◆彼はルイジアナ出身の最もイ・カ・したブルーズマン♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<彼は29年目にして・・・。>>



彼はアコーディオンの

父親からの弾き方の基本を

学びました。





「それから20代には、

サトウキビの収穫や

兄のいた関係で油田でも

汗を流します。」






その傍ら、

週末には兄と一緒に

パフォーマンスを

披露していたのでした。





(その傍ら、週末には兄と一緒に
パフォーマンスを披露していたのでした。)






「そんな中、彼はレコード会社と契約。」






その年にリリースされた

シングルで

局地的な成功を収めたのです。






「それは彼がこの世に生を受けて

29年目のコトでした。」








<<クリフトン・シェニエ Part2>>



今回ご紹介するブルーズ・マンは

引き続き

クリフトン・シェニエです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
引き続きクリフトン・シェニエです。)






初のレコードリリース。

更には成功を収めた彼でしたが、





「ハイ」




次の年には他のレコード会社と

契約しました。




「それはどうしてでしょうか?」






最初のレコード会社が彼の

契約権利を他のレコード会社に

売ってしまったらしいのです。





「なるほど」






そして彼は翌年、

新しいレコード会社から

ザディコ風味のナンバー

"AyTete-Fee."をヒットさせたのです。







(Clifton Chenier”AyTete-Fee”)






「 O H ! 」


「レコード会社を変えても

ヒット曲をリリース出来る辺りは

彼の実力の知るトコロでしょうか?」







そうですね。


その頃までには彼は


”音楽の道の・み・に

邁進するに足るR&Bアーティスト”

になっていたそうです。







「ウ~ン!機が熟した

と言うトコロでしょうか?」







そうですね。

物理的はカタチとしては、

彼のバンドのツアーに注力してゆく

カタチになったそうです。






「なるほど。」






彼の息子 CJシェニエはこう語っています。




(彼の息子 CJシェニエはこう語っています。)




”クリフトンは、素晴らしい人でした。


彼は本当のオリジナルで、

これまでに惑星地球に住んでいた

最も魂のこもった人々の1人でした。




そして、彼はこれまでに

ルイジアナから出てきた

最もイ・カ・した

ブルーズマンだったのです。”








「これは同じアーティストとして

そして父親としても

最高~の。賛辞ではないでしょうか!!」








そうですね。


それから彼は翌年

新たなレコード会社と契約をしました。






「・・・・。」


「何でしょうか?」


「実力のあるアーティストにしては

随分、契約上の移動が多く

腰の落ち着かない印象を受けますね。」







そうですね。

それは時期的な問題もあるかと

思われます。






「と、言いますと?」







この時期はロックンロール革命の

真っ只中で、




(この時期はロックンロール革命の真っ只中で、)






これは全米中でエスニックと

地方スタイルの音楽の人気が

下降し始めたと言われています。






「またまた、彼も

ロックンロール革命の受難者でしたか?」






そうかと思われます。

その証拠に・・・。





「ハイ」





彼が1958~1960年にリリースした曲。

約13曲のうち・・・。





「ハイ」






チャート・イン曲は

ひとつもなかったそうです。





「そうですか。」


「時代の流れですから、

それは仕方のないコトかもしれませんが・・・。」






はい・・・。





「それでも!!」


「そんな状況下においても

底辺で活動を続けて、

後に復活したアーティストはいました。」





そうですネ!





「彼の復活劇に

大・い・に・期待したいと思います!!」








☆Clifton Chenier - New Ma Negress (1971) ♪

☆Clifton Chenier - I'm The Zydeco Man ♪

☆It's Christmas Time -
Clifton Chenier & His Red Hot Louisiana Band ♪


☆Clifton Chenier - Black Snake Blues ♪









☆クリフトン・シェニエ CLIFTON CHENIER

 

(1925年6月25日 - 1987年12月12日)



アメリカ合衆国ルイジアナ州

オペルーサス出身のザディコのアーティスト

(アコーディオン、ヴォーカル)。



ザディコ音楽の第一人者で、

「キング・オブ・ザディコ」と称される。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

誰もが認める”キング・オブ・ザディコ”、

クリフトン・シェニエは、

全国テレビでグラミー賞を贈られた

初のクレオールだ。




(Clifton Chenier ”I'm Here!”)






ニューオリンズR&B、テキサス・ブルーズ、

そしてビッグバンドがジャズに

フレンチと2ステップのケイジャン

南西ルイジアナのワルツをブレンド。


シェニエは現代的な

ダンス・インスピレーション、

ザディコのサウンドをクリエイトしたのだ。






派手な個性は、

彼の金歯とコンサート中に

着ていたケープと王冠によって

記憶に残った。



そして、

シェニエによる彼の先例が

すべてのザディコ・プレイヤーの

スタンダードを設定したのだった。










Ann Savoyの著書

「ケイジャン音楽:人々の反響」



(「Cajun Music A Refrection of People」
Ann Savoy)




からの

インタビューにおいて、

シェニエは説明した。




「ザディコはロックと

フレンチを一緒にしたもので、

知っての通り、


そのビートと一緒に

フレンチとロックが好きだ。


それはロックンロールと同じだ。

だが、フランス語で歌っているので、

異なっているんだ。」







< 略 歴 >


そのすぐ後、Elkoは、

シェニエの契約権利を、

Imperialの子会社の1つ、

Post Recordsに売った。





1955年に彼は、Specialtyと契約し、

ザディコ風味の"AyTete-Fee."

をヒットさせた。




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シェニエが

初の全国的に注目されたのは、

Specialty recordの

 "Ay Tete Fille (Hey, Little Girl),"で、


Professor Longhair

 のカバー曲にあたり、

1955年5月にリリースされた。




(Professor Longhair)





その曲は、

彼がLittle Richardに対する




(Little Richard)





活動で有名なBumps Blackwell

によって生み出された


2つのセッションの間に録音した

12曲の中の1曲だった。




(Bumps Blackwell)



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息子のCJシェニエは語った・・・。



クリフトンは、素晴らしい人でした。


彼は本当のオリジナルで、

これまでに惑星地球に住んでいた

最も魂のこもった人々の1人でした。



そして、彼はこれまでに

ルイジアナから出てきた

最もイ・カ・したブルーズマンだったのです。

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シェニエは、

(当時はブルース・ギタリストの

Phillip Walkerも在籍していた)

Zydico Ramblersと共に、

ルイジアナとテキサスでツアーを開始した。




(Phillip Walker)






1956年までに、シェニエは、

油田の仕事を手放し、

音楽だけに打ち込むに

十分なR&Bアーティストになっていた。





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1956年までに、シェニエは

彼のフルタイム注力を音楽、

ブルーズ・ギタリストPhilip Walkerを

含めた

彼のバンドthe Zydeco Ramblersのツアーに

捧げるために、

本業をやめたのだった。




1957年に、シェニエは Specialtyを去って、

シカゴにChess label と契約した。

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彼は
Etta James

一緒にツアーをしたのだが、




(Clifton Chenier &Etta James 




全米中でエスニックと地方スタイルの

人気が下降し始めたとき、

シェニエのキャリアは苦しくなった。


彼は1958~1960年に

CrowleyやLAに拠点を置くZynn label用に

13曲の録音をしたが

チャート・イン曲は

ひとつもなかったのだった。


                     (ウィキペディアより抜粋)

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