◆彼、ソロとしても輝く♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<1960年代をむかえて>>




彼は1930年3月21日に

アメリカ合衆国ミシシッピー州


ジャクソンで生まれで、

父親はピアニスト。






「母親は

Memphis Minnie



(Memphis Minnie)




Bessie Smith



(Bessie Smith)




と活躍したギターリスト。」







更に彼の継父も

説教師で

ミュージシャンだったのです。






「彼は彼の父親、継父、

それから

Little Brother Montgomery




(Little Brother Montgomery)



の指導で7歳からピアノを

始めました。」








彼は指が

ピアノの鍵盤に

十分に届かないにも拘らず


父親の膝に座り

ブルース・ピアノの基本を

教わったのです。








「父親以外の

ミュージシャンについては

”私の最大の影響は

Coot Davis(地元のピアニスト)、

そして

Tommy Johnson, Leroy Carr,




(Tommy Johnson)




( Leroy Carr)




Big Maceo Merriweatherだった。”



(Big Maceo Merriweather)


と語ったのでした。」







兵役後に

彼はシカゴへ

親戚を頼ってシカゴに行き、



日中は左官として働き、


そして毎夜


街のブルーズ・クラブや

ハウス・パーティーの

ピアニストとして

プレイし始めたのです。






「その中でも彼は

例えばRoosevelt Sykes,



(Roosevelt Sykes)




Little Brother Montgomery,

そしてSunnyland Slimの様な




(Sunnyland Slim)




多くの年上で地位を確立した

ブルース・ピアニストたちに

出会います。」








彼は縁あって、

Muddy Waters bandの

ピアノプレイヤーとして、






スパンはBig Maceoの

自然な後継者として

加入するコトになりました。






「そして

彼のピアノ・プレイは

Watersのロック・ブルースの

サウンドに欠くことの出来ない

存在となり、


バンドの大黒柱

となったのです。」







でもこれだけ

評価の高い彼ですが。


レーベルの方では

彼の評価は

ピアノ・プレイヤーから

出ることはなかったのでした。






「彼はBo Diddleyや



(Bo Diddley)



Howlin' Wolf




(Howlin' Wolf)




そしてChuck Berryなどの



(Chuck Berry)




他のミュージシャンたちとの

セッション・マンとして

録音し続けます。」








1958年10月にWatersは

英国ツアーを打診されていて、

ただ一人の伴奏者として

彼を同伴していったのでした。






「当時の英国の

批評家たちの耳は


Big Bill Broonzy



(Big Bill Broonzy)




Sonny Terry

Brownie McGhee




(Sonny Terry&Brownie McGhee)





アコースティックなブルーズマンの

ライブ・パフォーマンスや



スッキフルな音楽には

慣れていたのですが。




Watersの拡張された

ギターサウンドには



彼らの否定的な反応が

声を露わにしたのでした。」









彼は英国から戻った1年後の

1960年に彼の最初のソロ・ワーク

”Otis Spann is the Blues”

が録音されて、


(”Otis Spann is the Blues”)





そして

同年Newport Jazz Festivalで

Muddy Watersと共に

彼の才能を示したのです。



(Muddy Waters at Newport)




☆Muddy Waters -
Got My Mojo Workin' (Newport 1960) ♪








「このフェスティバルを含めた

彼のデビュー・アルバムの成功は、



彼の1960年代における

積極的な活動を

可能にしたのでした。」










<<オーティス・スパン4!>>




今回ご紹介するブルーズマンは

引き続きオーティス・スパンです。





(今回ご紹介するブルーズマンは
引き続きオーティス・スパンです。)





「さぁ!いよいよソロ活動にも

拍車がかかってきたのでは

ないでしょうか?」






そうですね。


1962年に

彼はBuddy Guyのために



(Buddy Guy)





“First Time I Met The Blues”

“Stone Crazy.”などの

ピアノの伴奏を提供しました。





「 O H ! 」





1963年は

コペンハーゲンでの

Portraits In Blues, vol.3

を録音。



(Portraits In Blues, vol.3)




「ホウ」





1964年には

James Cottonと一緒に



(James Cotton)




アルバム”The Blues Never Die”

を吹き込みます。



(”The Blues Never Die”)



☆The Blues Never Die : Otis Spann♪





「 O H ! 」


「背中を這(は)うような

心にしみる遣(や)る瀬無(せな)さ

でしょうか?」


「いや~っ!しみるなぁ~。」







そうですね。

同年彼は

American Folk, Blues and

Gospel Caravan参加。



(American Folk, Blues and Gospel Caravan)





この参加により、

彼の録音は一気に

増えるコトになったのでした。






「 O H ! 」


「いいですね。」


「彼、ソロとしても、

そして

もちろんバックとしても

仕事に活況(かっきょう)を

呈(てい)してきていますね。」







そうですね。



もうこの頃には

彼の伴奏者としての存在も

大きくなり、



Magic Sam



(Magic Sam)



Big Mama Thornton



(Big Mama Thornton)



Eddie Taylor



(Eddie Taylor)




Muddy Waters などの

アルバム制作に出演します。






「 O H ! 」


「彼は本当にアルバム制作の

立役者ですね。」






そうですね。



彼は1966年にJohn Lee Hookerの

Live at the Cafe Au-Go-Go

のバックを務めました。



(”Live at the Cafe Au-Go-Go”)




☆John Lee Hooker -
I'm Bad Like Jesse James♪







「 O H ! 」


「この存在感ってモロに

シカゴ・ブルーズの

王道ではないでしょうか?」






そうですね。


それで彼はこのアルバムに

触発されまして・・・。





「ハイ」





彼は同年、

The Blues is Where it’s At.

を録音しまして・・・。



(The Blues is Where it’s At.)





「ハイ」

「ン?まだ

他にもありそうですね。」






そうです。


このアルバムは

Muddy Watersバンドが

バックについて・・・。





「ハイ」





更にはスタジオ・ライブの

観客の前で録音されたモノでした。





「 O H ! 」

「生ライブ・アルバムですか!」





そうです。

アルバムは

Watersによって

書かれた“Popcorn Man,”を



特別なオープニング曲として

多くの素晴らしい瞬間を

捉えたのでした。





「 O H ! 」



「このおフザケぶりが

いいですね。」



「ポップコーンの様に

弾(はじ)けそうです。」(*゚▽゚*)







そうですね。



このアルバムは全ての曲に

拍手を送った

熱心な見物人の一団によって

活気づけられのでした。








☆Otis Spann
"Burning Fire" Blues Piano's Greatest ♪


☆Otis Spann -
Half Ain't Been Told


☆bloody murder ....
Otis Spann with Walter shakey Horton♪


☆Otis Spann -
Worried Life Blues ♪


☆Memphis Slim Otis Spann and
 Earl Hooker ♪












☆オーティス・スパン


Otis Spann



(1930年3月21日ー1970年4月24日)





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成熟したソロのキャリアを

打ち上げて

彼の甘やかな時間を持った

ピアニストのオーティス・スパンは



1950年代と60年代に

Muddy Watersバンドの逸材で

主要なメンバーだった。



しかしそれにも拘らず

彼のディスコグラフィーは

満足ゆくモノだった。




それについて

当時とその時のシカゴの主要な

戦後ブルーズ・ピアニストと


それから彼について

多くの熱狂的なファンの考えた

理由が十分に証明している。
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< 経 歴 >


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1962年にスパンは

“First Time I Met The Blues”

“Stone Crazy.”

をBuddy Guyの



(Buddy Guy)




Chess用の

幾らかのために

ピアノの伴奏を提供した。




次の年には、

Muddy Watersバンド共に

ロンドンで周遊中に、



The Blues of Otis Spannの

ソロ活動のために



(The Blues of Otis Spann)



幾らかの

ホーン・プレイヤー

そしてWatersのユニットと

録音した。





ヨーロッパにいる間に

彼はまた

Sonny Boy Williamson




(Sonny Boy Williamso)




と一緒の

コペンハーゲンで

セッションの録音に出演した。



スパンはそれから

別名“Dirty Rivers.”の下、

Watersをフューチャーした

1965年のPrestigeの

ソロ・アルバムリリースした。
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Storyville Recordsとの

1963年の活動は

コペンハーゲンでの

Portraits In Blues, vol.3録音だった。




(Portraits In Blues, vol.3)




彼はDecca Records用に

Muddy Watersや Eric Clapton と


そして

1964年にはPrestige用に

James Cottonと一緒に



(James Cotton)



アルバム”The Blues Never Die”

を吹き込んだ。



(”The Blues Never Die”)


☆The Blues Never Die : Otis Spann♪





1964年彼は

American Folk, Blues and

 Gospel Caravan参加。




(American Folk, Blues and Gospel Caravan)





ロンドンでのDecca用に

The Blues of Otis Spannを録音。




これには

クラプトン

”Pretty Girls Everywhere”



(”Pretty Girls Everywhere”)



” Stirs Me Up”


とジミー・ペイジ

Black Magicの

”Take Me Back Home”

に参加した。



(”Take Me Back Home”)




この American Folk, Blues and

Gospel Caravanに

参加したことにより、

彼の録音は一気に

増えるコトになった。






もうこの頃には

彼の伴奏者としての存在も

大きくなり、


1966年の彼のアルバム出演は

Magic Sam



(Magic Sam)




Shakey Jake、



(Shakey Jake)



Big Mama Thornton



(Big Mama Thornton)




Floyd Jones、 Eddie Taylor



(Floyd Jones)




(Eddie Taylor)




Johnny Shines



(Johnny Shines)




そして

Victoria Spivey



(Victoria Spivey)




による

”Bluesmen of the Muddy Waters

Chicago Blues Bandシリーズを含んでいる。


(Bluesmen of the Muddy Waters
Chicago Blues Band)





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シカゴ・シーンの中の

スパンの才能の傑出は、

Vanguard labelの

1966年ブルーズ・シリーズ

Chicago/The Blues Today! Vol. Iにより

祝われた。



(Chicago/The Blues Today! Vol. I)




アルバムの中で

フュチャーされた

アーティストのひとりの

スパンは、



ドラマーの S.P. Learyと共に

デュオ・セッティングで

パフォーマンスを

披露した。





Muddy Watersバンドと

スパンは共に

John Lee Hookerの

1966年のLP盤

Live at the Cafe Au-Go-Go

のバックを務めた。



(Live at the Cafe Au-Go-Go)




☆John Lee Hooker -
I'm Bad Like Jesse James♪






 
Hookerはコラボレーションを

思い出して言った。




Blues Guitarで

引き合いに出された様に、



”私とOtis Spannと

Muddy Watersが

ニューヨークで

the CafeAu-Go-Gをやった時は

本当に楽しかったよ。




オーティスは

ブルーズにおいてさえ・・・。

偉大なピアノ・プレイヤーの

ひとりだった。



忠実で、親しみやすく、

我を出さない・・・。

完璧な紳士だったよ。”







Hookerの” Cafe’Au-Go-Go”に

触発されたアルバム、


Blueswayはスパンを

1966年のソロ・アルバム

The Blues is Where it’s At.

の録音に招いたのだ。




(The Blues is Where it’s At.)




スタジオ・ライブの

観客の前で録音された。

そしてMuddy Watersバンドが

バックについた。





アルバムは

Watersによって

書かれた“Popcorn Man,”

を特別なオープニング曲として

多くの素晴らしい瞬間を捉えた。
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ABC-Bluesway用の

1966年の不朽のアルバム

”The Blues Is Where

It's At, Spann's ”は、



生ライブの様な曲だが、


実はスタジオ当日に

(Waters, ギターリスト Sammy Lawhorn,



(Sammy Lawhorn)



そして

George "Harmonica" Smith
たちは




(George "Harmonica" Smith)




(その日のサポート・クルーの

一人だった。)



全ての曲に拍手を送った

熱心な見物人の一団によって

活気づけられのだった。





Blueswayのアンコールにより

1967年にThe Bottom of the Bluesが

後に続いた



(The Bottom of the Blues)




そして

オーティスの妻Lucille Spannを

Muddy Watersバンドに加えて

フューチャーして



”Down the Earth”などで

ヴォーカルを手伝ったのだ。

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                       (ウィキペディアより抜粋)

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