東京都三鷹市の「延命寺」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

JR「三鷹駅」より
徒歩24分の距離にあります。



因みに
「関前八幡神社」より
徒歩1分の距離にあります。

 

 

◆延命寺平和観音菩薩像と
    250kg爆弾の破片



 都立武蔵野中央公園から
武蔵野市役所周辺は、



戦時中、

中島飛行機株式会社
武蔵製作所という

日本有数の
軍需工場があり、



一式戦闘機

「隼(はやぶさ)」や
「零戦(ぜろせん)」などの

軍用機のエンジンを
生産していた。



 延命寺は、

この工場の南、
およそ200mに位置し、

寺の所有地も
買収されている。



 戦争末期の空襲では
境内にも爆弾が落下し

被害を受け、
周辺の関前地域では、

寺の檀家を含む
多くの犠牲者があった。



 寺は、1977年に

檀家らの浄財で
平和観音菩薩像を建立した。



 台座には
戦死した檀家と、

戦災で
亡くなった方々の
名前を刻んでいる。



 また、武蔵野女学院
(現武蔵野大学)

付近に落下した

250㎏爆弾の破片を
展示しているほか、



「日の丸」の旗や
のぼり旗、鉄兜、

防空頭巾などの
資料を集め、所蔵している。



 中島飛行機武蔵製作所や
陸軍関前高射砲陣地などの

周辺における

空襲被災者や
その関係者が

慰霊に訪れたり、



空襲・戦災の実相を
学ぼうとする市民が、

この寺を頼りとして
訪ねてくることが多い。



<碑 文>



◆平和観音菩薩菩薩



 平和観音讃仰和讃

あらしはすぎて
     うるわしく

 平和の空はかゞやけど



よびかえす すべもなし
  あゝたゝかいに
     いたましく

 逝けるみたまよ
  さまよう みたまよ



われらはたのむ 観音の
   やさしの救い
      大慈悲を

 いのりつゝ なぐさめん
   あゝくにの ため
      はかなくも

  ゆける みたまを
   つみなき みたまを



こゝろの平和
     あらずして
   
   地上にへいわ
      あるべきや



 いざ頼れ ひとすじに
   この観音のみ姿ゆ

  生るゝ平和を
    久遠の平和を



<碑 文Ⅱ>



 太平洋戦争が終って三十三年、
今や我国は経済大国として
平和な日々が続いているが、

私達は陸海空に
護国の華と散った



英霊、戦火に命を失った
戦災殉難者のいしずえを

絶対に
忘れることは出来ません 



 そして痛ましい

戦争の悲惨と恐怖と罪悪を
常に想起して、

平和に対する努力を
怠ってはなりません



  想えば武蔵野市は
(株)中島飛行機武蔵製作所

及びその下請工場が
数多く在ったため、

昭和十九年十一月廿四日、

B29による
最初の大空襲を受け、



尓来翌年八月十五日の終戦まで
十数回の爆撃により

工場と付近の民家は廃墟と化し、
防空壕もろとも一家全滅が続出、

その死傷者千数百を数えた 



 当山も至近弾による
甚大な被害を蒙った 

今やその工場跡も
平和な緑の公園に生れ変り
戦争の足跡は消えた



  茲に終戦三十三年忌を迎え、

平和を愛する人々の誠願により
観音菩薩像を建立して

平和観音と名付け、

二度とこの悲劇を
繰り返さないために、



その由来を記述して
後世に伝え、

有縁の戦没者英霊と
戦災殉難者の名を刻んで

冥福を祈り奉る



  本日を卜して
終戦三十三年戦没英霊、
戦災殉難者の慰霊と

平和観音開眼大法要を嚴修し

并せて世界平和を
祈念するものである



  昭和五十二年十月二十三日
 延命寺中興第五世住職少僧正中里崇亮



<碑 文Ⅲ>



武蔵野市戦没者

慰霊の碑

平和への
 想いをつなぐ

終戦七十五年 令和二年
武蔵野市戦没者遺族会



謹んで
祓い、鎮魂を
行わせて頂きました。