◆ソロ・アーティストとしてのディケイド(10年)♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<音楽への愛をピアノに託(たく)して>>



1920年代に生まれた彼は音楽への愛を

実証するために、

ピアノをレッスンしました。。




「ハイ」





ハイスクールを卒業後、

カレッジにて化学の学位を修めて




「ハイ」




それから高校で化学の教鞭に立ちました。





「ホウホウ」






それからマスタードガス労働者、

1940年代には

カリフォルニア州リッチモンドで

造船所の見習い電気技術者などを経験しました。






「段々と音楽から遠のいている様に

思いますが・・・。」







そうですね。




1940年代と言えば・・・。





「ビッグ・バンドの全盛期ですね。」







(BENNY GOODMAN)



☆"SING, SING, SING" BY BENNY GOODMAN♪






その渦中にあって

黒人ミュージシャンたちの

スタイルは



ラフなブルーズの

パフォーマンスの中にも



クラブ・シーンにおいて

統合されつつありました。






「ホホ~ッ!」





ピアノ、ベース、ギターの

シンプルな編成で



軽いリズム・ベースの

ブルーズ・クラブ・スタイル





「ウ~ン」






右手でピアノを鳴らしながらの

スムースなヴォーカルが

人気を博しておりました。





「ホ~ウ」

「で、そのトリオとは?」





Nat king cole trio

(*ナット・キング・コール・トリオ)です。






(Nat King Cole Trio)



☆"It's Only a Paper Moon
" The Nat King Cole Trio♪






*ナット・キング・コール・トリオとは?



ナット・キング・コールによって

1939年にピアノ、ギター、ベースの

シンプルな編成から結成された。


ビッグバンドの時代における

コールの編成は革新的とみられ、

トリオバンド流行の火付け役となった。








人間、人気があり

世間の注目などを浴びていますと、



その人気に乗じて・・・とか。



またはそれに対抗して

コトを起こそうとするのが、


世に常ではないでしょうか?







「まあ、それは世間一般に

認知されているモノでしたら、


ワザワザ最初から

宣伝広告を打つ必要も

ないでしょうから・・・。


それは仕掛けるガワとしては

仕掛けやすいのではないでしょうか?」







そうですね。




そこで彼は彼らに対抗してのバンドの

ピアノとボーカルを担当しました。




(Johnny Moore's Three Blazers)



☆Johnny Moore's Three Blazers
- Groovy 78 rpm!







「OH! いきなり人気バンドの

対抗馬としてのデビューですか?」






そうです。

これがかなりバンドが意図的なのは、




「ハイ」





ちょうどナット・キング・コール・トリオが

全国ツアーでロスアンゼルスを

発った、その後に結成されたそうなのです。






「OH!」


「それでは彼らは対抗馬ではなく、

おこぼれ頂戴の二番煎じではないしょうか?」






これはレコード会社側の

マーケティングの一貫なので、

いい、悪いでは判断出来ないのでは

ないでしょうか?





「なるほど。」





それに、

聴きに来る観客のサイドの

音楽のセンスもカナリのモノか

と思われますので、



変な話し、

曲が良くなければ、



そして聴くく方たちの感性に合わなければ

すぐにでも、

そっぽを向かれるのではないでしょうか?





「なるほど。そうですね。

それに舞台は

当時のウエスト・コーストの

ある意味トップ・シーンなワケですからね。」






そうです。

それで彼はレコード会社と契約して

録音。





☆"Driftin' Blues"♪





翌年のUS Billboard R&Bチャートに

6ヶ月、チャート・インし続けて、

最高チャート2位までになりました。





「OH ! 」





それからもクリスマス・ソングなど

ヒット曲が続いたそうです。






「なかなかの健闘ですね。」






<<チャールズ・ブラウン登場!>>



今回ご紹介するブルーズ・マンは

チャールズ・ブラウンです。




(今回ご紹介するブルーズ・マンは
チャールズ・ブラウンです。






しかしながら、バンドというものは

厄介なもので・・・。




「ハイ」




”実際にフロント・マン

(人気をとっているの)は、

ピアノ、ボーカル担当の

オレ(自分)なのに・・・。”






「ハイ」


「これはひょっとして?

ヤッカミでしょうか?」







半(なか)ばそうです。


”それなのに何故(ナゼ)ヤツが

バンドの実権を握っているんだ?”


と、思ったそうなのです。





「それは同じバンド・メンバーとしては

面白くないでしょうね。」






そうです。

それで4年間在籍したバンドを脱退。

ソロとして契約し直しました。





そして、

そのファースト・シングルの

曲のタイトルは、

"Get Yourself Another Fool"

(訳: 誰か別の愚か者を見つけろ)


だそうです。






☆"Get Yourself Another Fool"
(訳: 誰か別の愚か者を見つけろ)♪








「ウ~ン。自己反省を含めつつも、

捨(す)て台詞(ぜりふ)様にも

聞こえます。」





「かなり怨恨(えんこん)漂う

タイトルですね。」










心機一転。ソロ・アーティストとして

活動を開始した彼は、



柔らかいトーンのピアノと

甘く滑らかで洗練されたバラードで



南カリフォルニア・クラブ・シーンを

支配していったそうです。





「 OH ! 」






1949年~1956年までレコード会社にて

R&Bチャートのトップ10に

10曲をランクインさせる成功を収めたそうです。





「ホウ」






その代表曲は1951年 R&Bチャート1位になった

"Black Night"です。





☆" Black Night "♪






「抑えた感じの甘いボーカル

メロディアスなサウンド。」


「そしてバックを

最小限の音にしているダケに、


その個々の音が

その存在感をハッキリさせていますね。」



「これが本当に50年代の曲なのでしょうか?」







そうですね。

当時は最先端だったのではないでしょうか?




それから1950年代も

後半になりますと・・・。





「ハイ」





レコーディングするも

彼の個性とバンドのマッチングが

叶(かな)わなかったり・・・。





「アレアレ・・・。」





その他のレーベルでも

約1年間在籍するものの・・・。






「ハイ」





リリースはシングル2枚のみとか・・・。





「ウ~ン」





1940年代後半~1950年代前半の

成功は再現するコト出来ずに

彼はレーベルを去ってしまったのでした。






「さて、彼の復活のチャンスは

巡(めぐ)ってくるのでしょうか!!」






☆Blueberry Hill - Charles Brown♪


☆Charles Brown Bad, Bad Whiskey ♪


☆charles brown/lost in the night (1945) ♪


☆charles brown/tell me you'll wait for me
 (los angeles, 1944)







☆チャールズ・ブラウン CHARLES BROWN


本名:トニー・ラッセル・ブラウン

(1922年9月13日- 1999年1月21日)



トニー・ラッセル”チャールズ”ブラウン

はテキサス・シティで生まれた。



チャールズは

アメリカン・ブルーズ・シンガー

そして柔らかいトーンのピアニストで、



スロ-・ペースのブルーズ・スタイルは

1940年代と1950年代の間、

ブルーズ・パフォーマンスの発展に

影響を与えた。






甘く滑らかで洗練された

バラードが特徴的で、

そのスタイルはレイ・チャールズなど

多くの後続ミュージシャンに影響を与えた。





(レイ・チャールズ)





彼は、"Please Come Home for Christmas"

(Eagles、
Bon Joviらがカバー



(Eagles"Please Come Home for Christmas")






(Bon Jovi"Please Come Home for Christmas")






”Driftin' Blues "

 " Merry Christmas Baby "などの

いくつかのヒット録音があった。







(" Merry Christmas Baby ")





< 生い立ち >


チャールズはテキサス州

テキサス・シティーで生まれ。




1939年ガルヴェストンの

Central High Schoolを



1942年に Prairie View A&M Collegeを

化学の学位で卒業した。




彼はそれからテキサス州ベイタウンの

G・カーバー高校の化学教師、



アーカンソー州パインブラフで

パインブラフ・アーセナルの

マスタードガス労働者、



1943年にロサンゼルスに定着する前に

カリフォルニア州リッチモンドで

造船所の見習い電気技術者になった。








< キャリア >



子供の頃、彼は音楽への愛を実証した。

そして彼はピアノのレッスンを選んだのだ。



早い時期にチャールズは

ロスアンゼルスに引っ越した。



多くの黒人たちの流入は、

彼らのスタイルの最小化された


ラフなブルーズの要素への

パフォーマンスの傾向の中で


ナイト・クラブ・シーンの統合が

なされていった。




軽いリズム・ベースの

ブルーズ・クラブ・スタイル


そして右手でピアノを鳴らし

スムースなヴォーカルは人気があり、

Nat King Cole

のジャズ・ピアノに集約された。




コールが全国的なパフォーマンスのため

カリフォルニア州ロスアンゼルスを

発ったとき、


彼は当時人気を博していた

ナット・キング・コールに

対抗する形で結成された

Johnny Mooreの Three Blazersに加入して、


それはチャールズ・ブラウンの

穏やかなピアノとボーカルを特徴としていた。







チャールズは1945年 Aladdin Recordsと契約、

そのレーベルで小さなコンボにより

"Driftin' Blues"は録音された。





("Driftin' Blues")





それは翌年R&Bチャート2位のヒットとなった。

US Billboard R&Bチャートに

6ヶ月インし続け、


アメリカン・ミュージカル・パフォーマンスを

変えた音楽的進化の最前線に

チャールズは身を置いたのだった。






1948年には、チャールズの

"Merry Christmas Baby"

同8位を記録するなど、

多くのヒットを生んだ。





しかしチャールズは、

自分がフロントマンであるにも関わらず

バンドの実権をJohnny Mooreが

握っていることに嫌気が差したていた。





(Johnny Moore)





1949年にバンドを脱退。

ソロ・アーティストとして

Aladdin Recordsと契約。


Aladdinからの

ファースト・シングルの曲のタイトルは

"Get Yourself Another Fool"

(訳: 誰か別の愚か者を見つけろ)

であった。






彼のスタイルはその期間の間に

Central Avenueで影響力のある

南カリフォルニア・クラブ・シーンを

支配した。



そして、彼は Floyd Dixon , Cecil Gant ,




(Floyd Dixon)





(Cecil Gant)





Ivory Joe Hunter , Percy Mayfield ,






(Ivory Joe Hunter)







(Percy Mayfield)






Johnny Ace そして Ray Charles

のようなパフォーマーに影響を与えた。




(Johnny Ace)







"Driftin' Blues"はいくつかのヒットの中で

最初の曲だった。


チャールズは"Get Yourself Another Fool",


" Black Night ",


"Hard Times"



そして "Trouble Blues"

をその後リリースした。





("Trouble Blues")





Aladdinでは1956年まで録音を続け、

R&Bチャートのトップ10に

10曲をランクインさせる成功を収めた。



この時代の一番知られている曲は恐らく

"Black Night" (1951年; R&Bチャート1位)であろう。






全てのメジャー・ヒットは1950年代初期の

AladdinならびにModern Recordsの様な

レーベルだった。







1956年、Atlanticのた用に

ニューオーリンズで行ったレコーディングは

彼の個性とバンドがマッチせず、




続いてチャールズは1959年、

シシッピ州ジャクソンのレーベル、


Eighthと契約するものの、

約1年間の在籍期間中、

リリースされたのはシングル2枚のみ。



アラディンの成功を再現することはできず

レーベルを去った。



                (ウィキペディアより抜粋)

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