「IR三ヶ根駅」より
徒歩1時間の距離にあります。
◆お町(道官咲子)碑
●お町(道官咲子)さん
太平洋戦争の敗戦直後、
旧満州の安東
(現中国遼寧省丹東市)は
北方から逃れてくる
日本人らで混乱に陥った。
加賀市生まれの道官咲子は、
ソ連兵が女性らを
襲うのを防ぐ盾として
慰安所兼飲食店を経営。
危険を顧みずに
日本人の救済に奔走した。
「お町さん」と慕われたが、
スパイ容疑で
中国共産党に逮捕され、
非業の死を遂げた。
(中日新聞:小室亜希子)
加賀市吉崎町の「道官咲子碑」は
1956(昭和31)年に建立。
救済に関わった日本人は
3000人とも言われ、
俳優の故芦田伸介はその1人。
<碑 文>
碑 誌
お町さんは、
佛都福井県吉崎御坊近くの
在家に生まれ、
後、旧満州国安東市に渡って、
湯池子温泉の女中頭となり、
この地に終戦を迎えた。
<旧安東小学校>
昭和二〇年八月十五日、
敗戦国民と化した
在満日本人は、
家を奪われ、財を失い、
悲惨な俘虜の運命へと
追い込まれて行った。
奥地より陸続と伝えくる
無残な同胞の悲報。
然し此処にして、
誰に何が出来るだろうか?
若し出来得るとするなれば、
それは機智縦横度胸あり、
身を捨てて、
同胞のために死んでくれる、
そんな女人で
なければならない。
<対日宣戦布告後、ソ連沿海地方のグロデコボ付近から満州に進攻する
ソ連部隊(タス通信)>
国境、北辺より
避難南下の人々を抱えて、
ふくれ上がった
安東幾十万の
日本人の命運を
背負っての責は、
あまりにも重く、
報いられる保証は
全くない。
<ソ連の満州侵攻>
このときお町さんは
人々に請われて
「 挺身娘子隊 」を編成し、
その総監となり、
ソ連軍進駐し来たるや、
慰安慰撫に奮闘、
司令官の信頼を一身にして、
日本人の被護活動に挺身した。
<80年前:満州に暮らす日本人たちの日常>
奉天陸軍病院
五龍背分院の重度症病兵、
三上勝弘中尉以下一〇八名が、
八路軍の分院接収により
退去を余儀なくされ
「 止まるも死、進むも死ならば、
一歩でも日本に近づいて死ぬべし 」と、
道を求めて彷徨、
終に得られず、
半死半生安東へ
辿りついた彼等を迎え、
「 お町も
日本の女でございます。
此の目玉の黒い間は
滅多に餓死させるもの
ではありません。
お町は唐人お吉では
ございません、
お町には国府も
八路もございません。
日本人の為に生き、
死ぬばかりでございます。
<「満蒙開拓団の女たち」より>
時を経て、
一顧だに
されないだろう事は
覚悟の上でございます。」
お町さんの活躍は、
満州電電安東支社長
稲津宗雄氏の回顧録
「望郷」 中の
随所にかかれているが、
彼女が、心神困憊、
絶望のどん底にあった
三上中尉以下に、
生きる気力と体力、
故国帰還の夢と希望を
與えた事には
全くふれられていない。
<かみかぜよ、何処に私の遺言──満州開拓団
一家引き揚げ体験記>
あれから三十余年、
いよいよかなしく、
あはれに、
お言葉が忘れられず、
ソ連軍撤退して、
八路軍により
鴨緑江河畔に
銃殺刑となった
お町さんの、
死をかけた
平和えの祈りと
冥福の久遠をこめて
此処に碑を建立す。
昭和五十五年九月
<碑 文Ⅱ>
発起者
青森県北津軽郡中里町 三上勝弘
愛知県西尾市新村町 杉山重一
賛助者
長野県東筑摩郡坂井村 市川善三郎
長野県長野市小柴見 西村 武
長野県駒ケ根市赤穂 下村文幸
長野県上水内郡中条村 和田長寿
愛知県西尾市新村町 杉山きくの
愛知県安城市桜井町 川澄気久江
愛知県西尾市市子町 板倉貫一
愛知県西尾市上永良町 牧野秀雄
愛知県西尾市丁田町 市川一栄
終戦後の大陸で
ソ連軍の進駐、
八路軍の接収に相対し、
凛として
日本女子としての
誇りをもって
その本分を尽くした
お町(道官咲子)さんの
生き様に敬意を払い
謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。