鹿児島県鹿屋市ににある 「海軍 攻撃第二五四飛行隊/天山艦攻雷撃隊」の碑を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

鹿児島中央駅から直行バスで
1時間54分の距離にあります。



そして
「海軍少佐・下川万兵衛」碑の
後方に鎮座しておりました。

<碑 文>



(碑正面)

  海 軍 

攻撃第二五四飛行隊
 天山艦攻雷撃隊



(碑裏面)

 攻撃第二五四飛行隊は 
航空母艦の攻撃機部隊で

ハワイ攻撃以来の
栄光と伝統に輝く
精鋭部隊である。



昭和二十年二月
第二御盾特攻隊の

艦上攻撃機として
硫黄島沖で

米空母ビスマルク、



サラトガを



撃沈破し



同年年三月末より
沖縄戦において

夜間雷撃部隊として
出撃多大の戦果を挙げたが



戦友の多くは
護国の神と散華した。 



戦後四十年を記念し

生存者有志一同相計り 
飛行隊の栄誉を讃え

ここに艦隊基地
旧海軍鹿屋航空隊跡に

碑を建立したものである

<碑 文>

  生存者故郷の石

万感の思いをこめてここに納める
海軍攻撃第254飛行隊長 肥田真幸



 因みに
この肥田 真幸
(ひだ さねゆき)氏は



鹿児島県出身の
元大日本帝国海軍軍人で

当時24歳、海軍最年少の
飛行隊長としてスマトラ方面に
天山艦上攻撃機隊を率いて進出。

 トラック島大空襲や
サイパン沖決戦などで
激戦につぐ激戦を経験。

 ただ一機での空母攻撃を敢行、
さらに敵飛行艇との一騎討ち、
グラマン大編隊との死闘を演じる。



  第二鈴鹿基地で終戦を迎え
武装解除の前に全隊員に、
最終飛行訓練をさせる。



 その後、

部下のために
飛行機による給与の運搬、

軍法会議を囁く帰隊後の
退職金の支払いのために活躍、



復員後の勤務奨励証の発行、
残務部隊の食料調達のため

漁業組合との話し合いなどに
奔走した方です。


<隊員たちの出身地から寄せられた石>

詳しくは

「青春 天山雷撃隊
―ヒゲのサムライ奮戦記 」
(光人社NF文庫)/光人社



  英霊の皆様に
心よりの祓い、鎮魂を
行なわせて頂きました。