「小説渋沢栄一」第6回
明治3年10月、栄一は富岡製糸場事務主任に任命されました。
栄一がフランス滞在中に、リヨンで見た紡績工場と同様の大製糸工場を、上州富岡村に建設する計画が進められていたのがいよいよ実施と決まったのです。
富岡製糸場は、約1万6千坪の敷地に、ヨーロッパ風の設備を整えていました。
敷地の選定に当たったのはフランス人技師、ブリューナーでした。
工場内では蒸気が沸騰し、機械運転の響きがごうごうと、まるで大波が砕けるようです。
釜の中から蒸気がもうもうと立ち込め、互いの顔を確かめるのも難しく、声も聴こえず、耳元に口を寄せて、大声で話さなければ、意を通じることができないほどでした。
建坪300坪の大工場は、レンガ造りでとても堅牢でした。
操業を始めると、高さ十数メートルの煙突から、もうもうと黒煙が上がり、その熱によって数えきれないほどの機械を、疾風(しっぷう)のように運転するのでした。
この様子を見た者は、恐ろしさのあまり唇を震わせ、
「これはキリシタンの魔法に違いない。工場お雇いの異人どもは、年若い工女を工場に入れているが、かわいそうにその娘たちは、彼らに生き血を絞られて息の根を絶たれるそうだ」と言うような、妙な噂が広まり、操業当初は工女が集まらず、苦労もあったようですが、明治5年頃には工女の数も400人を超え、そのうち、海外では富岡製糸場で生産した絹糸が、極めて上質であると評判になり注文が殺到するようになりました。
さて、栄一は伊藤博文や、大隈重信らと共に、大阪造幣局に出張した時、地元の商人たちと接触しました。
大阪の商業は繁盛していましたが、商人の官僚に対する卑屈な態度は維新前と全く変わりませんでした。
これでは到底、日本の商業を改良進歩させることはできないと考えた栄一は、自分が官界を退き、商業界に身をゆだね、率先して一大進歩を与えたいと大隈に願いました。
しかし大隈は、「すぐに君の辞職を聞き届ければ、大蔵省の事務に甚だ差し支えが起きるので、今少し見合わせてもらいたい」と反対しました。
明治4年7月、大久保利通が大蔵省の長官となり、井上馨が実務を担当することになりました。
栄一は、大久保から諮問会議に呼ばれ、陸海軍の経費についての意見を求められました。形式は諮問でありましたが、陸海軍の経費を千五十万円と政府で決定したので、異議はないだろうな、と言うような高圧的なものでした。
大久保は政府部内で恐れられていて、面と向かって彼に意見を述べる者は誰もいませんでした。
しかし栄一は、この件については率直に反対の意向を述べておかなければならないと思い、発言しました。
「入るをはかり、出をなす(いるをはかり、いずるをなす)という原則は国家財政において厳格に守らねばならないことであります。未だ財源は乏しく、全国歳入額を明瞭にするに至っておりません。
歳入額が確かでない時に、政府において経費を取り決めるというのは、甚だ不相当の処置であると存じます。
いかに陸海軍の充実は国家の大事であるからと言って、千五十万円と言う巨額の経費を承認すれば、各省が先を争って経費の分け取りをすることになります。
そうなれば、会計の方針を立てるめどが立ちません。従って、陸海軍の支出も暫く御見合わせの上、正確な歳入統計が出来上がった上で、決定なされる方が至当(適切なこと)であろうと存じます。」
大久保は閣議で決定承認した経費支出について、正面から反対した栄一に対し、「渋沢君は歳入の統計が明らかになるまでは、陸海軍への経費を支給致さぬというのか」と詰問しました。
栄一は、諮問会議での大久保長官の威圧的な態度が、不快でたまりませんでした。このまま大蔵省に留まるのは我慢できないと、その晩、井上馨の邸宅を訪ね、大蔵省を辞職する決心を述べました。
井上は是非とも栄一を省内に留めたいので、様々に説得しました。
「実は今年の冬に、岩倉具視(いわくら・ともみ)、木戸孝允(きど・たかよし)、大久保利通、伊藤博文の諸侯が、欧米に大使として派遣されることになったのだ。大久保さんの留守中は、私が引き受けて仕事をするのだから、短気を起こすな。」
井上は、厳密着実な予算を立て、国家財政を維持していかねばならないと考えていました。
「第1に農業、次に工業を盛んにしなければならない。商業を盛んにすると言うが、産物がなくては商業は進展しない。農業、工業が盛んになってくれば、必ず貿易は進展し、国が富むことになる。
しかし、政府が今のままでは困るじゃないか。だから、もう2~3年、政務を整頓させてから、共に辞職しようじゃないか。」栄一は、またも井上に説得させられて、大蔵省に留まることにしたのでした。
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