*この記事は2009年2月にWEBサイト『Tap Magazine.jp』に掲載されたものです。

 

 みすみ"Smilie"ゆきこのHistory of Tap 

その9『Mr. Bunny Briggs バニー・ブリッグス』

 

 

 バニー・ブリッグスは、1922年2月26日、ニューヨークのハーレムで生まれました。彼自身「自分は踊るために生まれてきた」と話していますが、3歳の時にコーラスガールだった叔母の舞台を見に行き、そこに出演していたビル・ボージャングルを見て、タップダンサーになりたいと切望。その頃から家でボージャングルのステップを真似てみせたといいます。

 

 その後、ストリートで踊るようになったバニーは、すぐにソシアルダンスのグループに参加。1930年代初めには、ストライド奏法の名手として知られる伝説的なピアニストで作曲家でもあるラッキー・ロバーツに見いだされ、彼のカンパニーに参加し、8歳の時にはアメリカの裕福な家庭のパーティーなどで踊っていました。そして20歳の頃には、アール・ハインズ、トミー&ジミー・ドーシー、チャーリー・バーネット、カウント・べーシーをはじめとする有名ミュージシャンが参加するビッグバンドとツアーに出るようになりました。

 

 

 ディジー・ガレスピー と チャーリー・パーカーの影響を受け、彼はそのスタイルをビバップに融合させ、また、パドル&ロールとパントマイムを融合させた独自のスタイルも作り出しました。

 

 1960年、デューク・エリントン・バンドとともにモントレー・ジャズフェスティバルに参加した後は、ビッグバンドの中でソリストとして踊り、”Duke's dancer"として知られるように。また、1962年のニューポート・ジャズフェスティバルでは、当時人気を集めていたタップダンサーのベイビー・ローレンス、ハニー・コールズ、ピート・ニュージェント、チョーリー・アトキンスと共演しました。

 

 

 1970〜80年代には『The Hoofer』としてジミー・スライド、ロン・チェニー、サンドマン・シムズ、チャック・グリーンなどとともに世界中をツアーで回り、ヨーロッパでは『Sweet Saturday Night』に出演。

 

 ブロードウェイでは『My One and Only』『Black and Blue』に出演するなど、ステージで活躍する一方、1950年には『Cavalcade of Bands』、1960年代には『The Ed Sullivan Show』、1970年代には『Johnny Carson shows』『Apollo Uptown and Monk's Time』、そして1989年には『Great Performance’s Tap Dance in America』など数々のテレビ番組にも出演。

 

 1979年にはドキュメント映画『No Maps On My Taps』でサンドマン・シムズ、チャック・グリーンと共演。1989年には映画『TAP』にも出演するなど、その活躍の舞台は多岐に渡りました。

 

 

 その功績が評価され、2002年にはオクラホマ大学より名誉博士号『Honorary Doctorate of Performing Arts in American Dance』 を受賞。2006年には 『Tap Dance Hall of Fame』 に就任しています。

 

 

 バニーのタップのスタイルは、氷の上でスムースに動きまわり、空中で浮いているような感じで、コミカルでもありエレガントでもあり、身体の中心と首が固定されたかのように動きません。ルースなタップスを好み、優しく静かな音の中に、ところどころヒールやトウが不規則にアクセントを打つといった独自のスタイルで、手の動きも大切にしていました。

 

 

 

 敬虔なクリスチャンであるバニーは、その華々しい活躍も神の導きによるものであるといつも感謝の心を忘れず、彼の奏でる音について質問された時には、いつもこう答えていたそうです。

 

 「社交界で踊ることが出来たのは、優しくソフトに美しい時間を楽しみたい彼らの嗜好に、私のタップの音色がマッチしていたからではないでしょうか。でも、ストリートで踊り、廊下で踊り、ホットドッグスタンドで踊っていた私が社交界で踊れるまでになれたのは、神のお導きがあったからこそ。私はいつもいろいろな形で神のご加護を受けているのです」

 

 

 一番印象に残っている思い出は、ニューヨークのステタン島の小さなナイトクラブ『The Moulin Rouge』で踊った時のことだと言うバニー。彼はカップルのお客様に「お互いに抱き合って下さい」とお願いし、タップを踊ったそうです。

 

 照明を薄暗くし、彼はお客様にこう言いました。「こういうことをお願いするのは私の人生において最初で最後です。拍手はいらないので、このままでいて下さい」。

 

 そして『I’ll Be Loving You, Always』をソフトシューで2コーラス踊り、そのままステージを降りました。お客様はそのままパートナーを抱き続け、キスをしました。「自分のダンス人生の中で、どんな賛辞よりもうれしい最高の出来事でした。ただただ美しかった」とバニーはその時のことを振り返ります。

 

 

 バニーは今、ラスベガスの医療介護付き老人ホームで暮らし、いつも祈り、神に感謝しています。

 

 私は2度ほど訪ねましたが、人と話すのが大好きで、訪問すると何時間でも話して、軽くタップをし、赤ワインを楽しみます。そして、私が帰る時には涙を流して、今度はいつ会えるかと聞いてきます。本当に心の美しい方です。その心が、あの美しいタップの音色となって現れるのでしょう。

 

 

 彼は私にこう言いました。

 

 「いつも常に準備しておきなさい。いつチャンスがくるかわからないからね。踊る時たった1人のお客様でも大切に踊りなさい。その人が大きなチャンスを与えてくれる人かもしれないから。歌は歌えるか?歌えたほうがいいよ。そして、手はすごく大事だから爪をいつもきれいにしておきなさい」。

 

 そう言って、彼の使っていたネイルケアセットをプレゼントしてくれました。「手が大事、爪をきれいに・・・」の言葉に、私はその後ネイルに気を配るようになりました。そうすると爪の先まで神経が行き届くのです。

 

 好きな曲の話をすると、歌い出して「舞台へこう出ていって、2コーラス踊ってこうしてこうして、こうやって去っていくんだ」と、そのすべてが見えてくる、そんな話をしてくれます。また、ビル・ボージャングルと踊った日のことをとてもうれしそうに話してくれました。

 

 ルースタップスが好きなバニーは「これ、タイトすぎるよ」と私のシューズを見て注文をつけていました(笑)。今度会うときはダイアンルースのシューズを持っていこうと思っています。ラスベガスに行く機会があったら、ぜひバニーに会いに行って下さい。

 

 

 

みすみ"Smilie"ゆきこ  http://artntap.com

日本から本場アメリカにゲストアーティストとして招かれるという前人未踏の快挙を成し遂げ、国内はもちろん、世界各地に招聘され国際的に活躍。日本では加藤邦保氏に、NYでは巨匠Dr.Henry Le Tang氏に学び、継承を託された世界でも数少ない1人であり、その後も、数多くのタップマスターから学び、歴史を継承する役割を果たしている。また、International Tap Association(ITA)日本代表として、インターネットが発達していない時代から日本の情報を世界に発信し続け、日本と海外の橋渡しの役割も担っている。日本タップ奨学生制度(JTSP)、ARTN TAP DANCE STUDIO、ARTN Company主宰。BASEMENTタップシューズアドバイザー、東京International Tap Festivalディレクターも務めている。