提出したのでした。


明治6年6月11日、第一国立銀行の創立総会が開かれました。

社名の命名者である渋沢栄一は日本における近代金融機関の生みの親として出席しました。


三井(みつい)、小野両組が、共同出資に踏み切って設立したものです。そして、栄一は総監役として、銀行の運営を掌中に握る実力者とならなければならなかったのでした。

栄一はこの時、34歳でした。


しかし、1875年に、小野組が破綻(はたん)し、その後の経営危機にあたり、栄一は頭取(とうどり)に就任しました。
(続く)

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小説渋沢栄一

津本 陽[著]

幻冬舎 2007年2月