◆やはり彼女は”最後のブルーズの母”だった♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<レコード契約>>



彼女は念願かなって

14歳で初ステージを踏みました。




「タレントショーの

パフォーマンス・シーンに

登場しました。」







それから現場で

経験を積んで・・・。





「いいですね。」



「地方巡業のテントショーで

歌って踊ってツアーを継続しました。」






そしてブルーズ・ミュージックとの

運命的な出会い。






「彼女のグループ名は”レイニーズ”。」

「宣伝名が”ブルーズの暗殺者”」






(「彼女のグループ名は”レイニーズ”。」
「宣伝名が”ブルーズの暗殺者”」)






ちょうどブルーズ人気が

高まってきていたトコロに、


彼女の評判も急上昇!





「そんな彼女にレコード会社からの

オファーがあったのでした。」






<<マ・レイニー・ファイナル!>>



今回ご紹介するブルーズ・シンガーは

引き続き

マ・レイニーです。




(今回ご紹介するブルーズ・シンガーは
引き続きマ・レイニーです。)






彼女はレコード会社との

契約をする

その以前からもう25年以上の

キャリアの持ち主でした。






「と、言うコトは・・・。」


「25年間もファンを・・・。」


「変な例(たと)えですが、

作り続けていたと言うコトでしょうか?」






そうですね。

既に彼女のステージでの実績、

そして”名声は折り紙つき”だったと

言えます。





(既に彼女のステージでの実績、
そして"名声は折り紙つき"だったと言えます。)







「そうしますと・・・。」




「まったくの新人を、

それこそ・・・。」




「イチから宣伝なり、

巡業を含めた

キャンペーンを展開する・・・。」






「その必要はほとんど

いらなくなるか、

または、少なくて済みますネ!」







そうですね。



しかも、1920年代の

黒人女性シンガーなので、



契約金の方もカ・ナ・リ・

低く叩(たた)くコトも

出来たのではナイでしょうか。







「まさに出来レースと言えますね。」



「これは契約しない方が

おかしいですヨ!」








その彼女の宣伝文句が

"最後のブルースの母の発見"

だそうです。





(その彼女の宣伝文句が
"最後のブルースの母の発見"だそうです。)







「ちょっと失礼な印象を受けますが・・・。」






当時の彼女は38歳ですし、

それからぽっちゃりとした顔と

がっちりとした体格であったので、




*当たらずと雖(いえど)も遠からず

と言うコトではないでしょうか?





*当たらずと雖(いえど)も遠からず

ぴたりと的中はしていないが、

見当外れでもないこと。








「そうですね。」




「最後の・・・。をつける辺りが

彼女の先に彼女なし、彼女の後に彼女なし

と言う様に・・・。」






「彼女の実力を高く評価している点も

レコード会社側としての

ある意味での”覚悟(かくご)”が

感じれられますネ!」






それから彼女は精力的に活動を

開始します。





「OH !」





最初シカゴにて8曲を録音して

以後5年間レコード制作は続けられ



最終的には100曲を越えていたと

言われています。






「それは忙しいですね。」






その成果もあって

彼女の名声は南部まで知れ渡り・・・。






「するとツアーですね。」







そうです。


レコード会社も

気を欲(よ)くしてでしょうか?






「欲(よく)ですね!」^^







そうです。



彼女はアメリカ合衆国の

南部と中西部じゅうの

*Theater Owners Booking Association


(劇場オーナー・ブッキング協会)(TOBA) の

ツアーに乗り出したのでした。





(彼女はアメリカ合衆国の南部と中西部じゅうの
Theater Owners Booking Association の
ツアーに乗り出したのでした。)






*Theater Owners Booking Association
(劇場オーナー・ブッキング協会)(TOBA)とは?



1920年代と1930年代のアフリカ系

アメリカ人パフォーマーのための

ヴォードビル興行場で、

そのほとんどが白人オーナーによるものだった。







「ホウ~。」







彼女に人気・・・。


特に南部でのウケた理由が、


彼女の曲が

地方の文化に根付いたコト。




それと・・・。



ヤ・ハ・リ・歌謡力によるトコロが

大きい様です。







「なるほど。」







彼女の歌は、

貧困にあえぐ分益小作人、



それと・・・。



性的な虐待や不貞に悩ませられる

貧しい南部の黒人について歌っている

と言われていますので、







「なるほど。」



「当事者としての観衆の気持ちを

真っ直ぐに代弁しているワケですネ!」








そうです。




彼女はバンドを連れて

シカゴでもツアーを行ったのですが、





「ハイ」






それがやったりやらなかったり

ともかく、4年間は続けたそうです。







「先ほどと比べますと、

活動にちょっと勢いがない様に

感じますが・・・。」







実は途中、バンドリーダーが

病気を理由に

リタイヤしたりしたそうです。




ですが・・・。




「ハイ?」




活動に勢いが失くなった

一番の理由は、



ライブのヴォードビルの人気が

低調になったと言うコトです。






「なるほど。」







1920年代の後半、

時代はラジオとレコードに

取って代わられたのだそうです。




(1920年代の後半、時代はラジオとレコードに
取って代わられたのだそうです。)







「そうですか。」


「するとこのまま

彼女は苦しい時代を

過ごすのでしょうか?」







実は、彼女の場合は、

そのまま

レコード会社で録音を続けて、



彼女のネームの入ったバスを

購入出来るホド!


お金を稼いだそうです!!






(彼女のネームの入ったバスを購入出来るホド!
お金を稼いだそうです!!)






「O H ! ! 」






彼女は会社との契約が切れる

その前に20曲も録音していたそうです。






「いや~っ!素晴らしいです。」






それで1930年代に入りますと、

彼女と同じ古典的女性ブルース・シンガー達は

枯渇していったそうなのですが・・・。







「彼女は充~分に

お金を稼いでいたので・・・。」







そうです。

1933年にはユトリを持って

公演活動を

リタイヤするコトが出来たのでした。







「さすが、最後のブルーズの母!」


「母は洋の東西関係なく

逞(たくま)しいですネ!!」








☆Ma Rainey
(Lucky Rock Blues, 1924) Jazz Legend ♪


☆Gertrude 'Ma' Rainey -
 Screech Owl Blues ♪


☆Gertrude "Ma" Rainey-
Black Eye Blues ♪



☆Gertrude 'Ma' Rainey -
 Prove It On Me Blues ♪











☆マ・レイニー MA RAINEY


本名:ガートルード・プリゲッティ



(1886年4月26日- 1939年12月22日)





アメリカのプロ・ブルーズ・シンガーの中でも

ひとりとして、

そしてレコーディング・シンガーの

最初の世代のひとりとして最も知られている。



彼女は”The Mother of the Blues

(ブルーズの母)”

と宣伝されていた。






彼女の力強い声と気質が、


彼女の録音

(Paramount用の彼女の録音で、

それはレコーディング技術が普通より悪く



そして最も質の劣った

セラミック・クォリティー産業と知られていた。)

の上で捕らえるコトはないが、





他の特徴は存在しており、


そして彼女の初期の録音

”Bo-weevil Blues”


 ”Moonshine Blues”の上では明白だ。






マー・レイニーはまた

ツアーに加えてLouis Armstrong

録音をした。





(Louis Armstrong)






そしてthe Georgia Jazz Bandと

録音をした。





(the Georgia Jazz Band)






マー・レイニーは彼女の故郷へ戻っていった

1935年までツアーを続けたのだった。





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Bessie Smithは”ブルーズの女王”なら、




(Bessie Smith)






Gertrude “Ma” Rainey は議論の余地なく

”ブルーズの母”だ。





音楽歴史家クリス・アルバートソンは書いた、

「レイニーの前にブルースを歌った

もう一人の女性がいるならば、


誰も最初の彼女が歌ったコトなど

憶えていないかっただろう。」






「レイニーはブルーズのイディオムを育てた

そして彼女はカントリー・ブルーズの

クラシック・スタイルと土着の精神を関連付け

ベッシー・スミスを排出した。





彼女は Louis Armstrongと

 Fletcher Hendersonのような

卓越したジャズの伴奏者としばしばプレイした。





(Fletcher Henderson)






しかしホームでは、ジャグ・バンドまたは

ウォッシュボード・バンドの代表だった。」

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< 略 歴 >


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1923年にParamountレコードと歌手契約を結ぶ前に、

レイニーには、すでに25年間近くにわたる、

ステージでの実績と名声があった。





そのため、 Paramountレコードは、

彼女にステージと同じように

歌ってくれるように頼んだ。





"最後のブルースの母の発見"という売り文句も、

あながち外れていないのだ。


彼女は、レコードを作った時、38歳であった。

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彼女はパナマウントの

レコーディング契約にサインした。




そして12月に彼女はシカゴにて

最初の8曲の録音をした。




これらの録音には"Bad Luck Blues",

"Bo-Weevil Blues"


そして"Moonshine Blues"

が含まれていた。







彼女の制作は次の5年間、100曲を更に超えていた。




彼女の名声は

南部の向こうまで広まっていったのだ。






パラマウントは広範囲に

彼女を市場に担ぎ出した。




そして、彼女に"the Mother of the Blues",

"the Songbird of the South",


 "the Gold-Neck Woman of the Blues"

そして "the Paramount Wildcat"

などの歌を歌う様に要求したのだ。





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彼女は、伝統的な美しいルックスには

恵まれなかったにも関わらず-



彼女は、ぽっちゃりとした顔と

がっちりとした体格であった-


ブルースの女王らしく着飾った。




そのステージ衣装は、

ふんだんにスパンコールを飾ったガウンであった。


ステージの外では、

レイニーは性的な乱交で知られていた。


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1924年、彼女はLouis Armstrongと一緒に

"Jelly Bean Blues",


"Countin' the Blues"


そして"See, See Rider"などの曲を

いくらか録音した。





1924年、彼女はアメリカ合衆国の

南部と中西部じゅうの

Theater Owners Booking Association

(劇場オーナー・ブッキング協会)(TOBA) の

ツアーに乗り出し、




(Theater Owners Booking Association)





そしてTOBAの看板歌手である彼女は、

黒人と白人両方の観客に

歌を歌って聴かせた。





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レイニーの人気は、とりわけ南部の観客にとって、

カントリー文化に根付いた彼女の作曲と

歌う才能による部分が大きい。



彼女の歌は、貧困にあえぐ分益小作人や、

性的な虐待や不貞に悩ませられる

貧しい南部の黒人について歌っている。

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彼女はバンドリーダーそしてピアニストの

Thomas Dorseyを連れて行った。





(Thomas Dorsey)






そして彼が編成したバンドは、

Eddie Pollack, Gabriel Washington,


 Albert Wynn そして David Nelsonなどの





(Albert Wynn)






”Wildcats Jazz Band”と呼ばれた。






彼らは1924年4月にシカゴで出演

ツアーを開始して、

やったりやらなかったり

1928年まで続けた。






ドーシーは病気によって

1926年にグループを去って、


レイニーのコルネット奏者で、

 バンドリーダーになった

Fletcher Hendersonの妻、


 Lillian Hardaway Hendersonが

ピアニストとしてその後を継いだ。






1920年代の終わり頃に

ライブのヴォードビルは低調になった。


そしてラジオとレコードに

取って代わられたのだ。






レイニーのキャリアはすぐには

影響を受けなかった。


彼女はパナマウントで録音を続けて、

その上で彼女のネーム入りのバスを

買うためのツアーで

十分なお金を稼いだ。





1928年に、彼女は再びドーシーと働いた。


そしてパナマウントと彼女との契約が切れる

その前に20曲録音した。





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レイニーのレコーディング・キャリアは、

1928年に終わった。


6年間のスタジオ・ワークで、

彼女は、100数曲を録音した。





その中には、古典的名作である

"C.C. Rider" (別名:"See See Rider")


"Jelly Bean Blues,"



ユーモラスな"Ma Rainey's Black Bottom"


ディ-プなブルースの"Bo Weavil Blues."

等がある。




彼女は、そのキャリアの中で、

彼女自身のGeorgia Bandのような

無名のメンバーのバックで歌ったのと同様に、




コルネット奏者のLouis Armstrongや

Tommy Ladnier、





(Tommy Ladnier)





ピアニストのFletcher Hendersonや

Lovie Austin、





(Lovie Austin)





サキソフォン・プレイヤーのColeman Hawkins、




(Coleman Hawkins)





クラリネットのBuster Baileyといった





(Buster Bailey





有名なジャズ・ミュージシャンのバックで歌った。

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レイニーのキャリアは、

20年代に活躍した

他の古典的女性ブルース・シンガー達と同様に

1930年代には、枯渇していた。




しかし、十分に稼いでいたため、

1933年には、公演活動から引退することが出来た。

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1935年レイニーは彼女の故郷

ジョージア州コロンブスに戻った、


そこで彼女はジョージア州ローマで

1939年心臓発作で亡くなるまで


"The Lyric" と "The Airdrome"

の2つの劇場を経営した。






1983年、レイニーは

 Blues Foundation's Hall of Fame

(栄誉のブルーズ財団の殿堂)と

1990年には、

Rock and Roll Hall of Fame

(栄誉のロックンロール殿堂)に入った。








                          (ウィキペディアより抜粋)

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