TAPとBlackfaceについて、タップアーティストとして僕も考えてみた。 | natsuo's TAP beats

TAPとBlackfaceについて、タップアーティストとして僕も考えてみた。

ちょっと・・・・というか、かな~り長くなると思います。

 

昨年末のダウンタウン浜田さんのブラックフェイス問題が物議をかもしていますが・・・・ブラックカルチャーとは切っても切り離せないタップに携わる者として、様々なタップダンサーも注目しているようです。

僕もやはり興味が湧き、少し調べてみつつ、この問題について考えてみることにしました。

 

1840年代、アメリカで白人が焼きコルク顔を黒塗りにし、黒人の会話やユーモア、歌やダンスの物真似をするショー、「ミンストレル・ショー」が大衆芸能として大流行したそうです。

まさにここがブラックフェイスの原点であり、タップの重要なルーツのひとつともされているそうです。

 

その後、南北戦争で解放された黒人がショー・ビジネスの世界に進出する際、白人社会に受け入れられるために自らも黒塗りをして、このミンストレル・ショーで形成された黒人のイメージを演じなければならなかったそうです。

 

その慣習を崩したのがまさに、タップの神様ビル・ボージャングルズ・ロビンソン。

彼は素顔で舞台に立つことを可能にし、ソロで踊ることを許された初めての黒人アーティストだったとのこと。

 

ミンストレル・ショーを発端としたブラックフェイスは黒人差別の象徴、それを乗り越えたビル・ロビンソンは差別的偏見を崩した英雄の一人。

こうした見方が大勢を占めるようです。

 

もちろんこの見方に真っ向から反対するつもりもありませんし、僕自身もビル・ロビンソンの功績やパフォーマンスを心から尊敬している。ひとつの大きな目標でもあります。

きっと、確かにこうした差別的側面があったんだと思います。

 

ただ昨今、ミンストレル・ショーに対しての新しい研究の中で、また違った観点からの様々な見解もあるようです。

黒人の身体が不自由な方をモチーフにした芸が発端という、更に差別的な見解もあるし、逆に当時中流以上の白人社会に疎外され、社会に不満を持っていた労働者階級の白人たちと奴隷の黒人たちの間にシンパシーが芽生え、交流が盛んに行われていて、その中で発展した極めて先鋭的なショーだったとする見解もあるそうです。

 

確かに、黒人の皆さんは奴隷制度という人類が生み出したものの中でも最悪な部類のシステムの犠牲になった代表的な人種で、それによる差別と常に闘い、そして今も闘い続けている、人災によって非常に辛い宿命と文化を背負わされているのだと思います。

その苦しみは僕には想像もつかないほど。

 

しかし、それを「ブラックフェイス」というだけで差別的だ!と決めつけてしまうのには、少し違和感を覚えます。

僕は特別にダウンタウンさんのファンでもないですし、番組を擁護する気も全くないです。

ブラックフェイスをするだけで、しかもそれを笑いのネタにすることで「差別的」と捉えられる可能性があること、そして実際にそう感じる方がいることを考慮せず、そういったことへの配慮を怠ったことは紛れもなく番組製作側の落ち度です。

差別のような問題は、する側の意図ではなく、感じる側の感情が重要ですから。

 

ですが、百歩譲っても上品で教養ある番組とはお世辞にも言えませんが、この黒人奴隷という文化や黒人差別という問題がほとんどない日本で(誤解のないよう、黒人差別がないわけではないですし、それは由々しき問題だと思います)、テレビのバラエティ番組でただただエンターテイメントを目的として行ったブラックフェイス、しかも「アメリカンポリス」というテーマだから、代表的アメリカンポリスであるビバリーヒルズコップのエディ・マーフィさんに扮した。オマージュとも言えませんが、そこに差別的要素を僕は感じませんでした。

 

フランスの掲げるRépublique、「共和国」という理念は、人種、宗教、門地、社会的立場といった属性を超えて、ひとりひとりの人間が平等で、国と人ひとりが1対1であるということです。

フランス語には「discrimination positive」という言葉があります。

日本語では積極的差別是正。これでは分かりにくいので、直訳すると「ポジティブな差別」。

社会的に差別を受けている者に、その分有利に事が進むように優遇することです。

私見ですがアメリカは全体として、この考えを良しとするところがあるように見受けられます。

しかしこれでは、根本的な差別の解決にはならない。

 

いかに黒人の方々が辛い状況を背負わされていたとしても、黒人の方サイドからの一方的な見方による結論付けや主張は、今世界が直面している「共生」「共存」「平和」にとって、非常に危険なものだと僕は思います。

黒人の方サイドというだけでなく、どんな観点からでも、一方的で視野の狭い主張は平和にとっての脅威になるだけです。

 

タップは確かにブラックカルチャーと切り離せません。ビル・ロビンソンをはじめ、サミー・ディヴィスJr.、グレゴリー・ハインズら、黒人差別と闘ってきた数々のマスターの手を渡って現代までやってきた。

タップのステップとサウンドには、その軽快なハッピーさだけでなく、彼らの苦しみや悲しみ、自己矛盾が詰め込まれています。

 

そういった思いを受け取り、しっかり勉強して知ることはタップを踏む僕らの使命だし、とても大切なことです。

しかし僕は、我が物顔でその悲しみを言葉、そしてタップで語ることはできない。

なぜなら僕は日本で昭和の終わりに生まれ、平成の日本で育ち、奴隷として生きたことも、人種差別も経験したことがないから。

僕がいくら勉強して、いくらタップで人種差別を語ろうとしても、それは僕の人生のタップ、「My TAP」にはならない。

 

タップは大航海時代に黒人たちがアフリカから奴隷として連れられてくる際にコミュニケーションの一環として甲板を足で踏み鳴らしたことが始まり。だからそのステップには黒人たちの情熱と悲しみ、苦しみ、怒りが込められている。

確かに黒人的観点から見たルーツとしては、この通りなのだと思います。

 

しかし、世界には地面を足で叩いて奏でるダンスが様々な地域に存在します。

スペインのフラメンコ。アイリッシュの木靴で音を奏でるクロッグダンス、そしてそれが発展したアイリッシュ・タップ。

そして日本舞踊にも。古事記の天岩戸の記述では、最終的にアマテラスが岩戸を開くきっかけになったのは、アメノウズメによる地を激しく足で踏み鳴らす踊りです。それは今の日本舞踊にもしっかり残されています。

その他、日本各地にも下駄踊りなどの形で存在します。

きっと先述の甲板の件も、この一つです。

 

タップのステップは、基本的にジャズドラムのリズムを奏でるために最適なように出来ています。

タップの音楽的ルーツはまさに、ジャズです。

 

そしてジャズは、移民の国アメリカで、西洋、そしてアフリカの移民たちによって、西洋楽器を用いた西洋音楽の洗練された技術と理論、そしてアフロ・アメリカンの独自に培われてきたこれまた素晴らしいグルーヴや音楽形式が融合してできたものです。

まさに人種や文化の壁を超えたアートです。

そしてタップも、そのジャズドラムを音楽的な起源としているんです。

 

僕はタップもきっとジャズのように、移民の国アメリカで、先述のような様々な文化や技術が融合して生まれたものだと思っています。

日本からの移民は少なかったと思いますので、日本舞踊の影響はさほどないかもしれませんが・・・・。

 

言っているご本人たちもそんなつもりは毛頭ないと思いますが、あたかも「タップは黒人のもの」という印象を受けることが、よくあります。

奴隷や差別の苦しみを語れなければ、タップじゃないというような。

 

しかしそれでは、黒人じゃなきゃタップを踏んじゃいけないのか?黒人じゃなきゃタップを追求しちゃいけないのか?

こういった一方的な見方は、逆の差別を引き起こしかねません。

 

実際にはアメリカだけでなくヨーロッパにも、世界中に黒人のみならず様々な人種のタップダンサーやタップ愛好家がいます。

日本人のタップ人口もありがたいことに増えてきているし、トップクラスのレベルは新たな世界観を築ける可能性があるほど、相当に高くなってきていると思います。

 

そもそも、ジーン・ケリーは?フレッド・アステアは?

彼らもタップというアートフォームを極めた偉大な人間ではないのか?

 

アステアは『有頂天時代』の中で、ビル・ロビンソンに敬意を表し、ブラックフェイスで素晴らしいタップナンバーを披露しています。

サミー・ディヴィスJr.は数々の白人ミュージシャンや俳優と共演しています。

グレゴリー・ハインズはジーン・ケリーの見守る中、彼へのオマージュとしてジーン・ケリーの『巴里のアメリカ人』でのナンバー「I got rhythm」を、ジーン・ケリーが得意とするステップを織り交ぜながら披露しています。

 

マイケル・ジャクソンは?もしかしたら・・・彼は逆に黒人差別への大きなコンプレックスを持っていたのかもしれませんが、それでも、彼は人種・国を超えて大きなセンセーションを世界に巻き起こしました。

 

お互いを理由なく蔑んだり、逆にもてなし過ぎたりせず、たまたまそこに居合わせたひとりの人間どうしとして、フラットにただリスペクトし合う関係。

これこそが理想的な差別のない世界を築く礎になるのではないかと思います。

 

今、アメリカはトランプ大統領就任時よりも更なる分断を余儀なくされているそうです。

白人至上主義者と、それに反対する団体の間で、内乱にも発展しかねない事件が次々に起きている。

白人至上主義者は言わずもがなですが、それに反対して話し合いもせずに「白人至上主義者は出ていけ!」と排除を図る人々も、人種差別反対に見えて、実は白人に対する人種差別の概念に囚われ初めているのではないかと思います。

 

僕の見たニュースでは、白人至上主義者が「犯罪や社会の分断は多様な人種、民族がいるから起っている。同じ民族は同じ民族どうしで社会を築きたいんだ!だから白人以外は追い出さねば!」と言っていましたが、果たしてそうなのか。

日本では同じ民族どうしでも、出生地によって差別が起こってきました。意見の合わない人を遠ざけることも、現代でもあると思います。

先のような白人至上主義者は必ず、白人のみの社会が成ったとしても、またその中で人種でない違う理由の差別を繰り返すでしょう。

 

人類の至上課題として歴史的にずっと存在してきた差別問題。まだまだ根本的な解決は難しそうですが・・・・それには諦めずに、ひとりひとりが意識を改革して、より広い視野を持って、自分本位の観点だけでなく、相手の立場、また第三者の立場に立って様々な問題に取り組むことができるようにしていくしか、ないのかもしれません。

 

出典:

http://c-cross.cside2.com/html/b00a0002.htm

http://tapperkaz.exblog.jp/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3