歓送迎会

テーマ:

先週の水曜日に職場の歓送迎会があった。



したら、「若さがないよね」



って言われちゃった。



ちょっとショックとともに、




あ~確かにそうかもね、





と納得した僕でした。

AD

公務員になった

テーマ:

時は早いもので、以前このブログを更新したときより、

5ヶ月が過ぎ、

私は、いつの間にか公務員予備軍から

本物の公務員へとなっていた。


4月2日に入都式があり、研修が1週間、そして、

4月半ばより配属先にて実務に就くことになった。


そして、そこから約半月。


僕が働くのは、とある都立高校である。

主に先生と接し、たまに生徒と接し、

勿論事務の同僚、上司の方たちと接し、云々かんぬん。


働いて思った。

楽しく働いているようで、なんだかんだ言って

ストレスが溜まる!


微妙な仕事の駆け引き。

ってか、そんな大それたことじゃないけど、

一つの仕事を僕がやるか、他の人にやってもらうかで、

ごちゃごちゃしたりする。


他にも、毎日顔をつき合わせているわけだから、

たまには話すのが何となくけだるくなる時だってある。


そんなときでも、基本の挨拶は欠かさない!

とかいって、気合入れて頑張ってると

なんだかんだ疲れたりする。


そんな社会人としての序の口のところで、

少し疲れを感じたこの半月だった。


だけど、そんなことを繰り返しつつ、

だんだんと社会人ぽくなって、

大人になっていくのかなーとも思う。


仕事もバリバリ出来て、職場の雰囲気もよく出来る。

そんな社会人目指して

今は歩く私でした。


人権

テーマ:

“人権”


世の中では、特に公的な場、司法の場では多く使われている

言葉と思われるが、一見とっつきにくそうな言葉である。


“人権”

とは何ぞや。


それを考えさせられる、テレビ番組を先程

テレビ東京にて見た。

内容はハンセン病患者に関するものだった。


とあるホテルにハンセン病患者が泊まろうとした。

しかし、それを拒否するホテル側。

結局ホテルは旅館業法違反により告発される。

がしかし、それを巡り、

ハンセン病患者に対し、様々な誹謗中傷が送られる。

ホテル側が謝ってるんだから許してやれだ、

気持ち悪いだ、

国の施設に入ってるんだから大きな顔すんなとか。


かなり衝撃的だが、そんな誹謗中傷を葉書やら

電話やらで送りつける人がいるらしい。


色々論点があるが、ここでは二つのことを言いたい。

ひとつは差別の根源とは何かである。

もうひとつは、これまでの国のハンセン病政策と

これからのハンセン病政策のあり方である。


ひとつ皆様に問いかけたい。

なぜ人は差別をするのかということである。

これはかなり難しい。

宗教が違うから、人種が違うから、人とは違う

行動をとるから、人とは違う身体的な特徴を持ってるから。


こう考えていくと差別は日常のそこかしこに潜んでいる。

しかし、要は簡単なこと。

言葉に出さなければいいことだ。

相手を認めること。肯定はしなくてもいいが、

少なくとも黙認すること。

その精神が肝要だ。

それができれば、世界から戦争はなくなりそうだが・・・

つまり、戦争が起きる原因と、差別が起こる原因とは

結構似たようなものがある。


話は逸れたが改めて差別の根源を考えると、

社会的には宗教的観念というのが大きいのだろう。

つまり、日本国においては古来より(中世より?)

“穢れ”という概念があった。

使者に触れること、動物を殺すこと、

そこには穢れが存在する。

その穢れを人に移さないために

喪中に入ったりする。(だったような気がする)

そして、その“穢れ”のメカニズムが社会的に働く。

つまり、屠殺業者だったり死体処理業者には

必ず“穢れ”が伴う。そうするとそういった業に携わるもの全員が

差別されることになる。

そういう風に社会的な被差別集団が生まれる。


死体に触れること、血に触れること=何となくいや

→“穢れ”という観念の発生→集団的差別の発生。

そういったメカニズムがある。


簡単に言えば“触れたくない”ということだ。

そこに差別の根源がある。少なくとも差別の一理由がある。


そうすると、次に問題になってくるのは

国、政府としての対応である。

つまり、その被差別集団という社会から隔離された集団を

積極的に社会の中へと同化させる政策をとるのか否か、ということだ。

すなわち同和政策である。


そこで、持ち出される論理が“人権”である。

現代において生きるものには生来的に(前国家的に)

人権がある。

つまり、生きる権利がある。

憲法に謳われているように、

最低限の文化的水準を享受する権利があるし、

思想・良心の自由もあり、宗教の自由もあり、

経済的自由もある。

それは、全国民が享受できるという考え方である。


その理念は大いに結構である。

では、なぜ人には人権があるのか。

なぜ人は平等に扱われなければならないのか。

その根底を支える論理こそがなければ、それは

便利な大義名分としてしか機能しない。

その根底を支える論理がなければ、

ただの空念仏になりかねないということである。


では、どうすれば平等の意識、

人権の意識は定着するのか。

大分長くなったし、自分の知識としても

いい加減なところがままある。

よって長くは書かないが、

ひとつ書いておけば日本人の宗教観、

秩序間において納得のできる平等観、人権観を

確立する必要があるということである。

それがこれからの日本の法律、政治の課題そのものでもあると思う。


“人権”と“差別”

身近なところに潜む問題であるが、

非常に解決には大掛かりな論理構成が必要であるし、

国そのものの政策にもかかわってくる部分であると思う。

是非、国民全体で考えを深めていければと思うところである。

我々が生きる目的

テーマ:

改めて、これからの“日本の姿”というものを考えてみたい。

というのも、ちょっとしたきっかけがあって、

昨日、録画しておいた『亡国のイージス』という映画を観たからだ。


『亡国のイージス』のストーリーをちょっとだけ紹介すれば、

日本国自衛隊の内部・・・

イージス艦しおかぜ号乗組員幹部らは、敵国(おそらく北朝鮮を想定)

の一国民に感化され、反乱を起こそうとする。

それを、阻止しようとする内閣内情報局秘密部隊“ダイス”、

と、ただ自分の乗り込む艦を守ろうとし、両者の間を

駆け巡る乗組員先任伍長仙石。

その三者を巡る物語である。

はたして反乱は成功するのか、それとも阻止されるのか。

というような物語である。


さて、そのなかで、出てきたフレーズが以下のようなものである。

「日本はただ戦後60年、太平洋と東シナ海の間に

ぽかんと浮いていただけだ!」と。


果たしてそうなのだろうか。

私はそう思わない。

少なくともアメリカの世界戦略の下、西側世界の防波堤として、

北朝鮮、ソ連からの脅威を防いできた。

しかし、そのアメリカの傘の下に入っていた期間が長かったため、

確かに日本人が自らの手で平和を確立するという感覚を

失っていったというのは確かであろう。

だからこそ、当映画の中で、敵国国民に、

「日本人は自らの手で平和を確立したことがないのだ。」

といわれてしまう。


で、結局ここで言いたいのは、

日本には、安全保障という分野に限らず、

各分野における長期戦略が

欠けているのではないかということである。

自分も、勉強してみて分かるが、

国家公務員特に中央省庁の人たちの

知識、教養というものはすごい。

今の自分には、足元にも及ばないと思う。

が、しかしではそれが現在の日本の問題に対して

有効な解決策が提起できているかというとそれには疑問符がつく。

つまり、知識はあるが、そこには目的意識が欠けているのである。

一体、何のために知識を見につけるのか。

一体何を目的に、経済振興をするのか、

一体何を目的に、農林水産振興をするのか、

一体何のために、教育再生を行うのか、

一体何のために、高齢者福祉を行うのか。


そこに欠けている目的意識。

はっきり言ってしまえば、日本人の幸福、

日本人の公共の福祉向上のために、政策を打ち出すのである。

その、“日本のために”と正面からいえない戦後日本の苦しさ。

そこにずっと曖昧さが伴い続けたのではなかろうか。

つまり、戦後ナショナリズムが封印され、

唯一の目的がなくなった。

戦後、唯一の大義名分となって唱えられてきたのが、

“民主主義”の発展のため。ということである。


『亡国のイージス』の話に戻り、その中で敵国国民が、

「これだから日本人は・・・。まだ戦争だということを理解していないのか。」

と言っていた。

私は考えた。

もし戦争になったときに、

日本政府は、

日本人を守るために外国人を、韓国人を、北朝鮮人を、ロシア人を、

殺してもいいと命令することができるのだろうか。と。

究極的に差し詰まってきたときに、

“日本人のために”という大義名分を掲げることができるのだろうか。

そこに不安を覚える。

それは過酷なことだが、やはり“日本人のために”

他国民を殺さざるを得ない状況があるというのが、

現実であると思う。

そういった統一的意思のなさ。

それが、戦争のような差し詰まった状況の中でなくとも、

各分野において、この戦後日本の中では常に伴っているのではなかろうか。

千葉県 障害者条例

テーマ:

新聞の一面に報じられていたが、

千葉県において障害者差別の禁止をうたった障害者条例案

(正式名「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例案」)

が、県議会常任委員会で可決されたそうだ。


その第26条。

「差別されて訴訟を起こそうとする障害者に、

県が費用の貸し付けやその他の援助ができる」


むむむ、これはどうなのか。

費用の貸し付けは分かる。

しかし、その他の援助ってのは。。。

どうであろう?

解釈の広い条文である。


役所のバイトをはじめて気づいたが、

役所ではこういった一つの条文の解釈を巡って

職員同士でよく議論をしている。


公務員の拠るべき基準だから、それはそれで当然なのだが、

なかなか難儀な条例になりそうである。

遅れた思春期

テーマ:

今週から、バイトが始まった。区役所でのバイトだ。

バイトなんだけど、僕は、普通の仕事のつもりで行っている。

なんか、気分はもう就職したようなものなのである。


そんな中最近ふと思う。

自分の学生時代ってどんなだったかって。

今まで、そんなこと気にもしなかった。

大学は、単に授業出て、図書館で本読んで、とか。

そんな生活を繰り返していた。

友達は少なかった。

皆はどんな学生生活を過ごしたのだろうって思う。


自分の高校生活は?

ハンドボール部に所属し、高校後半は、

授業をかなりサボった。

それはそれですごい楽しかった。

だけど、どうなんだろう。

ちゃんと成長していたのだろうか。

日々目標を立て行動していたのだろうか。


たぶん意識の低い学生だったんだと思う。

だから、就職まで、何年も掛かった。


皆より3年も遅い。

どうなんだろう。


今さらなが思う。

親がうざい。

今は実家暮らしなのだが、妙な自立心が芽生えている。

御年24歳。


今更ながら、自分の人生を振り返り、親から自立しようとしている。

非常に遅れた思春期なんだと思う。


経済初心者

テーマ:

『厚生労働』

ってな雑誌を今日は読んできた。

その巻頭特集において、日本の景気浮揚はどうして起こったのか

ということについて議論していた。


勉強になることしきりだ。

今さらこんなこと言ってると馬鹿にされそうだが、

日本の景気回復は、輸出主導型で実現されたそうだ。


その最大のファクターは何といっても、

中国の経済成長。


え!?じゃあ、今までやってた構造改革って何の改革だったの?

そんな疑問が生まれてくる。


ま、それはいいとして。

中国の経済成長によって日本の景気が引っ張られているとしたら、

つまり、日本の消費はそんなにふえていないってことか?

中国への輸出が増えている。

つまり、中国の人は日本の製品を買いたがっている。

じゃあ、日本人はどっから物品を購入してるのか。

日本人が真に欲している商品を日本企業は

提供できているのだろうか。

実は、そこら辺の先行き、つまり、


“日本なりの新しい経済の姿”


というものが十分には語られないまま、

ここまできてしまっているのではないか。

いろんなことが考えられる。


長期的な戦略なき日本。

そんなことが経済は勿論、他分野、例えば国際秩序や文化行政等々

についても言えるのではないか。



今はとにかく経済初心者過ぎて、論点が定まらない。

しかも、勉強不足過ぎてそれに携わっている行政の方、

専門家の方が見たら、怒られそうである。


今は、ただひたすら勉強あるのみだと思う。

バイト於役所

テーマ:

昨日から、地元の区役所でバイトをしている。

私の所属は、情報公開関係の部局である。

実はこの部局、事務所が二つあり、

分庁舎の事務所と本庁舎内の事務所を行き来して仕事をする、

ってな感じで過ごしている。


しかしながら!

いやいや、勉強になることばっかりですわ。

まだ、二日目が終了したばっかりだから、当然といえば、当然なんだけど。

まず、覚えることがたくさんある。

それプラス、今後の公務員人生において役立つことが

そこらじゅうに落ちてるわけ。

職員さんの話してる内容、事務所等においてある文書とか。

ほんと自分の興味を刺激するものばっかりである。


とくに、この短い二日間だけでも考えさせられるのが、

“公”と“民”のあり方。

たとえば、建築関係って一言でいっても、

うちの役所には、建築調整課と建設かっていうのがある。

で、その二つの課が違う階にあったりして、

窓口を利用する人にとっては、結構不便なわけなんです。

これって、“民”の側から見てみると、不便ですよね…


こういう風に、なんか細かいところから行政のあり方が、

行政の都合だけで構成されてませんかってこと。

つまり、“公”の論理で皆さん動いていないかということです。

これを、ちょっと利用者にとって利用しやすい区役所

ということを目指して、役所を構成すれば、

だいぶ役所のイメージが変わると思う。


もちろんこんな、バイトの、で、まだ公務員にすらなってない自分が

大きなことを言える立場にはないが。


他にも、区役所等基礎自治体は、

いわゆる制度の末端、実施を担っているわけだが

単に実施をしているだけではなく、制度の構築に

もっとコミットしていくことができるんじゃないかと思う。

少なくとも、制度を実施してみてここが不便、

ここがいいとかもっと国等制度の所管先にフィードバックしていいと思う。

むしろ積極的にするべきだと思う。

そうやって、基礎自治体中心に“公”を構成していくことによって

もっと円滑な “公”と”民”との関係が築けていけるんだと思う。


また、仕事をしていて、思ったことを書いていきたいと思う。